Eureka (エウレカ)は ギリシャ語 に由来する 感嘆詞 で
、何かを 発見 ・ 発明 したことを喜ぶときに使われる。
古代ギリシア の数学者・発明者である アルキメデス
が叫んだとされる言葉である。 "Eureka"は、 古代ギリ
シア語: εὑρίσκω ( heuriskō 、ヘウリスコー)「見つけ
る」という動詞の一人称単数完了直説法能動態である
εὕρηκα ( heurēka 、ヘウレーカ) から来ており、
「私は見つけた」「分かったぞ」程度の意味である。
玄蕃尾城、杉山城、新府城、古宮城、安土城、大坂城のビイスタ工法
◆匿名様
関東の者とだ:け申します。長谷川先生
城郭ビイスタ論には驚愕しております。
特に武蔵杉山城のビイスタ論に驚いた。
◆対談者
本投稿にも武蔵杉山城は登場してますよ!
★2
◆匿名
私は関ヶ原以東の者です。甲斐の新府城
武田氏や徳川氏が手を加えた城でしょう
が何と!余呉城郭研究会の女性の方が当
新府城にビイスタ工法の腺を入れられて
いる事に驚いています!なんとう進歩的
な城郭研究会なのか?アマチュア女性が
甲斐新府城の桝形や馬田出にビイスタ線
をいれておられる事には本当に驚愕です。
◆長谷川
本投稿★2の画像を是非とも覧ください!
城郭ビイスタ論は上文字をクリック。
◆対談者
続日本名城100選に選ばれた玄蕃尾城と
杉山城の縄張りと、設計構想を解説して
下さい!覇王信長の安土城も含めて是非!
◆長谷川
両城とも非常に高度な縄張りであり私の
様な素人のマチュアは解説不可能です。
◆対談者
先日図書館で宮本健次先生の著書『建築家
秀吉』を読ませて頂きましたら離宮の配置
と幾何学に次の様な図版が掲載されており
ました放射状配列には15度30度45度そして
全体を構成する円形のプランを述べられて
おりました長谷川先生は越前玄蕃尾城そし
て武蔵杉山の幾何学やその設計を解説して
頂けませんか!桂離宮は八条宮家初代の
智仁親王(1579年 - 1629年)によって
基礎が築かれたと。
◆長谷川
私は研究家としてレベルが極めて低いその
様な全国の城郭愛好家様達が最高峰とする
3城の構造を解明する事は、余りにも私に
は知名度も脆弱で研究家としての力量不足
で不可能です。全然無理!全然解らない!
◆対談者
このブログの以前の投稿で私達余呉城郭
研究会は長谷川先生の時代を超越し普遍
的な日本史の中の様々な遺跡の解説には
非常に驚いています。城址解説の先生だ
けだの人と考えてた長谷川先生が私達の
思いもよらぬ日本史を代表する遺跡をも
含めて平然と淡々と解説する長谷川先生
の力量を見るにつけ長谷川先生は違う!
と再認識しました。本当に素晴らしい!
画期的な内容ビイスタ動画だと思います!
長谷川先生の纏向宮殿遺跡のビイスタ線
挿入にも私は仰天衝撃し感心致しました。
▼纏向宮殿遺跡放射状グランドプラン。
▲ビイスタ論です。これは纏向宮殿ビイスタ論!
▲ビイスタ論です。これは肥前名護屋城ビイスタ論!
◆長谷川
現実を直視しましょう。私のブログの
フオロアー様は現実には0名様。また
ブログを読んで頂いている方も3名様
と言う厳しい現実。無能な私が有名
な3城の設計構想を解説する事は控え
て当然です。この件に関して私は触れ
たくありません。私は無能の人です!
◆対談者
例え数名の理解者や支援者であれ私達
は長谷川先生から、未知の城郭知識を
学んで今日まで一歩一歩と着実に研修
研鑚の道を進みました未来の城郭研究
の為に試論的に両城の設計を考察する
記事を是非御願い致します。それこそ
が、明日の研究や世の為に役立つ学術
提起と思います宜しく御願い致します。
◆長谷川
御了承致しました。但し玄蕃尾城武蔵
杉山城の遺跡としての年代観は一切私
は解説いたしません。宜しいですか?
