諸葛菜草叢記

 "窓前の草を除かず“ 草深き(草叢)中で過ごす日々の記

ドクダミ・(十 薬) ソーニャの祈り

2009-06-21 18:52:44 | 日記・エッセイ・コラム

  ドクダミは、跋扈する花である。到る所に生える。樫ぐねと家の間の空き地、歌壇の隙間に入り込んだら、他の花を圧倒うする。普段は、雑草として、処分されます。しかし、根・茎・葉共に、薬効がある。腫れ物に葉を揉んで付けておくと、膿を吸い出してくれる。試してみたことがありますが、実際に、よくききます。このように、毒を矯める・止めるから、ドクダミとなったとされていますが、名前で、損をしています。

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  十薬の 四つの花びら よごれざる   〔友 次 郎)

 白い四つの花びらは、笣(ほう)と呼ばれる葉が変形したものです。真ん中に立ち上がっている黄色い穂状のものが、小さい花の集まりです。

  日影の小暗がり、ドクダミの群落、無数の純白の花をつけております。星をちりばめた、少宇宙のようです。

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  ザクロの花に、杞 陽さんは、ラスコリニコフの燃ゆる瞳を見ました。長編「罪と罰」には、ソーニャという大変に美しい女性が、登場します。彼女は、貧しいがゆえに、苦界で生活の糧を得る不幸な日々を送ります。ソーニャは、敬虔なキリスト教徒です。罪を犯しつも、ラスコリニコフは、自分を正当化することに、必死です。そして、愛するソーニャに救いの手を伸べようととします。二人は、惹かれあっているのですが、彼女にしてみれば、受け入れ難いところです。▼ 私は、そう熱心な読者でなかったので、ラスコリニコフの煩悶など、飛ばし読みして、ソーニャと、何時ハッピーエンドにかるか、追っかけたりしたものです。しかし、最後の最後でした。、エピローグで、二人の愛は、やっと成就します。

   十薬の 白き十字は ソーニャの祈り   (夢  蔡)

  俳句でもなんでも在りません。ただ、七五調で言ってみただけです。

  


栗の花 の風雅 その後

2009-06-20 13:58:11 | 日記・エッセイ・コラム

 芭蕉の風雅の世界を、話のマクラにして、私なりの 苦し紛れの風雅を申し述べました。いったん、栗の花について、書いてみますと、その後が気になるもんです。、雄花は、殆んどが、茶色に変色して、時おりの風に乗って地に舞います。「閑花地に落ちて 聴けども 声は無し」です。▼ 雌花を撮った枝に近ずき、観察いたしました。閑人(ひまじん)は、こう言うこと、すぐ実行できます。

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  直径5ミリの小さい栗が、育っておりました。周りには、細い鋭い棘が生えそろっております。まだ、雌花が白く花開いております。殆んどの雄花は茶色く変色して、落ちだしました。それでも、上部には雄花多少のこっており、その花粉を待っているのでしょうか。健気にも、可愛い雌花が一つまだ花びらを開かせております。あっそうか、栗はイガの中に、3個くらいの実がはいってるのは、雌花が幾つもあるからか!?

   罪は男に  罰は女に 栗の花  (鷹羽 狩行)

  この句の作者は、どういう方か、存じませんが、意味深な表現に興味がそそられます。役割を終えると、たちまち落下する雄花に、哀れを感ずるのですが、自然は、そう無駄なことをいたしません。必要なくなったら、余計なエネルギーは使わない。これが自然の良いところでしょう。

   「 罪つくり・・ 」  この言葉、男 心を揺さぶるものです。さる【お酒飲み処】で、若い子に隣にヒタリと座わられ、「マア~、どうぞ。素敵なネクタイ、お若いわね~。」なんか言われて、ついつい余計に召上ってしまいます。幾つになっても、この「罪つくり」の心情が、抜けないのです。。だいたいネクタイを先に誉めるなんて、ほかに誉めようがないらです。

  身重の苦労・産みの苦しみ・・・。「 罰は女に・・・ 」 こういってしまうと、みもふたも無いのですが、今日、子供は、国の礎であります。国を挙げて少子化問題に取り組んでおります。

  栗には、頑張って、沢山の実をつけて頂きましょう。人間、学ばなくては!

