城郭 長谷川博美 基本記録

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驚愕!明智光秀、丹羽長秀、琵琶湖水軍の奥琵琶湖の戦い!

2022-01-19 10:30:29 | 民俗学
城郭イラスト鳥瞰図上文字クリック
 
◆塩津の者
塩津の者です。令和4年1月15日の塩津講演
長浜で受講しましたが大変に驚いています!
塩津大川沿い城郭遺跡の多い事に驚愕です!
それから県外方多数参加されこれも驚きです!
 
◆資本家/商売人
塩津海津竹生島に明智光秀が現実に来ている
文献があるならば、愛知や岐阜では即刻明智
十兵衛船弁当を作成して此れを売り出します。
もしかして北近江の人って歴史も商売も下手
なんじやないのかな?琵琶湖の魚介類や湖北
の山菜、非常に美味な鴨肉など上手にブレンド
して上品で智的な明智光秀イメージの弁当を
創作できます北近江の人は商売気が全くない?
 
 
◆受付様
開講に従って参加者が次々に写真よりも多く
なり当日の資料が不足すると言う現象が発生!
地域動員という半強制的な地域学習会的要素
はなかった。非常に広範な学門趣旨に満ちてた!
 
◆驚愕!明智光秀、丹羽長秀、琵琶湖水軍の
奥琵琶湖の戦い!
 
◆対談者
ぶどうは一個だけで成り立っていません。陣容
や砦も群れを成している。勿論当然軍勢が布陣
する場合一箇所だけではありません。古戦場の
遺跡を何を考えているのやら石碑や看板が遺跡
だと錯誤している人々が非常に多い事に困惑を
致します。古戦場見学とは石碑や看板写真集で
はあろうはずがありません。砦ひとつひとつの
集合体「群れを見学する事。今朝食べた御飯も
飯粒の集合体です。古戦場に広がる遺跡は数多
く存在し石碑石柱は現代の人の目印だけにしか
過ぎない必ずしも古戦場の遺跡の現場が看板や
石碑の場所とは言い切れません。私は、合戦時
の400年前の現実や実際の現場を見たいと思い
ます。現実の陣や砦痕跡を検証する砦を認識す
る力を身に付ける。古戦場認識力を高めたい!
 
◆長谷川
なるほど観光と歴史の現場とは常に異なりズレ
ている。人間の言葉や文字や言説と現実の遺跡
は常にズレが存在。しかしズレに気付く事もな
く観光客様や一般の歴史通様とは一生を終える。
 
◆長谷川「塩津奥琵琶湖の歴史文献」
 
歴史文献『信長公記』元亀3年1572年の記録は
「海上は打下の林与次左衛門・明智十兵衛、堅田の
猪飼野甚介・山岡玉林・馬場孫二郎・居初又二郎に
仰せ、囲舟を拵へ、海津浦、塩津浦、与語の入海、
江北の敵地、焼き払ふ。竹生島へ舟を寄せ、
火屋・大筒・鉄炮を以て攻められ侯。」とある。
 
当時の歴史的記録が淡々と記されている。この中
に記された武将はいずれも、元亀年間に織田信長
の陣営に属して、当時織田方の敵地「江北」浅井
氏領に舟を用い現在の大津市や高島市を拠点とす
る、武将達を中心に奥琵琶湖北岸に向けて志賀郡、
高島郡の舟戦「ふないくさ」に精通した、琵琶湖
水軍「湖上の軍団」の北上と言っても過言ではな
いだろ。この中の湖族では武将連の中で一際織田
信長に重用され、近江志賀郡の坂本城を根拠を置
いて丹波占領や織田家臣としての転戦で頭角現し
最後には主君信長を本能寺で死滅させた明智十兵
衛光秀が記録がある。この『信長公記』元亀3年
の文面を読む限り明智は高島郡から出陣と推測さ
れる。近年細川家に関係する米田文書などから明
智十兵衛光秀は近江高島郡、たなかの城に永禄年
間に籠城していた一武将として登場するがさてこ
の明智が美濃明智十兵衛か?近江佐々木六角に亡
命した、土岐頼芸の家臣つまり近江立入氏文書に
言う、「明智は美濃土岐随分の衆」随う衆と書か
れてる。近江犬上郡佐目に明智光秀伝説が存在し
また江戸時代初期に徳川氏筆頭格の彦根藩井伊氏
の筆頭家老格木俣土佐守は一時坂本城主明智光秀
の小納戸役「機密文書管理係」だった経緯が存在
する。そて果たして明智十兵衛なる人は何処の人
であろうか謎が深まる?木俣土佐守は徳川方へと
明智から帰参して本能寺の変の時には徳川家康の
一向に随行している事や彦根藩の重鎮となっては
西の丸三重櫓、土佐郭の三重櫓など天守閣級の櫓
を管理していた事は看過出来ない。
 
