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いま、そのとき、かんがえつつあること。

『社会言語学』第7号

2007-10-23 | ことば
「社会言語学」刊行会から『社会言語学』第7号がでた。第5号第6号の紹介文も このブログに かいている。あわせて よんでください。

タカマサさんが紹介文「『社会言語学』VII」をかいているので、リンクしておきます。

さて、7号には立岩真也(たていわ・しんや)さんによる『ことば/権力/差別-言語権からみた情報弱者の解放』三元社の書評が のっています。編著者ましこ・ひでのりによる応答と あわせてご覧ください。立岩さんの原稿は、ご自身のサイトに全文「多言語問題覚書――ましこひでのり編『ことば/権力/差別――言語権からみた情報弱者の解放』の書評に代えて」を公開されています。

立岩さんの文章で気になったことを指摘しておきます。まず、こちらをみてください。
例えば、ある言語、具体的には英語、イングランド語の支配、専制(ましこ[2006])を批判しようと私も思う。さてどのように批判するのか。その根拠の一つが、人々が既に使っている言葉を大切にしよう、使用されてきたものを「保存」しようということであるとしよう。「言語権」という発想にしてもそんなところがあると思う。だが、とすると、よりよいものにしようという「変更」はよくないことになるかもしれない。では現状を「保存」すればよいのか。もちろんそれもよくはない。とするとどうなるのか。こんなところを考える必要があると思う。(124ページ)
大切にしよう、「保存」しようと、だれが いったのか? 言語権も、「そんなところがあると思う」というのは、なにを根拠にしてのことか。根拠が理解できない。

少数言語の「保存」ということであれば、「危機言語研究」は、そういった性格がつよい。危機言語研究者もたしかに言語権を論じてはいるが、『ことば/権力/差別』の執筆者には、ひとりも そのような発想をもつものはいない。

ましこなどは、『ことばの政治社会学』三元社において、「言語学者がすべきことは、学術調査のもとに、「危機にある言語」を保存することではない」と いいきっている(137ページ)。ましこは、
少数派の尊厳をまもり、ほこりを回復させ、現存する差別/抑圧が改善消滅するようデータを収集/整理に「協力」し、正書法や標準化などの問題にモデルを提供することだ(しきることではない)。
としている。『社会言語学』紙上でも、創刊号の ましこ論文だけでなく、第4号第5号でも「危機言語」研究の問題点が とりあげられている。ぜひ参照されたい。

また、言語権の根拠としては、木村護郎(きむら・ごろう)の「言語は自然現象か-言語権の根拠を問う」『社会言語学』創刊号を参照されたい。なぜ木村らによる言語権研究会 編『ことばへの権利-言語権とはなにか』三元社が、「ことばの権利」ではなかったかが、簡潔に説明してある。

わたしの論文「漢字という障害」へのコメントをみると、立岩はつぎのように のべている。
[前略]ある言語が難しいという問題がある(cf.あべ[2006])。それで、やさしくすることは必要ではあるだろうと思うし、できることも多々あるとは思うのたが、しかしどこまでできるのか、また必要なのかと思うこともある。
 まず、人が大切にしているものを大切にすべきだというところから現状を見たり批判したりしているとすれば、それとの整合性が問われる。たしかに頭の固い日本文化主義者が日本語をもちあげるとそれは困ったことだと思う。古来から変わらないものだとしばしば言われることが事実として間違っている、言葉はどんどんと変わってきたという指摘も正しくはある。ただ、それは伝統墨守主義者に対する十全な答にはならないだろう。既にあるものを大切にすることと、より簡単で便利な言語を目指すことは両立するのか。これは答えられる問いだと私は思うが、人々はどのように答えるのか。(134-135ページ 注の11)
どこまで、という質問にたいしては、すこしずつ改善すると こたえたい。どのようにか。

ひとつ、固有名詞の漢字は、人名・地名いずれも、かながきを「かならず」そえる。賛同者は、ぜひとも実践されたい。わたしは政策という「おおきなアプローチ」には あまり積極的でなく、草の根運動としてやっている。だから、ひとりずつ賛同者をふやせていけばよいと かんがえている。つまり、だ。逆にいえば、だれにでも、いますぐ できることを要求しているにすぎない。

