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いま、そのとき、かんがえつつあること。

批判に ふくまれた前提

2007-03-07 | 議論
きょうの よふけに かいた「アイデンティティなんて」なのですが。

これをよんで、納得したり共感したりするひとも、なかには いるのかもしれません。ですが、おおくのひとは、なんだか違和感が のこるんではないでしょうか。しらないけど。

批判とか言明には2種類あって、ひとつには、「ともかく自分の意見をいっておく」というもの。もうひとつには、「ある前提にたって こうあるべきだという主張」、あるいは、「こうあるべきであるのに そうでないという批判」。

ただ のべるのであれば、どんな意見でも「わたしは このように かんがえるのだ」ということで、べつにいいのです。だが、すこし ふみこんだ、ある種の規範的な批判には気をつけるべき点があるように おもいます。

たとえば、わたしの文章を例にしますと、「アイデンティティは どうでもいい」の根拠として、自主性の欠如をあげています。つまり、アイデンティティは自主的に獲得するようなものではないということを指摘し、なおかつ批判しています。

これは奇妙な論理です。積極的だとか自主的という概念に疑問をなげかけながらも「積極的、あるいは自主的であるほうが よい」としているからです。

完璧になれるか、どうかということと、完璧をめざす、めざさないということには関連がありません。自主的になれるかどうかということと、自主的であるべきかどうかということも、同様に関係がないのです。

ひとは、なにかを批判的に かたるときに、価値観や評価の基準に なんらかの前提をおいてしまっていることが しばしばあります。それに気がつけないのは、それが自分にとっては あまりに自明なことであるためです。

ですから、ひとつの対策として、こちらの前提をさきに公開してしまうという方法があります。つまり、これこれこれであることをみとめ、それはこれこれこうである必要があると かんがえるのであれば、このようになす必要があるのだ、というふうに のべるわけです。ここでは、「のであれば」の まえに かかれた説明が、「こちらの前提」を公開している部分にあたります。つまり、限定をもうけるということです。

このように限定することで、なんだかカヤのそとに おかれたような気になる ひとも でてくるでしょうが、勝手にそんな前提おいてんじゃねーよ、きめつけんじゃねーよ、オレルールをおしつけてんじゃねーよ、という反発は、おさえることができるのです。

このような注意点をふまえたうえで、あらためて、いろんな意見の言明や批判的な言論に注目してみてください。なにかが、みえてくるかもしれません。


と、うさんくさい文章をかいてみました。