◆長谷川
上記『信長公記』元亀3年1572年の記録の地名解説
海津浦=高島市海津港①
塩津浦=滋賀県長浜市西浅井塩津港②
与語の入海=滋賀県長浜市余呉町余呉湖③
①②③地名は何れも琵琶湖北岸の奥琵琶湖の港湾や
湖沼である。またこの記録を読む限り、織田信長方
へ従属した近江、志賀郡衆や高島衆の当時の舟戦や
琵琶湖上の戦の状況を生々しく太田牛一が描写する。
 
◆長谷川
上記の事から元亀3年1572年織田信長の近江西
近江衆は湖北近江国北部『奥琵琶湖」に船舶を用
い侵攻した状況を知る事が出来る現代社会の歴史
視点の盲点、琵琶湖、湖上交通「ウミの道」や山
の道の存在だ。
 
◆長谷川
近江志賀郡堅田衆と北近江阿曽津浦の関係「民俗学的考察」
上記『信長公記』に登場する堅田の猪飼野甚介、
居初又二郎は元来近江四十九浦を統轄する堅田
湖族であり、殿輩衆でもある。堅田衆が嵐に遭
遇した場合は奥琵琶湖阿曽津浦に停泊できる権利
を過去に持っていたとされる。今回、登場する
飯之浦と阿曽津浦は非常に近い位置にある集落で
ありもっとも阿曽津浦は地殻変動により水没した
とも伝承される。また中世の『菅浦文書』などで
は菅浦地籍の竹林を堅田の住民が切り取る訴訟事
件が記録されている。奥琵琶湖と志賀郡の関係は
古より琵琶湖湖上交通として湖の道、足利の道と
して知られた存在。
江戸時代に作成された『近江國細見図』にも『信長公記』
や『太閤記巻第六』に登場する、海津は「足利海」と表記
され湖上の道、水運の道として認識されていた事が、理解
され江戸期地図には、足利の海「名所」と記されている。
また『小荒地』の地名や『天熊』の字名には目を見張る。
▼長浜市木ノ本町飯之浦より竹生島を望む奥琵琶湖景勝の地。
▼戦国の舟いくさの様子 明智十兵衛も乗船した事でしょう。
 
◆竹生島と浅井氏
天正元年近江浅井氏は小谷城で織田信長の為に
滅亡した、秀吉が竹生島を調査させた所、竹
生島から浅井氏の築城用部材の竹が発見されて、
浅井氏の竹生島の戦略拠点として改めて認識出
来る。明智竹生島砲撃の様子は『信長公記』に
 
