城郭 長谷川博美 基本記録

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天正大坂城 本丸の秘密!天守平面の秘密!

2021-05-06 06:31:28 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
https://youtu.be/i1CnB7XQwGk
城郭ビイスタ論 上文字クリック

秀吉の天正 大坂城本丸の秘密!天守平面の秘密!

◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論動画が全国区で大変な
話題になっています!安土城ビイスタ構造論も凡そ
理解して、さあ天正大坂、おおざか城のビイスタ論
や放射線縄張り理論を是非とも再度御教示願いたい
です。放射線状縄張自体が城郭研究の重要項目です!

◆外部質問者
滋賀県長浜市木ノ本町に所在する天正11年期の羽柴
秀吉と秀長の陣城、近江田上山城には放射線設計や
放射線設計が存在したのか是非とも御教示下さい!

◆長谷川
ハイ本当に御城を見る事は観光客様には御気軽な
事かも知れませんが私は城址ハイキングを先天的
に楽しめない「先天性幾何学城郭少年」が基盤で
田上山城は数ヵ所の放射状縄張があると思います。
◆長谷川
しかし羽柴秀吉や羽柴秀吉とは凡庸な現代人
とは隔絶した才腕、才気、非凡な能力を持っ
人物で勿論竹中半兵衛や黒田官兵衛や様々な
才能を持っ優秀なブレーンやスタッフを抱え
ながら信長に仕へやがて天下を統一した傑物
です。私のようにボーツとした人格ではなく
特に秀長は書簡を見ても完璧な文体を残して
いる優れた人物。後に築城の名手と謳われる
藤堂高虎も既に秀長の陣営に属して築城術の
スキルアップ築城知識の習得に励んだ頃だと
思います。従って彼羽柴秀長の陣城が凡庸な
駄作の城郭では決してない複雑高度な測量と
と施工をなしていたと私は考えております。
その高い測量技術は必ずや天正大坂城築城
で羽柴政権豊臣政権で活かされた事かと思
います。
▼長谷川博美 羽柴秀長 近江田上山城図


◆質問者
秀吉が天正11年賤ケ岳合戦後に着手した天正大坂
城天守もビイスタ工法「放射状測量」を用いて放
射状に緻密に縄張されていますか?

◆長谷川
徳川家康の城大工だったの中井正清が大坂の陣の
直前に、家康の密命により、大坂城の絵図を作成
したという逸話がありますが、この大坂城図自体
が非常に正確に記録されている事は図面と一致す
る秀吉時代の地下石垣の発見検証でも証明されて
おります。では早速、天正豊臣大坂城天守の平面
構造や放射状設計「ビイスタ工法」が存在したか
図面で検証します大変奇妙な事に天守四角四面で
なく図A部の如く傾斜角度を持って設定してます。
それは田上山城でもE群の縄張に類似する台形櫓
で黒田官兵衛もこの縄張を用いる傾向にあります。
試論①

◆長谷川
北から見た長谷川掛線挿入天守付近の放射状縄張です。
天守自体の平面構造も放射状縄張に影響拘束されまし
て規則正しい正方形ではなく歪な台形である事に注目。
試論② 北から天正大坂城天守のビイスタ工法

▼試論④真北から天正大坂城天守のビイスタ工法

◆長谷川 二方向の天守の眺望も考慮した図
試論⑤西から天正大坂城天守のビイスタ工法


◆質問者
天守閣の角が直角90度でない歪平面に納得行きません!

▲彦根城全身建物図
◆長谷川
柔軟発想が願大切!昭和30年代に彦根城天守閣が
解体調査され彦根城全身建物は五階天守でしかも
その平面は歪な長方形と評価されています。古い
古様の天守は正方形とは限らないのです。それは
縄張という城郭基礎設計に強く起因するものです。
私も多数の中世城郭の天守に匹敵する大型の櫓台
を計測した経験が有りますがむしろ正方形の櫓台
の方が珍しいとも言えます。これは中世から継続
が繰り返された城郭縄張手法が正方形を基調とは
せずに多角測量や放射測量法に基準を置いた城郭
縄張の系譜やルーツとも言えると私は思います!

