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諸葛菜草叢記

 "窓前の草を除かず“ 草深き(草叢)中で過ごす日々の記

" 秋 茄子 " 考

2020-10-10 16:05:27 | 日記・エッセイ・コラム

 

    こども時分(じぶん)の 喰い過ぎで なすぎらいの

                 茄子ハウス栽培 専業農家主

                                 夢 蔡

 

  誠介さんは、昭和22年の生まれである。

  野を駆け回った成長期は、敗戦後、間もなくでした。

  農村部では、ほとんどが、「自給自足」的生活であった。

  農作業は、人海戦術そのもであり、大人たちは忙しかった。

  母親も、暗くなるまで、働き、それから食事の支度である。

  母親は、屋敷前の畑での “ナス”作りがとくいであった。

  夏から秋にかけては、三度三度、「茄子」が利用された。

  煮物・漬け物・うどん汁の糧・焼きナス、などなど・・。

  小学校の高学年ともなれば、農作業の手伝いであった。

  家に帰ると、新聞紙に、”消し炭”で、

  「沼下の畑にこい、」とか伝言されていた。

  その横に、”にぎりめし”と”塩漬け小茄子”が置いてあった。

  

  今や、農業は機械化され、農業資材も豊富になった。

  誠介さんは、現在、茄子栽培用の温室ハウスを5棟もっている。

 

  彼の茄子は、青果市場では、一級品の高値が付く。

  しかし、誠介さんは、茄子を食べない。

   

   ーーーーーー≪≫------

  

  写真は、我が菜園の【 ナ ス 】である。

   今年は、いま現在、”茄子木”の勢いが衰えない。

   7月いっぱいの雨で、根が良く張ったせいかもしれない。

   いまだによく生(な)っている。

 

  ネットで、ナス・レシピを検索して、料理している。

  夕餉のおかずが、一品助かっている。

  世は、一応、平和なのである。

 

  薩摩芋(さつまいも) 南瓜(かぼちゃ)嫌いの

  人ありし

  飢えを知りたる 世代 老い ゆく

                    夢 蔡

 

 

          -----<了>-------

 

  

  

  

 

 

 

  

  

 


拝啓 ご無沙汰しましたが~#

2020-10-07 14:00:37 | 日記・エッセイ・コラム

 

  園(その)に座(いま)す 哲学貌(てつがく がお)の

  岩石(いわ)猿に

  自堕落(じだらく)抜ける 道を尋(たず)ねむ

                              夢 蔡

 

  時間は、たっぷりあった。

  コロナが、流行りだして、出歩くこともなかった。

  PCの前には座るが、どうしても、ブログを開く気になれなかった。

 

  GO-TOキャンペーン実施で、世間が緩んでいる。

  マスクして、久々に、【市民の森】に出かけた。

  園の入り口から5分たらず、岩石猿の前に立った。

  そうして、お告げを待った。

 

  岩石猿 ーー

  「ゆっくりとした『腹式呼吸』で、3周したまえ~

  血液が全身を駆け巡り、筋肉がほぐれ、

  頭が回り始めるであろう。

  しかる後に、家に帰り、以下を熟読したまえ~ 」

 

  ――

   解りました。早速のご返答ありがとうございます。

   家に帰り、実行いたします。

 

  【 徒 然 草 】  (第7段)

  「 命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし、

   かげろうのゆうべを待ち、夏のせみの春秋を知らぬも、

   つくづくと一年を暮らすほどだにも、おこよなのどけしや。

   飽かず惜しと思はば、千年を過ぐとも、

   一夜の夢の心地こそせめ。」 

   

  *訳注 

    「 色々、見渡しても、人間ほど 長生きするものはない。

     カゲロウは、一日でも早くも一生をおえる。

     蝉は、春秋を知ることもない。

     日々の時間を大切に、一年を暮らす。

     無為に過ごすことが惜しいと思えば、

     千年だって、一夜の夢のごとくに思えるだろう。」

 

   読み止しの 本を抱(いだ)きて うたた寝し

         眼鏡(メガネ)が痛し 西日がまぶし

                               夢 蔡 

            

              -----<了>----

     

  


夏椿 はかない美しさ

2020-06-18 18:30:28 | 日記・エッセイ・コラム

 

   - それは、ある僧侶の勘違いから始まった ー

 

   沙羅双樹(さらそうじゅ) 探(さが)し探(さが)して 奥山へ

    釈迦(しゃか)の導(みちび)き  *沙羅の木のあり

                                    群 峰   

 

   お釈迦さまが、入滅の時に四方に繁った ”沙羅双樹”が、

  ”日本のどこかで”も、きっと白い花を咲かせている。と

   信じて疑わなかった僧侶は、山奥で”夏椿”を見つけた。

   「あった~# これぞー これぞ沙羅の木である。」 

   

 以来、本堂前に、夏椿が植えられた寺院を、いくつも見つけられる。

  そこにあるのは、”沙羅の樹”なのである。(夏椿ではないー

 

       祇園総舎(ぎおんそうじゃ)の鐘の声

       諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色

       生者必滅の(ことわり)あらわす。

  

