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いま、そのとき、かんがえつつあること。

『社会言語学』第5号

2005-11-16 | ほん
「社会言語学」刊行会から『社会言語学』第5号が刊行された。

まっさきに紹介文をかこうと おもっていたら、ハラナさんに先をこされた(笑)→「社会言語学 V」(タカマサのきまぐれ時評)。

以下、敬称略。なお、すべて個人的な見解をもとに かいてある。

前号にひきつづき東村論文が巻頭になっている。東村によるこの連作は、本誌の創刊号の巻頭論文である ましこ・ひでのり「言語差別現象論」の問題意識を継承したものとして位置づけることができる。2度につづけて巻頭をかざったのは、「社会言語学」刊行会が共有しているといえるであろう問題意識を、もっとも明確に提示したものであるからだ。

渡辺論文は、障害学畑の人材をどんどん『社会言語学』誌に よびこまんとする わたしのひそかな(?)たくらみが実現したものだ(笑)。社会言語学者による従来の伊沢修二研究では、吃音というテーマが ぬけおちてきたといえる。その すき間をうめる作業をしている「とも」いえるのが一連の渡辺の研究である。今回の論文では、伊沢が主軸におかれているわけではないが、ともかく「声の社会言語学」の確立にむけた重要な論考である「とも」いえる。『社会言語学』3号あべ論文とあわせてご覧いただきたい。ことばは「からだ」の運動によるものであり、からだと ことばは社会のなかで相互作用しながら言語現象をかたちづくるのだ。

鴨志田論文は、いま話題のディアスポラをテーマにしているだけでなく、フィールドワークをまとめた論考であり、情報提供としての価値もあるといえる。なにより、すばらしい題名に舌つづみしたい(笑)。ミーハーなことをいわせていただければ、同世代の研究者の参入というだけで うれしい。

かどや論文は、言語差別をいかに解消し、言語権を保障していくのかという議論に、エスペラントがどのように関係しているのか、エスペラントにどのような可能性があるのかをえがきだしている。「過去のもの」「失敗におわった運動」というエスペラントに対する冷笑に明確な論理で反論している。個人的には、かなり お気にいり。

アンガー論文は、『イデオグラム[表意文字]』と題されたアンガーの本の一部を翻訳したものである。内容は、ジョン・デフランシスの名著『漢語―事実と神話』の主要な論点である「漢字をめぐる6つの迷信」をアンガーなりに まとめたものである。これも『社会言語学』4号あべ論文と あわせてご覧いただきたい。なお、『イデオグラム』は日本語の初学者のための教科書として かかれたものとのこと。

ましこ論文は、3号からの連載「近年の俗流言語論点描」の第3作目にあたる。日本語の表記論と敬語論に焦点をあてた論考になっている。毎度ながら、文献案内ならぬ「文献批判案内」(?)としての価値があるといえるし、ましこなりの論点を明確にうちだしている点にも好感がもてる。

糸魚川論文は、カスティーリア語[いわゆるスペイン語]の性差別的形態(文法そのもの)をどのように改善するのかという議論がいかになされているのかをウェブ上の掲示板の議論に注目して論じている。

佐野書評と木村による応答は、本号のもうひとつの目玉といっていいだろう。『言語的近代を超えて』をかなり丹念に よみこんだうえでの佐野書評と木村個人による応答が、とても よみごたえのある やりとりになっている。

富田書評は、アンガー本そのものへの批判よりは、アンガー本が ほりおこしてみせたものが なにを意味するのかを、「現代のあり方」への視点をたもちつつ批判的に検討している。

金澤による紹介は、ろう教育関係者に対するメッセージとも いえる内容になっており、わたし個人としても、関係者から なんらかの応答があることを期待している。


というわけで、バラエティにとんだ内容にしあがった『社会言語学』第5号を刊行会のサイトから どしどし注文してください。

なお、ひとり限定で特別に、1号から5号までのセットを送料こみの7000円で販売したします。これは わたしが勝手にすることなので、hituzinosanpo@mail.goo.ne.jpまで ご連絡ください。

あと、6号には ちゃんと論文のせますので、おゆるしくださいまし。> みなさま

グーグル:「社会言語学」