  ■  万緑 叢中 紅一点・・・・

   今回は、栗の花のその後の様子で、終わろうとしておりました所、思わぬ俳句に、出会ってしまいました。もっとも、お話のネタ元が、俳句歳時記などに頼っているからですけど・・。以下、ザクロの花についてであります。   

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      花石榴  燃ゆる ラスコリニコフの瞳  (杞  陽)

    「 ラスコリニコフ 」 なつかしい名前に、めずらしく出会いました。あのドストエフスキー「罪と罰」の主人公です。この小説は、昔々に読んだだけで、すっかり記憶のそとです。

    ラスコリニコフは、元大学生、たいへんな美青年です。しかも、非凡な才能の持ち主です。個人主義者で、意志の自由な発現こそが、人間の個性的実存の究極の在り方だと、確信します。そして、自分は非凡人であるが故に、凡人である、非情な金貸しの老婆を殺しを、実行してもよしとするのです。▼ 非凡人の才能の開花は、凡人の犠牲の上に成り立ちうるか?、大変に重いテーマを、罪と罰は、論じ続ける長~いお話です。今では、こうした重いテーマは、頭が痛くなるばかりです。鮮やかな真紅のザクロの花を、《燃ゆる ラコリニコフの瞳》と見立てた、俳人 杞陽さんの真意を知りたいところです。どのように燃える瞳なのでしょうか。己の打ちたてた理屈に酔う瞳、挫折と深い悔恨に根ざした、惟一点を見つめる瞳・・・。

   万緑 叢中 紅一点・・・。緑陰は、ますます濃くなってきました。ザクロは、陽気な花のイメージです。目立ちます。なんに例えるでもなく、だだ、その真紅の花容が、大好きであります。

   調べましたところ、花言葉は、【 円熟の美 】だそうです。この方が、シックリ来ます。円熟か~!いい響きです。

   多数の種子をのぞかせる熟れた時のザクロの実、【 子孫繁栄の印 】と言われております。また、その絵を、飾って置きますと、【 子宝に恵まれる 】とか、まだの方は、お試し下さい。

  国を挙げて、少子化問題に取り組んでおります。いっそのこと、「ざくろの木一本運動」でも如何でしょうか。各家庭に植えるポイント券発行・・・・・。だめか!だね~。これは、

  


梅雨の花 三題

2009-06-11 22:01:02 | 日記・エッセイ・コラム

  関東地方は、梅雨入りしました。雨は、少々、陰鬱ですが、これも、「四時の行い」です。草木大地には、必要なことです。十分、水を含みました。茄子、キュウリは、日に2~3個くらいの収穫になります。ミニトマトは、一枝10個ほどの青い実をつけて、5枝が、重く垂れ下がっています。、もうすぐ赤くなるでしょう。雑草群落のイネ科のものは、穂をつけ背丈を、延ばします。、匍匐するカネムグラは、さらに、空き地を埋め、盛りあっがってきています。さて、この時期に、時を得て、咲く花々も、いよいよ盛りです。

  ■  梅雨に咲く 露の華

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  昨夜来の雨は、上がっている。庭先を数歩、歩く。ふと足元に目をやると、花が、終わったばかりのサツキに、なんと、また花が咲いているでは、ありませんか。花びらは、透明な水玉で、朝の陽を宿して、光っております。黒い穴の奥底から清水を、吹き上げて居るようで、幻想的でもあります。古代人なら、さしずめ、聖なる神の啓示を見たかもしれません。光をおびた水玉は聖水です。これが、雨上がりの後にしか咲かない、【露の華】です。※(注・1)

  ■  紫 陽 花

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    梅雨に咲く花と言えば、アジサイが、まあ、代表選手みたいなもです。「五月雨の降りつ前裁に、おおきなあじさいの花の毬が、うち叩かれいる様子などよく見かける。、昼寝の後の眼には、はっきりと色異に眺められる。」と『 歳時記』 にあります。「昼寝のあと・・・」なんてところは、虚子先生、自宅の庭の紫陽花を見て、『季語』の説明を編ぜられた、ご様子が覗われて、微笑ましくもあります。▼ このご近所でも、一軒に1・2本は、咲かせております。直ぐお隣さんは、『墨田の花火』なんて園芸改良種を自慢されております。よく親しまれている、メジャーな花です。

