初夏の一日一日の庭のさま (星野立子)
窓前の庭先は、緑が陰を深くしてまいりました。木下は、イネ科のイタリアンライグラスやトールフェスタの類が繁茂を始めた。もとは牧草として輸入され、この英名は、広大な牧場を想像が出来て響きがいい。
しかし、近年、牧草地を抜け出して、雑草化した。当方の畑地もだいぶ占領された。強力である。繁殖力が強く、在来のオイシバ・イヌビエ・エノコログサなどを道端の狭い空間に追いやってしまった。
除草剤は、使わぬ主義であるから、秋になるまで刈り払を繰り返す。
▲ イタリアンライグラス(=日本名 カモガヤ)は,竹林にも侵入しております。しかし、その間をぬって、今年もタケノコは元気に顔をだしました。
たまに訪れる人は、「自然があっていですね~
」と言ってはくれるのですが・・・。 タケノコのシーズンが終ったら、ひと夏、時々、刈払機をふりまわして雑草と格闘して、汗みどろになります。ー
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市民の森公園である。芝生は刈りこまれて整然としている。奥の木々の根本は雑草が綺麗に取り払われている。快適な空間の演出であるが、どこか余所行きである。かしこまって散歩したりする。
▲ 完全に管理された"自然"である。2月末、芝除草剤が散布済みであった。おりしも、殺虫剤が散布中である。
殺虫剤 散布済み ★要注意 泪する石あり 蝶果てし苑 ー夢蔡ー
▲ 日本人には、「自然にしていればよい・・、自然のまま・・。」 と言う考え方が深く浸透しております。
従って、「不自然さ・・。恣意的な・・。作りすぎ・・。」は、敬遠されます。
- 舗装され遊歩道のまわりの木々に蜘蛛の巣が見当たらない。虫や蝶がいない。小鳥の囀りも聞こえてこない。岩で組まれた清流には魚・水棲昆虫の姿はない。この様な"自然″は、人に安らぎを与えるには充分ではない。
ー「単純化された環境は、緩衝のきかない、もろい環境である。いま、地球上では、このもろい環境が急速に広がりつつある。・・・しかし、地球上を単純化して管理しきれるかどうかは疑問である。」 (日高敏隆「人間についての寓話」)
集中豪雨が一度あれば、大都市道路の冠水、マンホールから噴き出る雨水、直線的に護岸されている都市内の川の増水、土地改良したコンクリート側溝からあふれ、田圃を水浸しにする風景・・。
これらは、大雨洪水注意報のTVニュースの定番である。
ー いずこの山から掘り起こされたのか ーー
据え置かる 恐竜顔の 大石は 億年こめた 息をしている ー夢蔡ー
▲「大欽(たいきん)は力を私すること無く 万里(ばんり)は自ら森(しん)として著(あら)わる」 (陶 淵明) 訳 「造化の妙は個人の力の及ぶところではない。 万物はすべて独自の形態をとって現れる。」
自然の変化は、超越的ではあるが、決して人間を拒むものではない。何故ならば、人間もまたその自然の一部なのだから。
そして、人間は、自然を手を加え変えつつ、利用し“自然内”を生きるよう宿命づけらている。他の生物も、それなりに自然に手をくわえている。蟻だって地面を掘っている。
こんにち特徴的なのは、人間が自然を管理し易いように、変化させ過ぎている。豊さ・便利・アメニティー・・、理由は何とでも付く。
確かに、それなくしては、現在人間が生活できない方向にあるのも事実である。しかし、その結果が、大気・大地・川・海の汚染を生んでいることも忘れてはならない。
すでに絶滅したもの、絶滅危惧種はいったい何種類あるのだろうか。
自然への過度の働きかけの結果、それが産み出してしまった"モノ”が人間の生存条件を脅かしている。
-----<了>ーーーー