◆対談者
是非とも宜しく御願いを致します。
それでは先ず玄蕃尾城の構造解説
分と析から御願いを致します。
長谷川博美復元イラスト図▼
◆長谷川
織田軍北陸方面最高師団たる柴田勝家に
相応しい堂々たる壮大な陣容と陣形いや
礎石もある恒常的な城郭とも言えますね。
郭間を総合的に配し相互に横矢を掛ける
縄張りになっております。馬出は正方形
ではありませんし長谷川の縄張l略図この
図面が基本形です。
◆長谷川
全体の設計構想や城郭の中心軸を試験
的に探す事模索する事にしましょう。
◆長谷川
上図のB右が近江北国街道側に相当し
これは近江側から見たこの城の見栄え
内中尾山城こと玄蕃尾城の南から見た
ビイスタ線や見栄え見晴効果でしょう。
上図の下Aは越前敦賀郡「市側」です。
やはり様々な放射線や越前から見た見
栄えを意識して設計しています。つま
り各方向から方向面からの見栄えを意
識した城郭です。北陸越前を拠点とし
西国播磨を拠点とする羽柴秀吉と天下
の覇権を賭けて築城された内中尾山城
こと玄蕃尾城ですから当然見てくれや
光背効果、見栄えは熟慮されて築城が
成された事は充分に考えられます。こ
の玄蕃尾城の主郭三方に馬出を設定す
る基本縄張構想とは秀吉の聚楽城にも
徳川の丹波篠山城も有名な尾張名古屋
にまで隠然と影響を与へ、大国越前の
大守信長の宿老柴田勝家の自我と自負
とアイデンテイテイが、顕著に現れて
いる日本城郭研究史においても無視す
る事の出来ない壮大な遺跡と評価でき
ます。
◆対談者
これはビタリと整合性があり的確です。
卓抜かつ高度な設計理論に裏打ちされ
た内中尾山城こと玄蕃尾城の見学では
是非長谷川先生の御指導教示を仰ぐ事が
本格城郭遺跡見学には肝要かと思います。
令和3年6月19日土曜既に私はウッデイ
パルさんに先行予約仮予約を取ろうと
思っております。良い城を専門の先生
の教示を頂いて冷静的確に見学する事
を「城郭見学」私は目指しております。
6月19日玄蕃尾城現地見学会是非宜しく。
★既に令和3年に終了し大変好評でした。
◆長谷川
さて本丸中心軸も検討してみましょう
現状として本丸は不整形な形状の歪な
矩形ですが築城の際や縄張図面作成の
おりには大型測量櫓を組んでコンパス
「分度器」を使って測量していた可能性
があるでしょう。
▼▲安土城のビイスタ工法 長谷川博美論「上下図とも」
▼安土城ビイスタ論 長谷川博美
▲長谷川博美近景 令和3年
まあ、織田信長の安土城もビイスタ理論や
ビイスタ工法を用いた基礎設計「グランド
プラン」を設定しています。また豊臣秀吉
の肥前名護屋城などもこの範疇に入る事例
でしょう。天下人の城です当然とも言える。
◆長谷川
ちなみに秀吉の天正大坂城にもビイスタ工法
やビイスタの理論が潜在致します。
▼極楽橋からの天正大坂城ビイスタ工法「長谷川描線」
城郭中芯点からの放射状設計「ビイスタ理論」長谷川図
★2
甲斐武田氏の新府城のビイスタ工法を検討
する『余呉城郭研究会』の宮本サポター様
全く従来の城郭概念を覆す新規の城郭視点!
◆対談者
楽しいです。特に女性の方は幼少期には
糸取り遊びをされたり縦糸と横糸を使う
織物や編み物や鶴の折り紙を連想される
と楽しいかと思います。幾何学ですよね。
◆古宮城概略
文献『御湯殿上日記』に、天正3年(1575年)
徳川家康の家臣、大岡弥四郎、山田重英らは
武田勝頼に内通して謀反を起こし、その際、
勝頼は作手筋に出馬する予定を伝えている。
作手筋=古宮城方面
作手筋=古宮城方面
◆質問者
東三河の古宮城にはビイスタ理論と言う
か桝形が武田の新府城の様に城外側へと
「ハ」の字状に開いておりますか?
