城郭 長谷川博美 基本記録

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信長公記 信長瓜のかぶり食い 

2024-04-02 17:33:13 | ユーモア

信長公記 信長かぶり食い 

 

◆長谷川

織田信長の青年期の行儀は悪かった

『信長公記』には青年期の織田

信長の路上食事風景を描写して

いる。「ここに見悪き事あり。

町を御通りの時、人目をも御憚
りなく、栗・柿 申すに及ばず、
をかぶり食いになされ、町中
にて立ちながら餅をほおばり、
人に寄り掛かり 人の肩につら
下がりてより他は、御歩き無く侯。
その頃は世間公道なる析節にて候間、
大うつけ」とより、他に申さず候。
 
◆対談者
織田信長の青年期の愚人伝説です!
要するにタワケ殿という事ですね!

 

◆長谷川

 大名の子息でありながらも織田

信長の痛快な常識やぶりな食生活

の模様が描写されておもしろい事

ではありますがこの記述には暗喩

が含まれていると私は思ってます。

織田家紋五つ木瓜(いつつもっこう)

でウリ科植物の種子の切口の紋様

を意味しているのですよ。

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◆長谷川

尾張名古屋中村の出身だった

藤吉郎は木下藤吉郎羽柴筑前

関白秀吉太閤秀吉へと次々に

立身出世して行った事は有名

です。『太閤記』には脚色が

ありますが文禄3年(1594)

6月28日九州名護屋城で秀吉が

開いた「瓜畑の遊び」は彼が

瓜販売商人の役を自らすると

い言う一種のアトラクション

ですが尾張名古屋の中村から

出て太閤にまで立身出世して

同じ韻を持つ肥前名護屋にて

瓜売商人の役を演じる訳です

が秀吉の瓜売り商人の売口上

は本格本物だった事でしょう

秀吉は本物の庶民出身です。

 

◆質問者

昭和の高度成長期の創業企業

の社長は大企業の社長になっ

も過去の赤貧の頃の話を社員

や関係者に語る習慣があった

と言われていますよね?

 

◆長谷川

太閤記の瓜の秀吉アトラクション

織田の家紋「もっこ」を売りった

事つまりは主家織田氏に代わって

藤吉郎が織田以上に成った比喩!

 

◆長谷川

 実力派の男児とは家格や家譜

ではなく裸一貫で成り上がった

自分の功績履歴を披瀝し第三者

が認める様を見て自己満足する

ものですね!私は有名人二世の

名門だとは成功者の人は言わな

い心理が存在する訳ですよね

夜の明けない早朝から琵琶湖

で小魚を取って長浜の市場に

でお金に変えて虎姫高校へと

行く教科書やノート買ったと

か自分の家には畳が無かった

虎姫に下宿して初めて畳見て

招来は畳のある家に住む事や

会社経営をする事を志した人

の話はよく聞くお話なのです。

男は苦労し薪炭をなめ逆境か

ら大成したと言うお話ですね。

 

◆対談者

これは昭和の長浜虎姫話です。

 

◆対談者

 秀吉の馬標は瓢箪ですね?

 

◆長谷川

 瓢箪はウリ科と言う事です。

 

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