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    アジサイは、青い花が、固まって咲くので、【集(あず)・真(さ)・藍(あい)】と呼んだためと伝えられております。私ども日本人との付き合いも、相当古く、万葉の時代には、すでに、抒情の世界に登場しています。「紫陽花の 八重咲く如く やつ世にを いませわが背子 見つつしのばむ 」〔万葉・20) 約12~300年の間の連綿とした、お付き合いと言うことになります。

 毬形の普通何処でも見られる紫陽花は、原種を、ガクアジサイ〔写真)として、日本で生まれた園芸品です。江戸時代中期から、改良が盛んだったようです。花は、殆んどが、装飾花で、雄しべを持った花はありますが、雌しべは、退化しており、従って、結実いたしません。▼ 装飾花の色は、多彩です。赤紫・青・白とその中間の色合いは、殆んど見かけます。土壌の質によって、花色は、アルカリ性は、赤の方へ、酸性は青と変化するようです。▼ 別名も沢山あります。- 七変草 八仙花 刺繍花 手毬花 瓊〔玉〕花 紅がくーーetc.こんな具合ですが、花の様子から連想された、洒落たネーミングです.。

  「 紫陽花の 大一輪と なりにけり 」  俳句に詠われております。紫陽花が、咲き誇り、まるで、木全体が、一輪の花に成ったように見える様子が見えます。しかし、華々しく、幾つもの【装飾花】を、咲かせ続けるには、紫陽花の【木・葉・根】は、相当のコストを負わねければならのではないか気になります。装飾ー化粧ーに懸命になる女の子、養う親の関係と言ったら、わかりが、早いかも。しかも、コストをかけた割には、【実らない】と来たら、身につまされる方は、多いのではないでしょうか。

  生えた土壌による花の色の変化、【改良】という【外部圧力】に対応しえた能力があった。。だから、今では、日本全国到る所に、紫陽花は、花を咲かせることが出来たのではないでしょうか。。小さな虫たちを、媒介にした繁殖方法は、季節の制約を受けます。しかし、人間の好奇心を利用したほうが、遥かに有利でしょう。こうして、温暖な山地にしか、住み処がなかった、アジサイは、生息域の拡大を図った。これぞ アジサイ【DAN】(遺伝子) に秘かに組み込まれていた、子孫繁栄の大戦略のように思われます。 

  紫陽花 曰く 「山は、開発され尽くしております。山腹を走る何本もの舗装道路、トンネル、ゴルフ場、分譲地のために削り取られた日当たりの斜面。棲みにくくなったものです。その点、広々とし明るい平野部はいいものだ。それに、黙っていても、人間たちは、手入れを怠らないし・・・結構なことです。ハイー。」

     ■  露 草

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 『 露草の  をはりの瑠璃の 一雫 』(葭葉 弘子)  俳人の観察力・表現力には、毎度、感服いたします。露のイメージなのでしょうか、季語としては、秋になっております。しかし、梅雨の時期に、、路傍の廃土の盛り上がりを覆いつくすほどに、群がりて咲いていたり、裏庭の雑草群の一画を占めて、青い小花を立ち上がらせていると、つい応援したくなります。露草は、やはり、梅雨の花です。

  ツユクサも、日本の人々との付き合いは、長いようです。★ 「 つき草に 衣色どりすらめども うつろふ色いふが苦しき 」★〔万葉 巻7)と、既に詠われております。もっとも、万葉の時代には、染料として利用されていたようです。つき草→着き草→月草→露草と、やがて、その呼び名も変化していったとされています。(野草大百科ー北陸舘) 朝日が射すのを待って、花を開き、昼頃には、萎んでしまうので、儚さの代名詞ような【露】とコラボしたのでしょう、露草が一般化いたしました。

    ツユクサの花の構造を、よく知りませんでした。( 栗の花の時もそうでしたが・・。)、ふつう梅、桜など、雄しべ、雌しべはすぐわかります。ものは試しで、咲き残っていたサツキの花で確かめてまいりました。花びらから、グット突き出された、5本の雄しべとその奥にある雌しべを確認することができました。▼ツユクサでは、どうか・?牧野図鑑に当たりましたところ、花の先へ、つきでている3本のうち、真ん中の一番長いが【雌しべ、】 左右が【雄しべ】でした。〔写真・参) 雄しべの黒い先端部は、もう少し時間が経てば、黄色い花粉部を開くようです。花の中間に黄色く立ち上がっている部分は、先に開いた雄しべのようです。奥の3個は、どうもオトリのようです、小蜂が突いていました。