ふたつ、一部であれ、全体的にであれ、わかちがきをとりいれる。これは、活字媒体では困難であるかもしれない。だが、ウェブでなら、だれでも導入できる。ひらがなばかりが つづいたり、漢字が連続してしまった場合など、とりいれてみてほしい。日本語をわかちがきして かく韓国人であるとか、日本語の文章を辞書をひきながら「解読」している日本語学習者の悪戦苦闘をみる機会があれば、わかちがきの有用性が わかるだろうし、わかちがきもまた「なれの問題」であることが うかがえるだろう。

「整合性が問われる」「両立するのか」という非難については、立岩の根拠のない想像によるものであるのだから、こたえようがない。

ひとつ いいうるのは、「言語は変化するもの」であり、「表記は変化させるもの」であるという点だ。いわゆる「歴史的かなづかい」が、「どんどんと変わってきた」結果として「現代かなづかい」に変化したのだろうか? ちがう。言語政策によって、かえたのだ。英語は文字で表記されるようになったころから わかちがきされていただろうか。ちがう!

もちろん、言語を変化させることも多々あるし、言語の近代をふりかえれば、言語の構築性は かんたんに確認できる。また、こまかな点でいえば、表記も変化しうるものである。ここでの論点は、いくら言語が変化しても、表記は変化せずに そのまま かわらないことがあるということだ。だから、文字表記にはメンテナンスが必要であるということなのだ。

その根拠は、「ことばへの権利」である。わたしの ことばでいえば、文字情報にアクセスし、自分の意見や情報を発信する権利である。それは「情報障害からの解放」と「漢字をつかわない自由」の確立によって保障される。

立岩の文章で気になったのは、もうひとつ、言語をデジタルにとらえてはいないか、という点である。もちろん、議論を単純化させて整理するためであるとはいえ、多言語問題を論じるさいに、言語A・言語B・言語Cというようにしてしまうと、言語Aのバリエーションが捨象されてしまう。比較言語学でいう「系統」のことなる言語同士の言語的葛藤であれば、ABCとしても問題はない。だが、言語的連続と政治的断絶(あるいは、その逆)が ふたつの集団をつくっけてしまったり、ひとつの集団を分割してしまったりすることによって生じている問題は、みえなくなってしまう。いわゆる黒人英語(エボニクス)とアメリカの標準英語でもいい、琉球諸語と「日本語」でもいい、あるいはケセン語と「日本語」でもいい、そういった問題を無視しているわけではないだろうが、どうしても、気になってしまった。言語学をまなんだひとなら、しっているはずだ。「ひとつの言語とは なにか」という といが、どれほどに やっかいなものであるのかを。それは、線をひきようがないから やっかいであるというよりは、現実に、さまざまな問題が ひきおこされており、そこに どのような態度をとるのかによって、自分の政治性が うきぼりになってしまうからだ。

「黒人英語が言語でないというのなら、じゃあ一体なにが言語であるのか おしえてほしい」。いつまでも記憶にのこるフレーズだと、わたしは感じる。もちろん言語ですよ。と、第三者は いえる。黒人英語による教育、そして標準英語の二言語教育。わたしは支持する。あなたは、どうか。支持します、だけでは無責任であることも、しっておかねばならない。差別の解消に協力することなしには、ただの放言になってしまうのだから。

黒人は標準英語を支持しがちで、白人も黒人英語なんかを学校にもちこむなんて!という。差別の蓄積のなせるわざである。「学校で英語教育に補助的に黒人英語を利用する」ことでさえ、大論争になったのだから(「エボニクス論争」のこと)。

「言語A」という「無機質化」は、言語の政治性をそぎおとす行為になりはてる。そのような側面もある、ということを指摘しておく。


※ ちなみに、表記が変化している例として、「わたしワ」といった文字づかいが あげられる。これを非難するむきもあるが、これは一貫性のかける現代かなづかいを改良させているとも いえる。