城郭 長谷川博美 基本記録

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ぞくぞくする地名比較研究論 米原市鎌の羽(刃)「かまのは」 高島市剣熊「けんくま」

2019-08-02 00:31:00 | 比較研究論
ぞくぞくする地名比較研究論 米原市鎌の刃「かまのは」 高島市剣熊「けんくま」
田畑様「仮名」
 長谷川先生は城郭に特化した稀代の城郭研究家のイメージがあります。先生に付いて行けば
発見につぐ発見が待っている。長谷川先生は何故?城郭を捨てて高島市の小荒路に向かわれるの
か?全く理解できないです!ある図書に長谷川博美さんは稀代の城郭研究家だと書かれてました。
長谷川
 シナプス論で私は述べましたが人間は生理的に脳神経で記憶が形成して行き既知の記憶や概念
にとらわれしまう傾向にあります。一地域だけを近視眼的に研究していても全く解らない広範な
歴史的事象が広がっている場合があり時にはミクロよりマクロな歴史観察視点も時には重要です。
田畑様「仮名」
 それでは、江州番場つまり鎌刃城のある米原市(旧坂田郡)番場近辺のお話から御願い致します。
長谷川
★印に注目して読んで下さい。
 米原市番場に南北朝の古戦場蓮花寺があります。その地勢は★京都から東海への重要な通路です。
ウイッキペデイアを引用しますと「1284年(弘安7年)当地の地頭で★鎌刃城主土肥元頼が、良忠の
弟子とされる一向を招いて寺を再建し、八葉山蓮華寺と号した。蓮華寺は良忠の鎌倉における自坊
の旧名である。裏山に一向の荼毘地跡の杉と墓所がある。★1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐
天皇の綸旨を受けた足利尊氏等に攻められた★六波羅探題北方の北条仲時が★持明院統の光厳天皇、
後伏見上皇、花園上皇を伴い東国へ落ち伸びる途中、行く手を★佐々木道誉に塞がれた為、やむなく蓮華寺へ至り、天皇と上皇の玉輩を蓮華寺に置いた後に本堂前で一族郎党432名と伴に自刃した。」

田畑様「仮名」
米原市番場近辺で長谷川先生が特に注目されている金属関連地名とは?

長谷川
金属、冶金、鍛冶に関する地名として
 鎌上
★鎌ノ羽
 鎌研
 小磨針です。
 写真には写っていませんが
 薙刀尾「なぎなたお」などの地名もあります。
 つまり金物や刃物を研磨する様な地名です。
 ★の鎌ノ羽「かまのは」特に注目してください。
田畑様「仮名」
 鎌刃城の根本地名起源とはなんでしょうか?
長谷川
 米原市西坂の地名にあると思います。
 特に鎌寺地名は鎌刃城の起源を考える上では最重要だと思います。
つまり鎌寺の奥ノ院が鎌刃城へと変遷した山寺から山城に利用された可能性もあります。
 その他、大鎌や、番匠谷の地名も金属関係名称として重要だと思います。
 長浜市小一条の地名つまり旧西黒田村にも「番所」と書いて「ばんふところ」と呼んでいます。
田畑様「仮名」
  金太郎の★斧が印象的です。

黒田様「仮名」
 中世の寺院遺跡ならば風呂地名が番場にあるはずです!
長谷川
 勿論ありますよ。番場の小字に「風呂屋」があります。
 それは勿論鎌羽地名の東に隣接する小字名なのですよ。
 中世の風呂が施薬にもまさる湯治と考えられています。
 中世の風呂はいわゆる水蒸気サウナつまり岩風呂です。
 
黒田様「仮名」
 長谷川先生!これ以上ブログで言及されると、他のニセ者の学者に盗作されますよ!控えて!
 先生が本物である事は、ごく少数の私達だけが知っている事なんですから!本音は!控えて!
黒田様「仮名」
 長谷川先生!もういちど旧坂田郡に属していた「磨針峠」について御教示ください!復習を!
◆磨針峠の原典
 中山道磨針峠「 なかせんどうすりはりとうげ」の伝説は以下のようなものです。
「道はなほ学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」
その昔、まだ修行中の弘法大師がこの峠にさしかかったとき、白髪の老婆が石で斧を磨ぐのに
出会います。聞くと、一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にする
といいます。そのとき、ハッと悟った大師は、自分の修行の未熟さを恥じ、修行に励んだと言い
ます。その後、再びこの峠を訪れた大師は、明神に栃餅を供え、杉の若木を植え、この一首を詠
んだと伝えます。この後、峠は「摺針峠(磨針峠)」と呼ばれるようになりました。とある。
さてさて「道はなほ学ぶることの 難(かた)からむ 斧を針とせし人もこそあれ」の名言には
日本人ならだれでも感銘する名言であろう苦労難行を乗り越えた己の研鑚に努めた人こそ大成
すると言う。学業や向学心や研究者には一種の求道を感じさせる文言である。
ところがこの磨針峠伝説の名文にも中国の原典が介在しているのだ。