  ▼ 1:30pm 受粉後、青い花びらが、雄しべ、雌しべを、すっかり包み込んで丸くなっておりました。5:30pm 花の咲いていた部分は、3mm位の【緑の包み】になっておりました。青い花びらといえば、点のようにかすかに残しているだけです。更に、【緑の包み】は、サヤによって覆われて、保護されます。巧妙な仕掛けです。興味は尽きませんが、この位にします。

   青い小花(2cmくらい)の容姿と、名前からくるイメージとは別に、強い生命力を持っているのがツユクサです。田んぼっ川の岸辺などで、草刈の時には、この草を、流れに落とすなと言われております。流れ着いたところで、再生し根づき繁茂するからです。将に、着き草の名に、ふさわしくはありませんか。

 『 低栄養だと雄花になる ? 』 これは、A新聞の「小見出し」です。数年前のものですが、本文をノートしてありませんでした。町の、図書館で、数冊の図鑑に当たりました。、「見出し」の様な、アジサイの生態を説明したものはなく、裏づけがとれません。そこで、以下は、私見といたします。▼ ツユクサは、栄養素のきわめて少ない土地に、根を下ろしてしまった場合、雄花だけになるのは、【生殖成長】を、とりあえず諦めるからである。{雄しべ・雌しべ=受粉}→〈結実〉の生殖作用は、それなりのエネルギーが、必要でしょう。、それに低栄養だと、上手く実らないかも知れません。▼ それでは、どうやって、子孫を増やすか。今で言う「危機管理」とでもいいましょうか。

  ツユクサが、強い生命力の持ち主であることは、先に申しました。生長を始めますと、茎は、よく枝別れして、下部は、地をはってふえ、上部は斜め上に向かって伸びます。そして、節の部分から根を出しで、生育面積をふやして行きます。まず、、【 栄養生長 】に全力投球をいたします。十分な栄養生長して。体力を蓄え、【雄しべ・雌しべ】のそろった花を咲かせ、実を結び無事に子孫を残していく。たいしたもんです。

    露草も、頑張っています。強かです。梅雨の合間の薄日に、青い小花が、立ち上がっております。  これで、梅雨の花 三題は、終わりといたします。

  追  伸

  ♪ 雨がふります。雨がふる。 けんけん小雉子が今啼いた。 小雉子も寒かろ  寂しかろ~#

  これは、北原 白秋の「雨」と言う童謡の3番です。この歌詞を見て、すぐに歌える人は、昭和20年以前に生まれでしょう。

  我が家の西側は、ゴボウ畑が広がって、川まで続いております。茎は胸丈に生長し、大きい葉が地面を、すっかり覆っております。河原から遠征して来たのでしょう、『ケーン ケン』とキジの啼く声が、ゴボウ畑から聞こえてきます。本当に、聞こえるのです。「ア~!また聞こえました。『ケーン ケン』」

    ※注・1  コモリグモという名の蜘蛛がおります。写真は、きめ細かく編まれた蜘蛛の巣に 雨粒がついたものです。

  関東の 北のはずれの  畑野なか われ退屈し  花とたわむる  夢 蔡

       11:30 pm

  

 

 

  

   

  

   

   

  

  

  

  

  

  

  


子猫 葉かげで昼寝の物語

2009-06-07 17:33:10 | 日記・エッセイ・コラム

  【 栖栖(せいせい)たり  世中の事  歳月と共に相疏(あいそ) なり 】(陶淵明)まさに、こような一日送っております。生活の中で、曜日が、あまり意味を持たなくなってしまいました。

  五月上旬のこんな折に、三匹の子猫が生まれました。隣の物置小屋くらいに、思っていた。母猫は、いつもその方向行くからだ。しかし、気になる。ある日、物陰かに身を潜めて、母猫の行く先を見ていた。▼ 母猫は、、こちらの気配を感じて、しばらく動かなかった。が、やおら、目の前の古くからある樫の大木に駆け上がった。1・5メートル程の高さで大きく枝分かれした所に、しばらく留まっていた。どうせ、こちらが、諦めたら、飛び降りて、草むらの先の物置小屋まで・・・、と思っていた。しかし、いっこうに草むらは、揺れ動かない。はて・・?

