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いま、そのとき、かんがえつつあること。

韓国から とどいた本

2005-07-15 | 国家と権力
韓国から本が とどいた。

まず、わたくしの敬愛する◆ピョン・ジョンスさんの『かれらだけの常識』。前作の『満場一致は無効だ』は、だめ留学生だった わたしをふるいたたせた本だといっても いいくらい。

1章の頭が「『国民』を弾劾したい」。『当代批評』に のったもので、ピョンさんのサイトでも公開していた。あの弾劾さわぎの最中、ソン・ドゥユル教授(あえて教授とする)が「北の工作員」だとして逮捕され実刑判決をうけたことへの怒りの文章だ。なんとかして言論で国家保安法の廃止させようとする、ピョンさんの意志宣言であると おもう。ふるえずには、よめない文章だ。

国家保安法が、どれほどまでに おぞましいものであるのかを、たとえば『選択』という映画を紹介する『ハンギョレ21』の記事(日本語)が おしえてくれる。なにも いうことはない。いうべきことは、山ほどある。いや、量の問題じゃない。解決されるまで、いうべきことがあるのだ。

ピョンさんがメディア論をかなり かいているのも、「言論」というものへの意志と覚悟があるからなのだと おもう。今度韓国にいったら、一度おあいしたい。以前メールおくったときは、好意的な返事をいただいたしね。

もうひとつは、◆パク・ホンギュ『アナーキズムの話』。法学者で、サイードやフーコーの翻訳もしているパクさんは、日本でも注目されるべき学者であると おもう。

本のなかでパクさんは、ジョン・レノンもアナーキストだとする。自任していなくとも、その歌の精神がアナーキズムであれば、アナーキストであると。
そうだ。アナーキストという名前は重要ではない。わたしも はっきり いう。わたしはアナーキストではない。わたしは、その なにものでもない。わたしは わたしだ。アナーキズムはいっさいの権威をみとめない以上、自分の権威も みとめてはならない。
したがって、だれとしてアナーキストを自任する必要はない。なにが本当のアナーキズムで、だれが本当のアナーキストであるかをとう必要もない。わたしのアナーキズム、わたしたちのアナーキズムは いくらでも ありうる。それはいつも、あたらしく うまれ、あたらしく変化する。
パクさんも立場も明快だ。「アナーキズムのために」この本をだしたのではなく、韓国の国家主義に抗するためなのだ(はじめに参照(する人いるのか))。

もひとつは、◆ク・スンフェほか『韓国のアナーキズムの100年』。この本は ただのおまけなので、紹介しない。

グーグル:「ソン・ドゥユル」 / 「国家保安法」 / 「アナーキズム」