剣熊考 №8
◆また機会があればマキノの式内社、塩津の式内社、余呉の式内社、木ノ本式内社の配置から古代湖西湖北
交通を考察してみたいと思います。
質問者
マキノに古墳がある。
塩津にも古墳がある。
余呉にも古墳がある。
木ノ本にも高月にも。
大浦谷には古墳は存在しないのでしょうか?現代でも古代でも湖西と湖北を結ぶ人の路は存在したはず!
長谷川
私は仕事も無く、ひとりぼっちの孤独です。話相手もいません。ひとりで、西へ西へと大浦谷に行ってみる事に致します。
おおつ!大浦の殿にある古墳でしょうか?何か魅力的に私は感じます。
墳丘が低い弥生の墳丘墓でしょうか?稲田大橋と言う橋の名前も妙に魅力的です。
なんか古色蒼然とした雰囲気が素晴らしいが古墳かどうかは解りません。
古墳も城址も植物を観察する世界ではありません。見学は冬枯れの時期が常識です。
それに、これが古墳だとは私は断言していません。これは私の私的な幻想旅行です。
質問者
粟柄超えとは何処でした?
長谷川
゜【高島市歴史散歩】を参考にさせていただきますと、近江と若狭を結ぶ粟柄峠(あわがらとうげ)です。
マキノ高原マキノスキー場から赤坂山(あかさかやま)山頂脇を抜けて、福井県の美浜町新庄(しんじょ)
へ向かう山越えの道は、粟柄峠と呼ばれ、古 くから近江と若狭をつなぐ主要な峠道の一つとして利用
されてきました。峠の名前は、福井県側の麓に「粟柄」という村があったことによりますが、現在その村
は美浜町大字新庄の一部になり、「粟柄」の地名はなくなっています。この道は古代の官道(かんどう)
である北陸道の一部とも考えられており、『延喜式(えんぎしき)』に記される北陸道の駅である近江国
の鞆結(ともゆい)駅と若狭国の弥美(みみ)駅を結ぶ最短コースであるとも考えられています。
近江と北陸を結ぶ街道としては、マキノ町海津から追坂峠(おっさかとうげ)を越えて、越前敦賀に向かう
北国海道(ほっこくかいどう/現在の国道 161号)が有名ですが、この道は中世以降、主に琵琶湖と日本海
の間を往来する物資の運搬ルートとして整備された道であり、徒歩で日常的に行き来をする 人々は、出発地
と目的地をできるだけ最短で結び、かつできるだけ歩きやすい峠道を選んで通ることが多かったと思われます。
この粟柄峠も近隣の村人たちの生活の中での移動に使われることが多かったと考えられ、現在、マキノスキー場
から赤坂山への登山ルートを登り始める と、途中からところどころに古い石畳が残り、かつては多くの人々が歩
いた道であったことが分かります。また、峠付近には自然石に彫られた地蔵菩薩像や岩を くりぬいて置かれた
石造仏が祀(まつ)られ、峠越えの安全を願った人々の信仰心をうかがうこともできます。
水上勉(みずかみつとむ)の小説『湖(うみ)の琴』には、福井県の粟柄村に住む主人公の少女が、三味線や琴の
糸取り仕事のため、粟柄峠を越えて滋 賀県にやってくる場面があり、その情景は「近江へぬける白い一本道の
両側の山壁には、葉を落とした欅(けやき)の梢(こずえ)が針のように空へつき出てい て肌寒い風が吹いていた。」
と描写されています。風雪の厳しいこの峠道は、冬は当然雪に覆われることもあり、交通路としての役割は早くに