  樫の木に近ずき、母猫が、飛び乗った部分を、覗いた。見ました。普段、全く気ずか無かったが、そこには、かなり大きい洞(うろ)があり、、母猫が、鋭く目を吊り上げ、怒りの声をあげ、こちらを睨んでいるではないか。其処が、親子の隠れた棲みかであった。▼古く太い樫の木に開いたウロは、深さ90cm、円みのある底は、径40cmほどでした。猫が、こんな所で、仔を産む何んて想像もしなかった。木の洞を、巣穴にするのは、モモンガ、リスのたぐいばかりと思っていた。

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  乳うばう 子猫に  つよき よわき あり   美 蔡

  樫の木の洞から、自力で這い出せたのは、五月の末であった。今では、植え込みの植栽の周りが、遊びの場で、元気よく走り回っている。5メートル四方が、安全な空間と感じているのか、それ以上は遠くへは行かない。我が家には、猫用の市販のグッズ類は、いっさい無い。子猫は、植木鉢の上から、竜のヒゲの茂みまで、ジャンプする。

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  猫たちは、人間の家の中の事は、知らない。家の中に入れtたことは無い。と言うのは、訳がある。

  母猫は、ノラであった。丁度、今の子猫より少しばかり大きかったろうか、物置小屋の下の穴倉に迷い込んで来たのだ。骨と皮、文字通りやせ細っていた。ヨロヨロしながら、愛犬の食い残しを狙って這い出してきていた。しかし、用心深く、気配を感じると、穴へ逃げ込んだ。▼ あまり、憐れだったので、愛犬の夕食のほんの少しを、毎日、穴の前に置いてやった。餌を置く位置を、段々に家側に、近ずけた。、以来、窓際に置いた縁台の下を、住まいとしている。もちろん、猫親子は、そこを本拠とし、日々を送るのである。

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  この季節である。晴れて、陽射しが強い日の昼寝は、葉蘭の陰の石の上に限るようだ。ひとしきり遊んだ後、熟睡している。雨の日は、縁台下のタオルを敷いた植物トレィーの中で過ごす。昼寝の時は、三匹重なり合って、出来るだけ壁ぎわによる。

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  母猫は、時々狩をする。「サア、食べなさい」 とばかりに、、獲物を、昼寝の子猫の目の前に置いて、また出かけていく。巣立ったっばかりのムクドリだろう。足の色が、うすい肌色である。半分は、母猫が、食べたのだろう。目覚めた子猫は、目前にあるモノを見つめる。そっと足を延ばし触る。そして、口をつける。初めての生の野生の体験である。

  そこに、【残酷さ】しか見ないとしたら、それは、人間の論理である。たしかに、生なましく、気持ちが悪い。しかし、猫側からすれば、それは、関係ないことである。猫にとっては、学習と経験の問題なのだ。

  「シタビラメの洋風 仕立て」 「シロミサカナの和風仕立て」 「カツオ***仕立て」 「海の幸ミックス」「 シチメンチョウの洋風・・・」 ▼ファミリー・レストランのメニューではない。これは、猫餌のネーミングの例である。実蔡に、ペット・コーナーあるものを、差し障りあるのでもじってある。それにしても、【猫に魚】と決めてかかっているのは、少々滑稽ではあり、人間の自己満足の現れである。(別にペットの餌メーカーや販売店にケチをつけるつもりは無い。悪しからず。)

  問題なのは、ここに、見え隠れする【人間中心主義的な考え方】なのだ。勿論、人間中心が、すべて悪いとは、思わない。しかし、今日、人間の都合を優先するあまり、【自然】を、無視してかかる事態が、数多く発生している。【人間の条件】は、【自然】と対立して在るのではない。人間も、また【自然】の一部なのだ。それを忘れて、事を運ぶと、【人間の条件】が、足元から、音を立てて崩壊しはじめる。

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  「アッー!ナニカウゴイテルゾ」 「 ドコダ~?」 「 ソコノ クサノトコロ~!」と言っているか、どうか解らない~。

  子猫らの うごき見あきぬ ひと日かな  美 蔡

   

  

  

  

  

  


里山 田園 唱歌

2009-06-05 16:38:55 | 日記・エッセイ・コラム

   ♪ さみだれのそそぐ山田に、  早乙女が  

       裳すそぬらして、玉苗ううる  夏は来ぬ~#

  ご案内の広く親しまれたておりました唱歌です。(過去形です!。) この歌の二番の歌詞が、スラスラと口をついて出るのも、相当に齢を重ねた証拠です。心に染み付いた懐かしいイイ歌です。▼かの有名な【 田園交響曲 】、あれは、どうもダメです。あの曲の流れに、ついていけないのです。『 コレデモか、コレデモか』と押し寄せてくる音についていけないのです。出だしの響きは、心地いいのですが、五分もすると、もう、もちません。