「竹生島へ舟を寄せ、火屋・大筒・鉄炮を以て攻められ侯。」
と言う文言でも竹生島の湖上交通拠点としての深意が解る。
 
▼北国街道から分岐して塩津に至る塩津街道の様子が解る。
▲今回の投稿では、この塩津街道に是非とも着目したい!
言うまでもなく『信長公記』の天正元年の記録は落城した
浅井方の城として「しずかたけの城」が既に登場している。
ちなみに秀吉と勝家の賤ヶ岳の戦いは天正11年1583年である。
▼城郭としての「賤ヶ岳城」
◆与語の入海=長浜市余呉町余呉湖に湖西から侵攻する
場合最も利便な土地は現在の長浜市木ノ本町飯之浦坂で
あろう。この坂は天正11年1583年、羽柴秀吉と柴田勝家
が覇権を争った賎ヶ岳の戦いの激戦地として世に知られる。
この合戦の激戦の局地が飯之裏坂の切通しである。元亀
3年の記録にある余語入海「余呉湖畔」への侵入も
長浜市余呉町川並や文室に存在する足海峠通称権現坂か
?この飯之裏坂の切通以外に地理的には考えられない湖
へと続く陸路である。天正元年明智は奥琵琶湖の余呉に
琵琶湖湖上交通を利して訪れた歴史上の人物明智光秀が
余呉に来ている記録や現実も非常に興味深い、史実だ。
余談だが長浜市に西浅井町庄に明知谷なる地名存在する。
▼2019年当時の記念写真
 
◆天正11年1583年の琵琶湖賤ケ岳城と塩津街道と湖上の道
太閤記巻第六より
〇丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事
「長秀其比は若州幷江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城
とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に3千、
塩津海津の7千賦り置、江北を静めける処に、卯月十七日、
秀吉濃州表出張之由に付て、柴田に対し在取出之城々無心
元存、小姓馬廻千余人、組頭二三輩召連、船五六艘に取乗、
同廿日出船有。漸汀近く成に随て、鉄砲の音夥く鳴出したり。
渚を見れば、旗さし物多く立さはぎぬ。長秀察しけるは
、敵志津嵩を攻落し、其勢溢出かくや有。船を急汀へ着けよ
とぞ怒りける。坂井与右衛門尉江口三朗右衛門尉も、げに左
もあるべしと覚え奉る。然 即引返し、坂本之城を堅固に守
給ひ宜しく候はんと諌ければ、いやとよ、弓矢取身の図を
はづし義を汚せば、必 終りが無物と云いつゝ、はし舟を
おろし海津は遣し勢を分、三分二、急志津嵩へ可相越旨、
書状を調へもどしけり。望月曰五里漕もどって勢を催し、
五里来たらん。其勢何として、此急難の用に申候はんや。
長秀曰、それは狭き存分なり。物は期の延る事おほく有物
ぞかし。志津嵩之城加勢とし・・云々」と記している事だ。
 
 
この記録を読めば天正初頭は信長の家臣明智光秀が湖西か
ら奥琵琶湖に船舶で侵攻した如く天正11年当時も奥琵琶湖
の塩津海津の守備と敦賀表「疋田方面」の丹羽長秀の守備
が描写されている事が解る。当時の丹羽長秀の軍事行動も
琵琶湖上を利した湖上交通である事も理解が可能である。
また丹羽長秀自身が船で賤ケ岳城の救援確保に必死であっ
た事も推定され。賤ケ岳の本戦で丹羽長秀は羽柴秀吉と賤
ケ岳城で合流して見事に秀吉をサポートするパートナー的
役割を果たしている。
 
◆称福寺の兵糧運搬伝承「長浜市西浅井町月出」
秀吉は、賤ヶ岳合戦の長期戦に備え西浅井から遠くは敦賀
方面まで米、麦、豆等食糧を買い入れ、各々の砦に蓄えた。
食糧運搬にも、黙々と協力した一向宗徒。西浅井町月出に
称福寺という寺院がある。十世香栄和尚は、父長崎和尚と
ともに、里人を引き連れ、ご糧米運送に協力。敦賀方面から
運ばれてくる糧食や塩など、舟運を使い海津から飯ノ浦や
山梨、塩津等に陸揚げ、賤ヶ岳城や神明山城に運ばせた。
と伝承される。秀吉から大いに感謝されたとされている。
これは紛れもなく塩の道であり塩津街道に関わる内容だ。
 
しからば羽柴秀吉や丹羽長秀方が賤ケ岳城を
拠点とした、以上、賤ケ岳合戦に、おいては
柴田方は地図の●1地点や●2地点や●3地点を
占領して賤ケ岳城を是非とも落城させる必要が
生じる是は戦陣の必然とも道理とも言えよう。
 
◆2020年塩津街道山越えと飯之浦に調査出発
 
◆長谷川
あの飯之浦と塩津浜の間の山には必ず合戦の
痕跡がうあると私は推測し仮定致します現地
に行き遺跡があれば私の古戦場陣立推理つま
り城郭遺跡分布学は適切であると言えるかも?
 