終えましたが、近年では、春から秋にかけて高山植物が美し い登山コースとして、また冬にはスノーシューなどで
雪山登山が楽しめるコースとしても、多くの人に知られるようになっています。」とあります。
出典は:高島市発行「広報たかしま」平成24年2月号です。
マキノ赤坂と高島市様が益々栄えます事を慎んで祈念申上げます。
◆追記
長浜市余呉町菅並にはかって、若狭街道の石柱が存在したとの事。塩谷山 洞寿院 (エンコクザン ドウジュイン)
が知られています。この道は過去には余呉町柳ケ瀬に抜ける山越えの間道があったと私は推定致します。また余呉町
摺墨から余呉町小谷に抜ける道があります。また余呉町池原から西浅井の集福寺へ越せる道も近年あったされます。
私が述べているのは所謂「塩の道」の事です。さてさて余呉町文室にも過去に塩止めと呼ばれる塩の運搬を規制した
史実が記録されています。応永10年(1403)如仲天闇禅師(にょちゅうてんぎんぜんし)が洞寿院の開山となり祝山
(ほりやま 現西浅井町)の洞春庵(とうしゅんあん)を創建。応永13年(1406)が中国の五台山に似た勝地として
移建。白山妙理権現より塩泉を施され塩谷山洞寿院と号したと、洞寿という名の由来は、遷洞長寿「幽仙に移っり」
長寿を保っと言われています。民俗学的に解釈するなら是は若狭の八百引比丘尼なる塩と長寿伝説の系統かと私は推定
いたします。また 延喜式神名帳「波弥神社」に比定される六所神社本殿もなっかしく思いますが米原に余呉六所権現
の梵鐘が現存する事も摩訶不思議な事であります。また長浜市西野に若狭街道の石柱がある事も、これまた不思議な事
で私達の知らない塩の道が存在した事が想像されます。そう言えば西浅井の上塩津神社や下塩津神社も典型的な塩の
流通や信仰を彷彿とさせます。そう言えば越前引壇城も別名「塩山城」だった事を思い出します。そう言えば余呉町
川並と西浅井町祝山の山越えにある常夜灯の権現社跡も式内足前神社 足海たるみ坂とも推定されています。また消失
した謎の集落、余呉の丹波「タンバ」もこの付近に存在したと言われています。長谷川博美
◆ところがですよ!存在するはずの無い丹波がある地図には描かれているんです。だから困るのです。
◆また機会があればマキノの式内社、塩津の式内社、余呉の式内社、木ノ本式内社の配置から古代湖西湖北
交通を考察してみたいと思います。
質問者
マキノに古墳がある。
塩津にも古墳がある。
余呉にも古墳がある。
木ノ本にも高月にも。
大浦谷には古墳は存在しないのでしょうか?現代でも古代でも湖西と湖北を結ぶ人の路は存在したはず!
長谷川
私は仕事も無く、ひとりぼっちの孤独です。話相手もいません。ひとりで、西へ西へと大浦谷に行ってみる事に致します。
おおつ!大浦の殿にある古墳でしょうか?何か魅力的に私は感じます。
墳丘が低い弥生の墳丘墓でしょうか?稲田大橋と言う橋の名前も妙に魅力的です。
なんか古色蒼然とした雰囲気が素晴らしいが古墳かどうかは解りません。
古墳も城址も植物を観察する世界ではありません。見学は冬枯れの時期が常識です。
それに、これが古墳だとは私は断言していません。これは私の私的な幻想旅行です。
質問者
粟柄超えとは何処でした?