◆質問者
天下人となった秀吉の大坂城天守台が四角四面でない
事には納得行きません。そんなの建物が歪になります。

◆長谷川
安土城天主の天主礎石は方位に準じる設定ですね。
でも天主の外周石垣は全く正方形ではありません
これは城郭普請の縄張担当者と建築作事の建築物
設計者の担当が全く分離分業セパレートしている
事を意味します。普請奉行と作事奉行は役割担当
が別で異なります。安土城の八角平も内周と外周
の放射線状の石垣縄張設計を読みとる事が出来る。

◆大坂城天守の中芯点を中井家図から読み取れます?

◆長谷川
ビイスタ理論、放射縄張理論を応用すれば比較的簡単
に対角線理論から豊臣大坂城天守の中心軸が解ります。
◆長谷川
注意深く観察すると極楽橋や山里曲輪に降る階段の
近辺も異様に繊細な放射状縄張設定を用いています。

◆長谷川
本丸主殿は建物を美しく雁行アイウに配列して
なおかつ主殿と天守の両建物は互いにより美し
くより豪壮絢爛に見栄のする光背効果に優れた
調和を見せていた事でしょう。是を見た諸国の
大名は豊臣政権の到来を強く印象付けられた事
でしょう。表御殿も放射状縄張を用いて本丸の
前衛とした豪壮な城の表空間を形成しています。


▼大手より安土城のビイスタ構造線「長谷川博美論」
◆長谷川
まあ古来より国家を治める人物たる為政者達は
連絹として放射状縄張ビイスタや規矩術を用い
風水思想や方位学をも取り入れて自らの拠点を
構えた普遍的な事を人類とは繰り返しています。
▼纏向宮殿遺跡「奈良大和」古代倭人の宮殿跡。



▼安土城放射状縄張設計理論図「長谷川博美図」

◆長谷川
徳川家城大工中井家に伝わる天正大坂城の平面
構造を持つとされる絵図面見れば城郭通の貴方
ならば一目瞭然に即刻的確に解る事でしょう?

◆対談者
自称城郭通を自負しているのですけど図面見て
も何が何やら全く解らないと言うのが一般社会
人の本音と言うもの長谷川先生ならば、スラリ
と解説解明されると私は思って質問致します!
何しろ城郭金田一耕介と言われる長谷川先生!
ズバリ!ドスーンと飄々と解説されると思う!

◆長谷川
大坂城の中芯から門、石垣、横矢、水堀、空堀の形状
全て〇の印のある測量経線を通し、見通して、つまり
展望し測量しビイスタ線がある。城を研究している人
なら誰でも簡単に即刻簡単に読み解け分析解説できる。

◆みんな
長谷川先生自分で自身を過小評価しないで下さい!
元『滋賀県中世城郭分布調査』で数多く山城の図面
を描いて来られた先生の現地城郭構造解説が如何に
凄いか?如何に特殊な能力か?日本中の人々そして
安易な自称お城好きの人に全く理解出来ない事かと
思います。私達「みんな」は世間から何と言われよ
うが、長谷川先生の城郭解説は真心や誠実が基準に
成立っている。遺構現実に則り「のとり」解説する。
先生の城址解説見学会を慕い参加する人達がようや
く先生の本当の実力に気付き始めた!天正大坂城
主要部ビイスタ線の卓抜かつ類稀な解説!一体戦前
戦後のどれだけ著名な城郭の先生も全く気付いては
いない。解説し得なかった事です!長谷川先生だけ
がまるでコロンブスの卵の様にサラリ何気なく天正
大坂城のビイスタ構造をいとも簡単に謎を解いて述
べる事自体が我々は度胆を抜かれ衝撃を禁じ得ない!
太閤の縄張を理解して洞察するには並の研究家の力量
では所詮無理です。既に秀吉の築城技術は藤吉郎時代
に既に開花したと長谷川門下は「みんな」思ってる。
◆長谷川
この作業は素人の人が武田勝頼の新府城に放射状
の縄張りが有るのか?武田流の枡形や馬出に掛線
を入れておられる訳ですよ。何故武田の枡形が広
がっているのか?本当に丸馬出なのか検証してい
る写真です。言って置きますが、この写真の意味
は城郭通と豪語する専門家の常識や見解を根底か
らくつがえす全く新しい城郭研究の新分野です!