◆磨針峠伝説の原典は中国の『方輿勝覧』五三★「磨針渓」です。
★「磨斧作針」
読み方 まふさくしん
意味 惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することのたとえ。
学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいると、鉄の斧を磨いている老女を見かけた。
何をしているのか尋ねると「鉄の斧を磨いて針を作っている」と答えた。
老女の行動から努力・根気の強さを学んだ李白は学問に励むようになったという故事から。
★「老婆」「斧」「針」が登場する説話の原典は中国にあると言えましよう。
                        ↓長谷川博美「本人」↓

◆番外質問者1
 坂田金時伝説には斧が登場しますが坂田息長地域には斧に関する古墳はあるのですか?
長谷川
 旧坂田郡西黒田村の布勢古墳の遺物に「斧」が記されています。


 また旧坂田郡近江町の山津照神社の古墳や神宝にも斧が伝承されています。


長谷川
 さあまた滋賀県高島市マキノ町の剣熊の事をお話します。★に注目して下さい

◆『太平記』原文
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。

◆『太平記』現代語訳
河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、見の曲(嶮の曲剣熊?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。

◆文中の「見の曲」とは嶮熊(ケンクマ)と読める。
 クマは古来「曲」「熊」「隈」「隅」などの文字を当てる事が多い地名学的には際立った場所と私は推定する。
「見の曲」場所を現代感覚で表現するなら滋賀県高島市マキノ町小荒路(しがけんたかしましまきのちょうこあらじ)付近に相当する。もっと解り易い現代的感覚で言えば国道161号線の道の駅マキノ
追坂峠「おっさかとうげ」に近い場所でもある。
田畑様「仮名」
 なぜまた?滋賀県高島市マキノ町小荒路(しがけんたかしましまきのちょうこあらじ)付近の話題
をされるのですか?まさか「斧」に関する地名があるのですか?
長谷川
 それが困った事に滋賀県の
 高島市マキノ町★斧研川(よきとぎがわ)と言う地名があるんですよ!勿論国道307号線沿いに
 も「斧研」地名が有ります。米原の番場は磨針峠に関所に勤務する事に因むもの、また近隣には
 中山製鉄炉遺跡も存在しました。ここでは剣熊と鎌刃を比較研究する為に比較表を作成しました。

地勢地理
 ※番場は東山道に相当し京都から近江を経て東国に向かう交通の要衝。磨針すりはり
 △剣熊は北陸道に相当し京都から近江を経て北国に向かう交通の要衝。斧研よきとぎ
時代背景
 ※番場の蓮華寺は南北朝の古戦場。石仏が多数存在する。
 △剣熊は南北朝の古戦場で東の黒山石仏が多数存在する。


登場武将
 ※番場は鎌倉本舗地頭 土肥氏 地頭山城や鎌刃城
 △剣熊は鎌倉本舗地頭 熊谷氏 西岡城や塩津谷9城
 ※番場は佐々木道挙
 △剣熊は佐々木の一族「高島氏か?」
隣接古代施設
 ※横川駅
 △鞆結駅

◆黒河(くろこ)越えとは?これも黒地名だ!
 平安時代(927年)に編さんされた『延喜式』によれば、奈良時代には北陸への交通の重要
地点であったマキノ町域(現滋賀県高島市)に官道が通り、「鞆結(ともゆい)駅」が設置され
ていた。この鞆結駅から最短距離で敦賀松原駅に至る黒河越え(白谷越え)がある。しかし
、琵琶湖の水運の拠点である海津、大浦、塩津からの連結によって、鞆結駅ー小荒路―野口―
路原―国境―山中―駄口―追分―疋田―市橋―小河口―道口―敦賀に至るコース(七里半越え)が
官道となった、と思われる。黒河越えは七里半越えの間道になっていった。


長谷川
 西黒田村の熊岡神社の地名や西浅井の岩熊地名も金属に関連する地名なのか?

長谷川
 剣熊考は当ブログで続いています。ぜひともすべて一読される事をお勧めする。

 
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