城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

多賀の起源 日本国の起源

2024-03-20 08:53:26 | エッセイ

◆長谷川

私は國學院大學で中村敬信先生

の『古事記』『日本書紀』を学

んでおりこれを神道文献解題と

言っておりました。遠い昔の事

であります。私は要領良い性格

ではなく大和朝廷の神話なのに

先ず『日本神話』で淡路四国か

ら日本国が形成される神話内容

に矛盾を感じました。

 

◆ウイキペデイアより『日本神話』引用

  1. 淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま、アハヂノホノサワケシマ) - 淡路島
  2. 伊予之二名島(いよのふたなのしま) - 四国
    • 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。

 

  1. 隠伎之三子島(おきのみつごのしま) - 隠岐島
    • 別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
  2. 筑紫島(つくしのしま) - 九州
    • 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
      • 白日別(しらひわけ) - 筑紫国
      • 豊日別(とよひわけ) - 豊国
      • 建日向日豊久士比泥別(たけひむかいとよくじひねわけ、タケヒムカヒトヨクジヒネワケ) - 肥国
      • 建日別(たけひわけ) - 熊曽国
  3. 伊伎島(いきのしま) - 壱岐島
    • 別名は天比登都柱(あめのひとつばしら)
  4. 津島(つしま) - 対馬
    • 別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
  5. 佐度島(さどのしま) - 佐渡島
  6. 大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま、オホヤマトトヨアキツシマ) - 本州
    • 別名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわ

 

◆長谷川

一番最後に生まれた本州が登場

する事は古代末子相続制度を鑑

みるに末子が宗主たるとも言え

るのですが四国方面から国生み

神話が登場する違和感は今でも

残っております。

 

◆長谷川

東京大学大橋教授の渡来人ゲノム

の調査研究図を見ると四国方面に

渡来人ゲノムが多いと医学的解説

分析されている事を考え合わせる

大和朝廷の『記紀神話』神代編と

よく適合している傾向にある事が

解ります。渡来人のゲノムを含む

血統が四国や近畿に多い傾向にあ

る事は興味深い傾向にあると思う

これ記紀神話の述べる神代の世界

に共通する不思議さが潜在する事

◆質問者

長谷川先生は狗奴国が九州の

何処に存在したと考えてます?

 

◆長谷川

どちらとも断定できません!た

だ九州南部に縄文ゲノムが濃厚

に医学的に残っている事に注目

をすば魏志倭人伝の狗奴国とは

肥後熊本かもしれませんよ微笑?

狗奴国について『魏志倭人伝』に

「男王「卑弥弓呼(ひみここ)」いて

官を狗古智卑狗(くこちひこ)と。

卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」

と解釈すれば九州南部に縄文ゲノム

多い事は注目したいですね。

 

隼人の楯(はやとのたて)は、奈良県奈良市平城宮跡より出土した、古代在京隼人が使用した8世紀前半頃の木製の。『延喜式』に見える「隼人楯」の記述と合致する特徴を備えた奈良時代考古資料である。

概要[編集]

飛鳥・奈良時代、南九州薩摩大隅地域の人々は、当時の律令政府により擬製的な化外の民夷狄)として扱われ[1][2]、「隼人」と呼ばれた。史料上での隼人は、『古事記』の神話部分や仁徳天皇条などに見え、早くから登場しているが、確実な史実としての記述が認められるのは、7世紀後半にあたる天武朝11年(682年)7月の飛鳥京への朝貢記録(『日本書紀』)からとされる[3]。これ以降801年延暦20年)の朝貢停止(『類聚国史』)・805年(延暦24年)の風俗歌舞停止(『日本後紀』)に至るまで、ほぼ6年毎に朝貢し、都(藤原京平城京)で兵部省傘下の隼人司に統括され、宮城警備や宮中儀礼行為への参加、竹製品の製作などの課役に従事した[4]

楯の発見[編集]

楯は1963年昭和38年)、平城宮跡の第14次発掘調査6ADH地区(宮城跡南西隅)で検出された井戸遺構(SE1230)から、枠板に転用された状態で計16枚みつかった[5](15枚とする資料もある[6])。

特徴[編集]

奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)編『木器集成図録(近畿古代篇)』に掲載された1枚は、長さ152.2cm、幅48.0cm、厚さ2.6cmを測り、上部のみ山形を呈する。使用木材はヒノキである[6]

◆長谷川

隼人の盾の意匠デザインなど

は縄文文化の息吹を感じさせる

大嘗祭で犬吠え「隼人」と呼ば

れる門番が門扉開閉の時には

ウオーとケイシツの声上げる。

これは現代の神職も使います。

 

◆質問者

大和朝廷に仕えていた氏族の先祖

はどう記録されていますか?

 

◆長谷川

ウイキペデイア新撰姓氏録』引用

(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の

815年弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により

編纂された古代氏族名鑑。

「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「加羅」として9氏、「」として163氏それぞれ挙げられる。しかし、「」も元々新羅系の氏族であり、新羅国が敵国になった叱責から逃れるために坂上苅田麻呂は以前新羅から来たと記録されていた先祖「阿知使主」を東漢氏と名乗り、「」から来たと創作した[2]

◆質問者

 

淡路島の多賀に伊弉諾神宮

(いざなぎじんぐう)」ある

事を不思議に思いますが?

 

◆長谷川

古事記には伊耶那岐の大神は

淡路の多賀にましますとあり

淡路なのです。日本書紀では

「是以構幽宮於淡路之洲」で

これも淡路島と言う事です。

日本書紀の真福寺本には淡海

(近江)の多賀としてます。

 

ウイッキペデイアより

日本書紀』・『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島多賀の地の幽宮(かくりのみや、終焉の御住居)に鎮まったとあり、当社の起源とされる。 伊弉諾尊の幽宮と伝わる場所は、他に滋賀県多賀大社があるが、これは『古事記』の真福寺本の「故其伊耶那岐大神者坐淡海多賀也。」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述による。ただし、多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐淡路多賀也。」になっており、その他の諸々の理由から、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。

 

◆質問者

古い記録『延喜式神名帳』

近江の多賀社の格式とは?

 

◆長谷川

それが多可と表記されてて

多賀とは表記されていない

発音も タガではなくタカ

多賀社は中世に坊人の活動

により全国に名が通る神社

に隆盛した神社と言う事に

◆長谷川

延喜式で「タガ」と発音せず

「タカ」と発音している事を

考えけば「多加」の宮とは

現在の彦根市「高宮」音韻に

一番近いと感じる人は多い事。

 

多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社式内社で、旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

古くから「お多賀さん」として親しまれ、神仏習合中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。お守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。

祭神[編集]

歴史[編集]

由緒[編集]

和銅5年(712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い[注 1]

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上氏)の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ[1]飛鳥時代遣隋使遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる[2]。この犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖とされる。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社(境外社)の山田神社は猿田彦大神を祀る。

多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。敏達天皇の時代には胡宮神社の境内に敏満寺も建立され、やがて敏満寺は多賀大社の奥の院となる。

八咫烏関連の神社で烏に供物を捧げる先喰行事と言う特殊な御鳥喰神事を行っている。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ」[編集]

戦国時代明応3年(1494年)には神仏習合が進み、神宮寺として天台宗の不動院が近江守護六角高頼によって建立された。神宮寺配下の坊人[注 2]は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢神宮熊野三山とともに庶民の参詣で賑わった。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。なお、当社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小谷城の秘密 安土城の秘密... | トップ | 魏志倭人伝と神武東征神話の... »
最新の画像もっと見る

エッセイ」カテゴリの最新記事