◆対談者
長谷川城郭塾の特徴、つまり長谷川先生の城郭遺跡
指導は純粋ピュアーな精神の初心者を指導する事で
城郭縄張の奥の院や奥義、深奥、深淵にまで城郭に
対する理解力を高めてくれる初心者こそが城郭遺跡
の深奥を極められるという謙虚な精神性に立脚した
学門的深さが存在すると思う。その精神性こそ重要。

◆みんな
そうそう、自分は100回城郭講演に参加した。自分
は100城、200城全国の城を見学した城郭ベテラン
であると自負する心には必ず驕慢や悪い意味での
自尊自慢が発生し城郭構造を初心にもう一度帰り
考え直す、原点回帰の向学心を喪失する事がある。
だから私は有名観光城郭、メジヤーな城郭だから
見学に行くと言う発想自体、ミハー的観光的発想
だと思います。有名無名に関係ない冷静に城郭の
構造を客観的に冷静に如何に比較研究考察できる
かが城郭見学者と城郭を娯楽や快楽原則として捉
える大衆城郭娯楽の城郭ブーム流行との差異です。

◆気付様
長谷川先生Bの空堀の場所が歪「いびつ」です!
何故なのでしょうか?城郭の金田一耕介ならば
縄張の魔術師ならばサラリと解説だけの軽々と
解説してのける本当の本物の力量と実力がある!

◆長谷川
●1●2●3●4の貫く放射状縄張「ビイスタ」工法です!



◆みんな
流石先生!スゴイ!人間国宝に認定だ!(爆笑)
竹中半兵衛や黒田官兵衛と同じ力量と眼力だ!
▼長谷川 大坂城 掛線挿入図


◆長谷川
 私をスゴイと思わないで下さい!当該ポイント
を指摘できる「みんな」つまり、私の城見学に
参加した全くの素人さん達が参加する度に日々
城郭を見る力、城郭見学力の力量がアップした
スキルアップした事です。城を勉強する場合は
人間である長谷川を尊敬尊崇する事は忌避して
欲しいのです。城の本当の先生や根本って何?
それは教える立場の人でない、城を真剣に見る
各自の心、野球で空振りする人は球を見てない。
城を見誤る人は城を見てない。単純な話ですが
城は物、人間を尊崇する行為よりも、貴方自身
が本当に城自体を現場の城自体を深く看破観察
する人間へと成長される事を私は老婆心ながら
謹みて希望致します。城を見る事の大切さです。

◆長谷川
他にも5●多聞櫓横矢
や6●曲折階段の横矢
7●の舟入口の入隅や
8●の横矢
また9●の隅櫓
10●の帯郭地下道
11●の土橋起点
12●横矢
13●横矢歪線
14●空堀起点
等の放射状幾何学配列や設計が読み取れます。

◆反論者
そんなバカな?城って、甘い菓子食べたり、
美味しい御弁当食べたり、城グッズ買った
り城を楽しむ事が城郭本来の楽しみや娯楽
であり城郭の本道で娯楽の殿堂城の基礎だ。

◆みんな
チョツと勘違いなさらないで下さいませ?
この投稿は「城まつり」や「城観光」また
「城旅行」と別の分野の城研究の世界です!
あなたの「城楽しい」と私達の「城愉しい」
は全く別の分野の世界で別分野でしようが?


