梅雨は、いまだ明けきらず、陰鬱な天気が続く。半夏生・・夏至から十一日目。七月二日の頃を言い、八十八夜、入梅、土用などと一緒で、夏の雑節の一つになっている。この日は、天から毒気が降るといって、菜類を絶つ風習があったという。また、雨が降れば、大雨、水害が起きると伝えられている。此の頃に【 半 夏 生 】という草が生るので此の名があるという。※〈虚子歳時記参〉 ▼ いまこの時点で、九州大分では、水害崖崩れが起きている。植えたばかりの田んぼが水没する。関東の都市部だって何時そうなるか分からない。昔は、天災の警告、今は、開発しすぎの人災かな!?
■ 半 夏 生
▼ ドクダミ科の多年草。花をつける頃になると、梢葉の2~3枚の表面が白色に変わる。その葉のわきから、穂状花を付ける。【片白草】 【三白草】とも言う。ドクダミは苞(葉の変形)を使って小花に変身して、芸が細かい。、こちらは、葉を変色させる分、少し大まかな感じである。しかし、穂状の花の長さは、数倍あり、群生した時の白色の広がりは、迫力がある。
「五月小暑おのずから来れども未だ覚えず、暖かなる風ふき【 半 夏 】生る。・・・(中略)・・さみ五月雨と云いて、雨ひたものふる。栗の花・ざくろの花咲く。若竹に葉出る。風に吹かれては、したしたとする。此の頃【 勧 納 】の最中なり。」 (* 勧納=田植え )▼これは、 『百姓伝記』(1680年代の農業技術書)の一説です。「こよみを見、運気をくりて、四季節」を知るのは、《物知り》のすること。一文不通(文盲)の民百姓は、太陽の沈む方向、星、風向き、万木諸草で、四季を知ること、とあります。そして、「苗代は、日々に暇なく、見舞いつつ・・」よい苗を作れとあります。
▼ 【半夏半生】 半夏生の咲くころまでに、田植えが終わらないと、その年は、収穫量が落ちるとされているようです。
■ はかどる (量どる) 田植え
圃場整備された田んぼ〔写真)は、奥行きで約100mある。苗は、プラスッティク・トレーに、密植されている。セットを終え、田植え機は、始動する。四条を植えながら進む。ものの10分とかからず、向こう側に到着する。捗(はかど)るのである。効率は、大変に良い。此の捗りは、石油燃料による機動化なしでは考えられないものだ。農業は、その諸々の作業手順には、プラスチック製品が関与する。苗代は、今では、田んぼの中には作らない。自宅近くの畑の片隅に専用トレーを敷き、籾を蒔き、長いホースで、水管理している。成長促進には、ビニール・トンネル・ハウスである。農業=食料自給が、今日、盛んに叫ばれてばれている。日本の食糧問題は、機械力=石油・エネルギーの問題でもあることを、まず、明記しておくべきだろう。農業の機械化・大型化は、これからも進む。工場のロボット生産ラインを、想像すればいい。
太陽を どろどろにして 田植え衆 (鷹羽 狩行)
こうした田植えの風景は、もう考えられない。かっての農村部は、一家総出であった。子供、高齢者はそれなりの仕事があった。また、手配師みたいな人も居て、数名の人間を何時も確保していて、人手不足の家、都合で農作業の遅れた家を手伝ったりしていた。はか〔量)は、共同作業・集団作業のときの作業単位のことである。「はかどる」は従って、作業分担の行呈の進み具合である。天候 は勿論だが、共同の細かい作業、怠りなしのの手入れの結果によって、収穫は、左右される。結果が出なければ、「はかなし」である。〔白川 静 漢字 参照)
半世紀前の農業は、【 人間力 】に拠るものであった。今でも、手入れ次第で、一反(10アール)当たり10表(600キロ)を収穫したと自慢する古老は、何人も居る。だだし、そこには、真夏の日々の労苦と骨折りがあった。だれも、そこに戻ろうなどと、思っても見ないだるう。また、もどるべきっでも無い。農業の方法が、変わったのだから、それは、其れで良いのだ。少なくとも、人間を、技術の力で、労苦から、開放してはくれたのだから。
ただし、今日、過っての農村共同体でのキイ・ワード【はか(量)どる】は、生産技術のコストの前に、消滅してしまった。
田植えの終えた田んぼは、人の姿は見えず、静かである。遠くにシラサギが、カエルを捕まえている。機械植えの稲は、人手で植えるより、遥かに密植されている。これも、雑草が稲間に生えない様にする方法なのだが、此のように、除草・施肥の方法まで、その方法が均一化されている。、従来のプロセス出来るだけ省いて、機械は、設計されている。それが、【捗る】という方法である。
農村共同体は、消えた。明治・大正・昭和の多くの文士達が、テーマ【家とその意識】から派生する人間の喜悲劇は、結論を得ずに、古典となってしまった。農業機械化の前に、アットいうまに消え去ったのだ。だだし、個々人に分解されて、【絆】まで持ち去る方法であった。