   「平家物語」の七五調美文の広まりで、”寺と夏椿”の風景は、

   ますます、”寺と沙羅の木”として庶民の間に定着する。

 

    ---< かくして・・・・こんにちでは、

   ”花木センター”などに行っても、夏椿は、人気がある。

   この村内でも、数件が、庭先に植えこんでいる。

 

 

 

 

  なつつばき 幾重(いくえ)に白く 幾重(いくえ)にも

         落ちて錆(さび)いろ  ぬし逝(ゆ)きし家  

                                夢 

  

   植木好きの大工の源さんは、早朝に、花木の手入れをして、

   仕事に就いたものだ。

   

    ある朝のこと、かれは、起きてこなかった。

    急ぎの仕事で、その晩遅くまで、がんばった。

    一杯飲んで寝たのだが、それが最後であった。

 

      生者必滅   ああー! 無情ーーーーー

           -----<了>-------

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 


あぢさいは濃き 淡く

2020-06-11 09:54:50 | 日記・エッセイ・コラム

 

  あぢさゐの 色濃く満(みつ)る 古る家は

      人みな去りて  玻璃窓(はりど)軋(きし)みし

                                 夢 蔡

 

    

 【 ア ジ サ イ 】 その名の由来は,よく解っていない、という。

 『藍(あお)があつまったもの』 を意味する、

 あづさい=「集真藍」がなまったの説がある。

 アジサイは、その原種は、日本の山野に生える 

 【ガ ク ア ジ サ イ】である。

 写真の様な咲き方は、改良種で、「手まり咲き」という。

  

   *注 (文面は、以下を含め、自分自らの確認のため 

           ウキペディア・参です)  悪しからず・・

 

 かの有名なシーボルト先生は、アジサイの美しさに感動ー!

 日本人の妻 「おタキさん」の名をとって、

   [ Hydrangea  otkasa ]と命名したのは有名である。

 欧米でも人気をははくして、改良される。

 それが、逆輸入されて、さまざまな”花容”のアジサイが見られる。

 上記の写真は、すべてが、「装飾化」の集合であります。、

 従って、自らは、種子を創れません。

 あくまでも、飾りであります。

 植物にとって、【花】は、いかに昆虫たちが来てくれるかです。

 アジサイは、その外側を”豪華な花びら”が取り巻きます。

 しかし、それは「装飾花」で、昆虫へのアプローチが目的です。

    (派手なネオンと言えば失礼かナ~)

 奥処(おくど)には、メシベ・オシベを持った小花たちが、

  鎮座し、待っているのです。

 メシベ・オシベが、子孫を残すために、

 外側から、「装飾花」は、”昆虫誘引”に頑張っているのです。

 いわゆる、「分業」戦略ともいえます。

 

 さまざまな戦略をもって、植物たちは、繁栄をしております。

 

        「 恋においては、ほとんど常に、

         騙(だま)しの手管(てくだ)の方が、

         警戒心よりも一枚上手(うわて)である。」

                   (ラ・ロシュフコー「箴言集」)

 

 

              

               ------<了>-----

       

 

 

 


昭和 遥(はる)けし

2020-06-06 15:42:08 | 日記・エッセイ・コラム

 

     桑の実を 食(は)みて野を駆(か)く 昭和の子等

              悔(く)いることなく 老いを生きしか

                                   夢 蔡

 

 戦後の跡がまだどこかに残っていた、昭和30年以前は、農村は、

 貧しく、子供たちは、いつも野原を走り回っていた。

 消費文化は、まだ遠い将来の事であった。

 

 子供たちは、腹が減れば、”桑の実”を食ったものである。

 実った小枝を、折り取って、頬張った。

 子供たちは、”桑の実”なんて、洒落たことは言わない。

  *【 ド ド メ 】と呼んでいた。

  ”赤痢”なんていう言葉が、実感として、生活の場にあった。

   そういう時代である。

   あたりかまわず走り回りまわり、泥だらけで遊ぶ子供たち。

   そんな姿の子達の食べ過ぎは、親にえらく怒られた。

   それでも、見つければ、かまわずに食った。

   しかし、たくさん食べたことは、すぐにばれる。

   口の周り、前歯が、濃紫色に染まっているからである。

   

   *注 【 ド ド メ 】=「土留め」である。

   「土留め」とは、その昔、”桑の木”を土手の”土留め”にした。

   「土留色」=「ドドメ色」は、「黒紫色」を指す。(関東)

 

  この地方は、養蚕が盛んで、広い面積の桑畑が、

  あちこちにあった。

  桑畑を、”桑原”(くわばら)と呼んでいた。 

  本当に、桑は、原野のように広がっていた。

 

  【 ド ド メ 】は、いたるところにあった。

  桑の実の思い出は、美しく濃紫色に列して実っていた、

  とか言う、情緒感ではない。

  それを、「 おもいきり、食った--」である。

  

  その頃の思い出は、いつも何かが足りなくて、

  どこか貧しさを引きずっている。

  

  それから、数年して、「もはや、戦後ではない」時代が来る。

  あっと言う間に、農村地帯も、消費文明化して行く。

 

    「 過ぎ去ればいつだっていい時代である。」

                    『後退的実体の法則』

            

 

  

            -----<了>-----