長谷川
゜【高島市歴史散歩】を参考にさせていただきますと、近江と若狭を結ぶ粟柄峠(あわがらとうげ)です。
マキノ高原マキノスキー場から赤坂山(あかさかやま)山頂脇を抜けて、福井県の美浜町新庄(しんじょ)
へ向かう山越えの道は、粟柄峠と呼ばれ、古 くから近江と若狭をつなぐ主要な峠道の一つとして利用
されてきました。峠の名前は、福井県側の麓に「粟柄」という村があったことによりますが、現在その村
は美浜町大字新庄の一部になり、「粟柄」の地名はなくなっています。この道は古代の官道(かんどう)
である北陸道の一部とも考えられており、『延喜式(えんぎしき)』に記される北陸道の駅である近江国
の鞆結(ともゆい)駅と若狭国の弥美(みみ)駅を結ぶ最短コースであるとも考えられています。
近江と北陸を結ぶ街道としては、マキノ町海津から追坂峠(おっさかとうげ)を越えて、越前敦賀に向かう
北国海道(ほっこくかいどう/現在の国道 161号)が有名ですが、この道は中世以降、主に琵琶湖と日本海
の間を往来する物資の運搬ルートとして整備された道であり、徒歩で日常的に行き来をする 人々は、出発地
と目的地をできるだけ最短で結び、かつできるだけ歩きやすい峠道を選んで通ることが多かったと思われます。
この粟柄峠も近隣の村人たちの生活の中での移動に使われることが多かったと考えられ、現在、マキノスキー場
から赤坂山への登山ルートを登り始める と、途中からところどころに古い石畳が残り、かつては多くの人々が歩
いた道であったことが分かります。また、峠付近には自然石に彫られた地蔵菩薩像や岩を くりぬいて置かれた
石造仏が祀(まつ)られ、峠越えの安全を願った人々の信仰心をうかがうこともできます。
水上勉(みずかみつとむ)の小説『湖(うみ)の琴』には、福井県の粟柄村に住む主人公の少女が、三味線や琴の
糸取り仕事のため、粟柄峠を越えて滋 賀県にやってくる場面があり、その情景は「近江へぬける白い一本道の
両側の山壁には、葉を落とした欅(けやき)の梢(こずえ)が針のように空へつき出てい て肌寒い風が吹いていた。」
と描写されています。風雪の厳しいこの峠道は、冬は当然雪に覆われることもあり、交通路としての役割は早くに
終えましたが、近年では、春から秋にかけて高山植物が美し い登山コースとして、また冬にはスノーシューなどで
雪山登山が楽しめるコースとしても、多くの人に知られるようになっています。」とあります。
出典は:高島市発行「広報たかしま」平成24年2月号です。
マキノ赤坂と高島市様が益々栄えます事を慎んで祈念申上げます。
◆追記
長浜市余呉町菅並にはかって、若狭街道の石柱が存在したとの事。塩谷山 洞寿院 (エンコクザン ドウジュイン)
が知られています。この道は過去には余呉町柳ケ瀬に抜ける山越えの間道があったと私は推定致します。また余呉町
摺墨から余呉町小谷に抜ける道があります。また余呉町池原から西浅井の集福寺へ越せる道も近年あったされます。
私が述べているのは所謂「塩の道」の事です。さてさて余呉町文室にも過去に塩止めと呼ばれる塩の運搬を規制した
史実が記録されています。応永10年(1403)如仲天闇禅師(にょちゅうてんぎんぜんし)が洞寿院の開山となり祝山
(ほりやま 現西浅井町)の洞春庵(とうしゅんあん)を創建。応永13年(1406)が中国の五台山に似た勝地として
移建。白山妙理権現より塩泉を施され塩谷山洞寿院と号したと、洞寿という名の由来は、遷洞長寿「幽仙に移っり」
長寿を保っと言われています。民俗学的に解釈するなら是は若狭の八百引比丘尼なる塩と長寿伝説の系統かと私は推定
いたします。また 延喜式神名帳「波弥神社」に比定される六所神社本殿もなっかしく思いますが米原に余呉六所権現
の梵鐘が現存する事も摩訶不思議な事であります。また長浜市西野に若狭街道の石柱がある事も、これまた不思議な事
で私達の知らない塩の道が存在した事が想像されます。そう言えば西浅井の上塩津神社や下塩津神社も典型的な塩の
流通や信仰を彷彿とさせます。そう言えば越前引壇城も別名「塩山城」だった事を思い出します。そう言えば余呉町
川並と西浅井町祝山の山越えにある常夜灯の権現社跡も式内足前神社 足海たるみ坂とも推定されています。また消失
した謎の集落、余呉の丹波「タンバ」もこの付近に存在したと言われています。長谷川博美
◆ところがですよ!存在するはずの無い丹波がある地図には描かれているんです。だから困るのです。