◆特別質問
中井家大坂城図には土橋が描かれてます。
岐阜県大垣市垂井町の昼飯大塚古墳発掘
でも前方部に土橋が検出されていますが
大坂城は古代摂津の大王級クラスの前方
後円墳が起源と言う説も聞いた事があり
ますが?▼大垣市垂井町の昼飯大塚古墳

◆長谷川
現在私達見ている石垣は徳川秀忠によるもの
地下に眠る三段石垣は豊臣秀吉時代のもので
更に研究発掘が地下へ進捗すれば石山本願の
御堂の遺構や更に古代の摂津に君臨した大王
「おおきみ」クラスの大型前方後円墳の葺石
や古墳周囲に並べられた円筒埴輪破片等が地下
より出土すれば更に大坂石山の歴史価値が深ま
るかもしれませんね?



▼虎御前山城 伝木下藤吉郎陣跡
▼虎御前山城 伝木下藤吉郎陣跡 放射状縄張の模索




◆米原市住民様
私達、伊吹、山東、近江、米原は合併して米原市
になったのですが歴史城郭研究家、長谷川先生の
事は、全く知らなかったのです。しかし県外記事
ブログを見ていると長谷川先生は東海地方の講演
に登場しNHK名古屋文化センターで長年『信長
公記』の講師そして関西の大看板関西城郭研究会
でも2回も講演されている先生だとは全く知ずに
最近気付いた訳です米原在住の有識者の某先生が
長谷川先生が埋もれていたままでは真のに残念と
米原公民館の歴史民俗学と城郭の講師として強く
推薦された言う経緯がある訳ですよ。

◆長谷川
真に恐れ入ります。私は元より不遇の浪人です
以下日程で米原公民館様で隔月連続講座を謹み
担当させて頂く事になりました。彦根、米原、
長浜、近隣の方には宜しく御願いを致します。
また東海、近畿、北陸の結節点である米原駅
西口から徒歩約5分と言う利便の地に米原公民
館様は存在します。重ねて宜しく御願いを申し
上げます。


◆一般者
長谷川先生の米原公民館の講座を御案内下さい!

滋賀民俗学会 理事 長谷川博美 
米原公民館連続講座

〒521-0016
米原市下多良三丁目3番地
連絡先
電話番号 0749-52-2240
公民館様より
長谷川先生以下の日程で歴史民俗学の講座講師
を御願いする予定です。開講人数も、集まって
おられます。追加参加者様が有れば受付します。
先生には城郭だけに限定せず民俗学や歴史地理
も含め活かした楽しい参加者自身が考える米原
学の推進を是非お願います。

滋賀民俗学会理事 長谷川博美 連続講座

講座タイトル
『お城造りから見るお城と人物伝』
各回参加費500円を公民館で徴収
資料は現実受講される人のみ限定

令和3年2021年
1 5月27日木曜 10時~11時 3A研修室
2 7月29日木曜 10時~11時 3A研修室
3 9月30日木曜 10時~11時 3A研修室
4 11月25日木曜10時~11時 3A研修教室
令和4年
5 1月27日木曜10時~11時  3A研修室
6 3月24日木曜10時~11時  3A研修室

▼以下ウッデイパル城郭フオーラムチラシより


出典: フリー百科事典『ウィキペディア
(Wikipedia)』より

中井 正清(なかい まさきよ、永禄8年(1565年)
 - 元和5年1月21日(1619年3月7日))は、江戸
時代初期の大工頭。大和国出身。中井正吉の子。
通称は藤右衛門。 
経歴[編集]初代の京都大工頭であり、官位は従五
位下・大和守。畿内・近江6カ国の大工等を支配
し、1,000石を知行した。関ヶ原の戦いの後、
徳川家康に作事方として仕え、二条城建設に
活躍した。家康の命による江戸城、知恩院、
駿府城の天守、江戸の町割り、増上寺、名古屋城、
二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺
など、徳川家関係の重要な建築を担当した。大坂の
陣の直前に、家康の密命により、大坂城の絵図を
作成したという逸話がある[1]。 
天正17年(1589年)、徳川家康より200石の知行
を得る[2]。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで
家康の供を務めて陣羽織を拝領するとともに500石
の加増を受けた。慶長11年(1606年)従五位下大和
守に任官。慶長14年(1609年)1,000石に加増され、
慶長18年頃(1613年)には従四位下に昇進した。

コメント (9)
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