山形のホリデイマタギ日記

山菜とキノコと魚を採って遊ぶ年寄りの冷や水日記

キノコ達はどうしてるかな?

2019年10月10日 | キノコ採り
 心に重くのしかかっていた法要も、無事に終了した。まだ昼前だ。どうやって午後の一時を過ごしましょうって、これだけの好天気、心の開放感、そして、明日以降、確実に崩れていくであろう天候のことを考えれば、キノコの様子見しかありません。
 帰宅後、重い喪服を、山専用の軽装に着替えて出発した。
 さて、出発したは良いけど、どこに行きましょうか。「つるべ落とし」の季節ですから、山奥には入れません。マイタケなんて、もってのほかということぐらいは分かっているつもりです。
 じゃあ、何が採りたいのかと問われれば、「ナラタケ(モダシ)」。即答です。雑キノコの王様と言ってよいでしょう。

山の中も素晴らしい好天でした

 
 ナラタケが採れて、短時間で往復できる採り場を、過去の山遊びアーカイブから検索していく。
 ポクポクポクポク チーン。
 S滝ですね。あそこなら、今回の目的を達成できそうです。
 辿り着いて倒木を見ると、最盛期とは言えないけれども、そこそこに生えていました。


量は多くないけど食べ頃です

 
 歩いた時間は、1時間ぐらい。これ以上はないんじゃない、というぐらい爽やかなブナ林散歩になりました。
 帰宅したら、早速キノコ料理。

 ≪ナラタケの佃煮≫


 下ごしらえの部

 ※山で出逢ったときから下ごしらえが始まる
 ・なるべく、土や苔がつかないように、ナイフで丁寧に切る
  (手で掻きむしるなんてNG)

 ・袋に入れて持ち帰ったナラタケを湯がく
  (湯がくと身が締まる その後のゴミ取りなら崩れない)
 ※生のまま手をつけるとボロボロになる(このキノコの別名はボリボリ)
 ・それでもついてきた汚れを落とす

湯がいて汚れを取った段階
 調味料の部
 ・酒1、みりん1、醤油1
  今回の場合、大さじで2杯ずつ
 ・顆粒だし:適量
 ・南蛮:小さじ8分の1???(あった方がいいけどなくても)

 調理の部

 ・全てを鍋に入れて、混ぜながら水分を飛ばしていく(弱火かな)
 ・沸騰の泡に、ぬめりが出てきたら火を止める

こんな状態から

こんな風に変わっていきます


 これはですねえ、単品でも、かなり美味しいんですけど、おひたしなんかに和えると絶品なんですよ。(大根おろし和えも◎)
 ああ、出掛けて良かった! リフレッシュ完了!

不思議な感覚

2019年10月10日 | 日記

すんごくいい空


豊かな実り


 明日は、我が父親の三十三回忌の法要が予定されている。法要が近づいてくると、父親が亡くなる前後に起こった様々な出来事や、見送りに関わった人々の心模様が思い出されてくる。…それは、単純なものではなかった。
 久し振りに喪服を準備する。見るからに『重苦しい鎧』だ。心まで重くなってしまう。
 ああ、そうか。だから、昨日のような変な詩が浮かんできたんだ。ここ暫く、自分の中に、この行事を抱えながら過ごしていたことに気付き、納得してしまう。
 その時、二十代で喪主を務めることになった。父が亡くなってから暫くは、それこそ無我夢中で法事を執り行ってきた。結構気を遣う大変な儀式だった。
 私は、定期的に営まれる法要で、立場上あいさつをしなければならない。そのために、父親との思い出を振り返ってあいさつに盛り込む。それを繰り返していくうちに、不思議な感覚に包まれるようになってきた。
 息子が小学生になった頃、私は、家族を連れて海や山に出掛けていくようになっていた。その頃行われた法事で、初めて分かったことがあった。父との思い出を辿っていくと、幼かったときの自分の記憶が、今、自分がやっていることと同じであることに気付いたのだ。
 私は、父がやってきたことをなぞりながら、今を生きているのかもしれない。別の言い方をすれば、父は、私の中に生き続けているのだ。

これまで背中を追ってきた父 これからも一緒に過ごす父に感謝

 それから、私と子どもたちとのつきあいにも、いろいろあった。これからもあるだろう。しかし、自分がそうだった頃の父の行動を思い出すと、「同じなんだ」と安心できるのだ。
 父親のいないままここまで歩んできた自分。しかし、実は、父親の後ろ姿を見て歩んできた自分。いないけれど、確かにいる。不思議な一体感に支えられながらここまできた。
 今回の法要は、特別である。亡くなったときの父の年齢を超えてしまった自分がここにいる。
 もう、なぞってきた道はない。追いかける背中もない。しかし、私の中に父はいる。そして、いつまでも応援してくれるはずだ。 

熟成が近づく季節


 台風19号が来る前に、なんとか遊びに行きますよ。これも、父の教えかな?