▼赤信号の上の山にあると私は地理的に推理。
 
◆対談者
確実にあるのですか?それとも空想や妄想ですか?
もし小さな堀切でも発見出来ればそれは学問の世界。
 
◆長谷川
賤ケ岳合戦屏風には奥琵琶湖の山梨、飯之浦の水際
で羽柴方柴田方が汀で戦う描写が残されております。
これは奥琵琶湖湖岸の戦い「みずうみの合戦の様相」
 
▼柴田勝政陣
◆対談者
それでは先生の推理される峰に登山する事にしましょう!
長谷川
Aポイントに調査の照準を合わせましよう!
 
◆対談者
本当に堀切があるのでしょうか?
私はいつもいつも不思議に思います。
長谷川先生は城郭分布、民俗学、文献、伝承、それらを
総合して推定発見される。またその現場に行って見て堀
切が出現すると我々素人は大変に驚きます。鳥肌が立つ!
と同時に全く城郭遺跡を発見されない人の
学門の浅さ軽薄さ情報収集だけで論説する
人の学門の浅さに私は幻滅致します。私が
求めてるのは現実、現場、真実の歴史です。
 
◆長谷川
その言葉是非謹んで頂けませんか?生涯古城を一城
も発見せず一流と豪語される人もおらる世間で全く
無名でも理路整然と山城を理論的に次々と発見研究
する先生もいます。人間社会とは、私は学門よりも
〇〇先生の派閥だと公言される人に充分配慮した言
動を御願い致します。城を発見した優秀な1名様とは
社会から冷たい目で白眼視され冷遇される場合がある。
現代社会の集団心理に充分に気配りする配慮する事が
大切です。群集心理や集団心理とは時に恐ろしきもの。
 
◆見学者
ゴチヤ、ゴチヤ言わずに現場の堀切の写真を見
せて下さいよ。そしたら私は即刻納得致します。
 
◆長谷川
では写真は真実を写すから写真と言えますね?
▲田畑さんが居られる位置は正しく堀切の遺構と言えます。
 
◆学問と世俗の分かれ道「分岐点」
ここで堀切発見だと驚愕される熱心純心な人と
そんなもの観光歴史には関係ないと言われる人
の分かれ道となります。駅で言うなら改札口は
重要でないと言う人と改札口は駅の基本ですと
言われる2者に別れる事です。実際に城址に行
き堀を全く解らない見る気が全く無いと言う人
もおられ城の初歩の初歩たる虎口も知らない人
も社会には存在されます。現実社会の観察です。
この写真36.6mの布陣城郭遺跡「堀切構造」です。
 
◆対談者
図面を作成されましたか?
 
◆長谷川
私は素朴で基本的ですから城址や砦は計測します。
全長約36.6mの堀切を伴う臨時の布陣砦の跡です。
◆長谷川
背後には図の様な臨時臨戦遺構が残っております。塹壕の一種
尾根の背後の左翼と右翼を鉄砲銃座により背後をバックアップ。
◆対談者
私はこんな山に行った事がないのです?
◆長谷川
今回の砦からは塩津浜3曲わが眼下に見渡せます。
◆見学者
行きました。長谷川先生と有志の方と塩津浜の城の堀切を見た!
◆対談者
さて交通の証たる塩津街道も見学されましたか?見ましたよね!
◆対談者
峠に地蔵菩薩様もおられました。これも歴史の道の足跡
 
 
コメント (2)
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