▼桝形放射状縄張「古宮城」
▼中心軸放射状縄張「古宮城」
◆長谷川
桝形放射状縄張も中心軸放射状縄張も
東三河古宮城には存在すると私は思う。
また様々な放射線縄張が存在する可能
性もあると考えております。
▼古宮城
▼古宮城
▼古宮城
◆専門家
チョツト待って長谷川さん!いや先生!
こんな理論戦前戦後を通して誰も論じて
いませんよ!驚くべき指摘です!遺跡や
城址を平面的にその全体像を工業デザイン
的にあるいは美術史的な構図分析にも是
該当する秀逸かつ画期的な比較研究論だ!
◆長谷川
規矩術と言う言葉や規矩の伝統的手法も
研究して下さい。規矩術=大工の曲尺。
民俗学で「カネ」と発音致します。雁金
とは「カリガネ」とも発音します玄蕃尾城
の滋賀県側の山麓を雁ケ谷「かりがや」と
も言う。江戸時代に「カリガネもへ」と言
えば柴田氏、真田氏の雁紋を意味する民俗学。
◆対談者
次は「雁の城」とも別名のある武蔵杉山
城の縄打やグランドプランを検討してみ
て下さい。
◆長谷川
玄蕃尾城、武蔵杉山城は全く関連性が無
い埼玉県比企郡の城で、中世城郭研究家
や城址探訪愛好家にとり、最高の城とも
昔から言われている伝説の名城なのです。
◆対談者
是非その縄張を見て見たいと思います。
★2
長谷川
それでは、これが杉山城の基本形です。
埼玉県嵐山町教育委員会様の図を基本
に使わさせていただきます。これ比企
地域益々栄えます事を願い御借りします
◆対談者
一目見て、関西や西国の城とは異なる
縄張りが大変魅力的かつ複雑ですね。
◆長谷川
この城には数カ所集結点が存在します。
先ずA集結点
◆対談者
すごいです?普通の凡人には全く気付けない。
◆長谷川
次ぎにB集結点
◆対談者
B集結点と線も、これスゴイ観察視点です!
◆長谷川
次にC集結点なのですが主郭部の中心に
存在しCの文字が書き込めません御勘弁。
◆対談者
玄蕃尾城のような遠見の三角形集結線
や複雑な三角線は存在しますか?
◆長谷川
存在致します。先ず集結点Dに相当する
場所です。ここも放射状にパノラミック
にビイスタ理論を用いて設計されている
と思います。
◆対談者
谷間にも縄打縄張してる様子が玄蕃尾城
や武蔵杉山城で見受けられますが谷間に
まで屋敷や陣小屋を当時設定しましたか?
◆長谷川
『信長公記』永禄5年には二の宮山築城
の前段階が詳しく記されております。
二宮山御こしあるべぎの事
一、上総介信長奇特なる御巧みこれあり。
清洲と云ふ所は国中、真中にて、富
貴の地なり。或る時、御内衆悉く召し列
ねられ、山中・高山、二の宮山へ御あが
りなされ、此の山にて御要害仰せ付けら
れ侯はんと上意にて、皆々、家宅引き越
し侯へと御諚侯て、爰の嶺、かしこの谷
合を、誰々こしらへ侯へと、御屋敷下さ
れ、其の日御帰り、又、急ぎ御出であつ
て、弥、右の趣御諚侯。此の山中へ清洲
の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せ
なりと、上下迷惑大形ならず。
とあります。
◆対談者
そもそも城郭を城外から測量する事自体
が日本の文化の中に有りますか?
◆長谷川
あります。江戸時代にも城外から城郭を
測量しています。
◆対談者
長谷川さん!貴方は戦前戦後を通しても日本史中に
登場する遺跡に「展望設計思想」見栄え「ビイスタ論」
が存在する事を述べられた歴史学者は皆無ですよ!
全く特異な「ビスタ理論」「展望設計理論」を軽々と
動画で述べる力量がある人は全く世の中いませんよ!
特に安土城ビスタ論なんか傑出した城郭設計理論だ!
城郭ビイスタ論動画、上文字をクリック!
今年も言いね!に
感謝を致します。