諸葛菜草叢記

 "窓前の草を除かず“ 草深き(草叢)中で過ごす日々の記

【小癒見(こべしみ)】はかく語りき

2008-07-31 16:07:31 | 日記・エッセイ・コラム

Ca390106 2.「 奢れる者は、栄華の巷を低く見ずに、溺れる。 」

 ♪ 嗚呼 玉杯に花うけて  緑酒に月の影宿し(・・略・・)

 ♪ 芙蓉の雪の精をとり  吉野の花の華を奪い  清き心の益良男が 剣と筆をとり持ちて  一たび起たば何事か  人世の偉業ならざらん ~#

♪   濁れる海に漂える  我が国民を救わんと  逆巻く波をかきわけて  自治の大船勇ましく 尚武の風を帆にはらみ  船出せしより十二年~ #  (矢野 勘冶作詞  明治36.2月発表)

★ 明治35年 1902年は、日英同盟が成立した年であり、2年後、日露戦争が始まる。時代は、騒然としている。こうした時節に、苦学力行の結果に、国の選良とそて席を得る。歌はその気概であり、決意表明は、おおいに、結構なものである。しかし、100年と少し過ぎた今日では・・・・・・。 

★ 平成10年 (1998年) 4月29日 日記を、其のまま書き込む。 

■ 能吏の実像   「 調整に酔い、時代遅れ 」   『 終焉 ・ 日本型システム 』と言う、 シリーズの見出しである。(ASA新聞) 経済部 記者 署名あり。

「  国造りのグランド・デザインを描くのではなく、予算、法案を順調に通す根回しの功拙、関係業界の言い分を聞き入れ納得させるのが、『官僚の力量』の尺度だった。・・(略)・・ 」

★  いまや、 「 官僚 」は、醜聞を垂れ流している。要するに、能吏たちは、(彼の匙加減の能力)は、群がる金融・証券・生保・土建、その他総ての業界団体の宴席に招待され、選ばれし者として、酔いしれた。宴席に招待された見返りは、「税金」としてプールされた、国民の財産を、分けばら撒き、上手く使うことである。▼ 例えば、 ノーパン・シャブシャブは、下品で、愚劣極まりない。こうした遊びを無神経に出来る人間が、金融に関して、世界の国々と交渉に当たる。それって、信用出来るかね。それに、スキャンダルに関わった人は、国内向けに、色々言って誤魔化しているだけである。、マスコミも、証拠不十分で、攻め切れていない。政・官・財となると、及び腰で、最後まで追求しない。しかも、マスコミは、自分たちの日本的スタンダードでモノを言っているだけだ。内向きの記事しか載せない。▼ 凡そ、対外的交渉とは、情報に基ずいた、戦略、戦術のぶつけあいだ。日々、ジャパニーズ・ウオチャーは、巷間に流れ出る情報を、精査しているだろう。日本の情報発信力の無さは、笑い者にされているに、、チガイ ない。 ▼ 結局のところ、「 栄華の巷を低く見て 」いる間は、我慢する時期で、権力を手にすれば、栄耀栄華の気分を味わう事が出来る。その為の「 船出せしより十二年~# 」だった、と言う事になる。従って、歌詞とは、逆で「 濁れる海 」に漂える国民は、全く、救われない、結果と相成る。( この文章は、【小 癒 見】が、記者の意見を参考に、敷衍したものである。)

Ca390070_2 【 小 癒 見(こべしみ) 】は、続けて 言う。

 この記事を、まとめた経済部の記者氏に一言。まずは、記者氏の意見から。

「 戦後、官は 天皇のものから、『 国民すべての奉仕者 』になった。その原点に立ち戻り、あらゆる情報、組織の力量を生かした将来構想を、納税者、そして、国会に示していくことが、行政再生の第一歩ではないか。国民も、傍観者でいられなくなるだろう。 」 

▼ 建前としては、結構な意見である。誰も反対は、しないだろう。しかし、この点にこそ、詰めの甘さがあるのだ。 日本の良識を代表する〔 それほど、大上段ではないかナ ?最近では )天下の大朝日の 第一面に署名入りで、書くことが出来る、記者氏は、そこいらの駆け出しとは、わけがちがうだろう。「 原点に  立ち戻り・・・  」 だって・・? こんな言い回しは、カビの生えた修辞だ。悪事を働き、バレた奴が、反省の会見で、「  初心に帰り・・・・。 」なんて、言い訳をする。こうした慣用句で終わってしまう事例は、この国では、日常茶飯事だ。大日本帝國時代は、帝大、陸大、陸士のエリート達が、天皇の名に於いて、国を壊滅させた。( このエリート達は、学歴主義が、生み出した 官僚軍団なのだ。 ) 戦後60年たって、今日では、民主主義体制と 国民の名に於いて、【 官僚と政治家・業界 】集合体が、総てを、欲しい侭にしている。この体制は、彼らによって、自らの利益追求のために、独占的に利用された。、民主主義という社会体制は、全くと言っていいほど、機能せず、アノミーの状況を生み出している。まずは、ここから、出発するべきである。

▼ 「 国民も 傍観者で いらなくなる。 」 確かに、その通りである。国民は、タックス・ペイヤーとしての自覚も薄い。と言うよりも、伝統的に、民が、税をコントロールした歴史はない社会である。一般大衆は、日常生活が、忙しく、1000円、2000円で踏み迷っている。或いは、こういってよければ、踏み迷うように、コントロールされている。情報開示が、恐ろしく制限されている事の事実が、それを、証明するだろう。

▼ 記者氏よ、貴方は現役のプロだろう。一般大衆と違い、かなりの情報に接する立場に居るはずだ。「 国民も・・・・」 どうして、此処で、主語が、入れ替わるのか。この入れ替えは、明らかに、論争を避けている。せっかくの署名入り記事なのだ。主語は、最初から貴方だ。「 オレは、傍観者ではない。事実の総てを、記者生命に賭けても、取材し、読者〔国民)に、真実を、伝えるつもりだ。 」 くらいの大見得が、有ってもいいのではないか。中途半端な告発は、結局は、当事者たちを、安心させるだけだ。

※ 注 添付した写真は、【 フ ヨ ウ 】 である。アオイ科の落葉低木。東アジア暖地原産。夏から秋にかけて淡紅もたは白色の一日花を開く。観賞用、樹皮は製紙に用いる。花芙蓉、白芙蓉、紅芙蓉、酔芙蓉、芙蓉一花。 この花が、咲く時期に、一高寮歌の 「 芙蓉の・・・ 」のフレーズを思い起こしている。この寮歌を、使ったコラムを、書くときには、「芙蓉の花」を添えるものと、決めていた。しかも、「 芙蓉の花の 精をとり 」だと思っていたから、始末に悪い。〔反省) 寮歌の芙蓉の雪は、芙蓉峰の雪、つまり、富士の高嶺の雪とすれば、いいわけだ。

  ♪ 富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪にかわりは ないじゃなし 解けて流れりゃ みな同じ ~#

  どちらかと言うと、少々デスペレートの感はぬぐえませんが・・・。

 ★ 人々は、日常的に、瀕死で、危うい生をいきている。今日、特徴的なのは、人々の具体的な現実が、その原因・結果を、明確に意識されない様に、巧みな修辞法によって、表現されていることだ。人々が、抱え込んでいる現実的諸問題に 迫るための方法や、手段を提起することない、その多弁さは、実は、限りない ≪ 空  白 ≫ を作り出しているに、過ぎないのだ。

 


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