城郭 長谷川博美 基本記録

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元亀天正の衝撃 令和平板測量の衝撃 虎御前山城伝秀吉陣

2024-09-12 09:30:57 | 滋賀の城 ビイスタ工法

元亀天正の衝撃 令和平板測量の衝撃 虎御前山城伝秀吉陣

▼経緯

◆長谷川

2024年9月7日私はNPO法人

自然と歴史ロマンの会の会

に参加する事になった。同

山の伝秀吉陣跡の平板測量

が完成し現代測量法による

城塞の平面構造が明らかに

された意義は織豊城郭研究

ひいては歴史研究上著名な

武将「信長」「秀吉」陣城

形状や縄張を的確に知り得

る機会を得られた事は私個

人にとり貴重な機会だった。

私文献『信長公記』の講師

をNHk名古屋文化センター

様や旧近江公民館で講師を

長年担当させて頂いた経緯

もあり灌漑深い城塞群とも

言える公記には天正元年年1

573年浅井氏の小谷城を陥落

させるまで秀吉が定番となり

一時は信長は横山城に待機す

る等当時の対朝倉氏浅井氏と

駆け引きは高い軍事的緊張

が存在した事が『公記』から

読取る事が可能であるさて伝

秀吉陣はあくまでも伝承であ

り虎御前山顕彰会による測量

結果は測量順位を後世に客観

的に残す為便宜上遺構番号を

F区と仮称された事は意義が

深いと私個人は考えている。

 

◆長谷川

城の設計を経始、縄張とも言う

が虎御前山城伝秀吉陣において

も城郭中央から縄張した中央型

測量の部分を伝秀吉陣から読み

とれよう。それは戦闘指揮官の

陣城として周囲を俯瞰指揮可能

なもので家相学をも含む物であ

ろう。

◆長谷川

中央から測量して城の形状を

決定する手法は後続する安土

城天守台や天正大坂城の中央

測量へ継承された事であろう。

 

 

▼天正大坂城郭ビイスタ

◆長谷川

虎御前山城伝秀吉陣が果たし

て秀吉当人の陣城かは現在は

これを冷静客観的に証明する

事は困難であるが虎御前山城

顕彰会の平板測量は正確であ

り令和と言う時代に元亀天正

の頃の陣城という人口構造物

を白日のもとに大衆や諸賢に

紹介できる事が幸いと言える

顕彰会の平板測量測量が如何

に正確かは戦国当時の測量点

が令和の現代でも読み取れる

事は生涯学習の観点や研究や

向学心の観点からは有益であ

ろう。▼虎御前山城伝秀吉陣

◆長谷川

伝秀吉陣は我々の想像を超える

歴史上の著名人物たる羽柴秀吉

のもと展開された虎御前山築城

プロジエクトが如何に豪放精緻

な平面測量術を駆使していたか

を令和に生きる我々知る可能性

優れた城郭遺跡群と言えよう。

 

◆長谷川

織田方の攻城対象たる浅井氏居城

小谷城を攻囲する陣形や縄張とは

私が赤色で掛腺した放射状の城郭

ビイスタ工法分析でも整合性認め

られる。

◆長谷川

江戸時代の享保期までは日本国の

城はこの様に測量しいた記録があ

り、ある意味城測量の基本形。

徳川系の城の縄張にこれが多い。

◆長谷川

藤堂高虎参画した江戸城本丸

西の丸にWビイスタが読める

◆長谷川

城郭測量の基礎原則ビイスタ

は当該秀吉陣にも読み取る事

が可能である事はこの遺跡が

太閤秀吉の事績を顕彰しつつ

長浜市の観光振興指針と合致

する案件でもあるので虎御前

山城の顕彰や小谷城とも共立

しながら長浜市の観光発展が

促進する事を長浜市出身の私

としては切に願う事である。

この遺跡は秀吉縁故の代表

的遺跡である事に再認識を

市民各位様には御願したい。

城の測量法は伝承継承され

るがその測量文化は時代の

経緯とともに忘れられる。

◆長谷川

伝秀吉陣ひとつとっても多数

のビイスタ測量起点を読み取

れる事が重要であろう。

◆長谷川

秀吉の築城技術やプラニング

縄張は近江八幡山城に継承を

されてい行った。

◆長谷川

彦根城に本丸に中央ビイスタ

と言う城の中心測量位置ある。

 

 

◆長谷川

天正秀吉大坂城にも多数の

放射状ビイスタが読み取れ

私は2~3人の人々とこれら

をストイックに内省的なが

ら勉強したいと希望する。

 

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