  「 ♪ 時鳥 早もきなきて 忍音もらす 夏は~来ぬ~ 」 安心して、曲にこころを委ねられます。さすが、万葉研究の大家 佐々木信綱先生の 作詞です。「歌は心のふるさと」です。

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  あるオトウサンが、取引先にクレーム処理に出かけました。あいにく、相手方のコンピュータからデータを覗かせて貰わないと、事は運びません。はたせるかな、その様な操作は、苦手な世代です。そこで、若いOLを二人同行いたしまして、何とか問題を解決いたしました。しかし、帰りのクルマの中は、なにか冷ややかな空気です。後部座席の二人の忍音(しのびね)が、洩れてきます。「ヤパリ、パソコン画面を開けなくては、ダメだ~!」 二人は、オトウサンのことを話して、忍び笑いるわけではないのは、解っております。ですが、口の中に、苦いものが広がります。

  「 里山の方へ少し行くと、美味い蕎麦食わせる所あるから、寄っていこう。今日のお礼に奢りま~す。」

  「ハ~イ、わたしダイエット中なんですが、おソバっていいんですって~。」 「あそこの山菜の天ぷら、美味しいわよ。山ウドのは、大好き~!」 もう一人は 時々、こちらの方へ出向くと見え、知っておるようですます。「誰と~?」 それは、野暮というものです。

  5~6キロ走りますと、突然のようにして眺望が開けます。平野部よりやや早く田植えは、終わっております。もう苗が、活着し始めているようです。お百姓さんが、苗間の補修をしています。緑陰は、重量感を増してきました。田に張られた水の面は、梅雨の合間の薄日を受け、銀板を張ったように光ります。周りの風景が映し込んでおります。

  「♪ 水鶏な~き、卯の花さきて、早苗うえ~わたす 夏は来ぬ~”」 オトウサンは、風景に誘われて、思わず唄ってしまいました。「 君たち、『夏は来ぬ』って歌知ってるかい?」 「 知りませ~ん。誰の歌ですか~?CDでてますかー? 」 軽くいなされました。・・・・。「わたし、『グリーン』を何時も聴いてるの CDいれっぱなしよ。」 「アタシは、『エグザイル』よ。チョー流行ってるんだもん。」 オトウサンは、二人の会話の外です。完全に蚊帳の外です。

  早乙女も 水がにごらざ おかしかろ 

      かくし社すれ  かくし社すれ

  「 江戸時代の川柳だよ。むかし、早乙女は、パンツはいてませんでした。だから、田んぼの水、濁ってないと、田植えしてる時、下の方が映っちまうんで~す。」 

  「 アラ! 部長さんて、以外にエッチなんですね。男の人って、すぐ話 ソッチの方へ、行くんだから。フフフ・・。」・・・またしても、いなされました。 「 見てみて、ホテル『風に聞いた物語』だって、おもしろーい !」 「 だけど、風邪引きそうな名前ね。」 「 ホント ホント 」。 どうして、風邪引くのかよく解りませんが、 オトウサン、もう止めましょう。彼女たちには、田園風景の情緒は目に入っておりません。しかも、その教養は、古すぎます。江戸人の洒落た諧謔は、化石です。

  『蕎麦処』は、すぐ裏手の山間から引いた清水で水車を回して、そば粉は、つきたて、と言った演出です。黒く太ウチの蕎麦です。美味いです。タラッペの天ぷらが、さらに食味をそそります。スダレ越しの窓から里山の冷風がはいります。壁に貼られた生ビールのポスターが、やけに目に入ります。ダメです。仕事中です。酒酔い運転厳罰です。

  帰りは、高速道路にしました。ここからは、3区間乗れば、会社の近くです。若い二人に、会話を振ろうとすると、気を使って、かえって疲れます。「アレ~?」、二人とも馬鹿に静かです。バック・ミラーには、ケイタイでメール打つ姿が、映っていました。

  会社へ戻って、それなりの報告入れ、またすぐ出よう。今日は、直帰ということにしておこう。早めに帰宅して、ビールでも飲もう。

  きょうは、一日、ごくろうさんでした。