城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考 №8

2019-06-08 16:18:23 | 剣熊考
剣熊考 №8
◆また機会があればマキノの式内社、塩津の式内社、余呉の式内社、木ノ本式内社の配置から古代湖西湖北
 交通を考察してみたいと思います。

質問者
 マキノに古墳がある。
 塩津にも古墳がある。
 余呉にも古墳がある。
 木ノ本にも高月にも。

 大浦谷には古墳は存在しないのでしょうか?現代でも古代でも湖西と湖北を結ぶ人の路は存在したはず!
長谷川
 私は仕事も無く、ひとりぼっちの孤独です。話相手もいません。ひとりで、西へ西へと大浦谷に行ってみる事に致します。

おおつ!大浦の殿にある古墳でしょうか?何か魅力的に私は感じます。

墳丘が低い弥生の墳丘墓でしょうか?稲田大橋と言う橋の名前も妙に魅力的です。

 なんか古色蒼然とした雰囲気が素晴らしいが古墳かどうかは解りません。

 古墳も城址も植物を観察する世界ではありません。見学は冬枯れの時期が常識です。
 それに、これが古墳だとは私は断言していません。これは私の私的な幻想旅行です。
質問者
 粟柄超えとは何処でした?
長谷川
゜【高島市歴史散歩】を参考にさせていただきますと、近江と若狭を結ぶ粟柄峠(あわがらとうげ)です。
マキノ高原マキノスキー場から赤坂山(あかさかやま)山頂脇を抜けて、福井県の美浜町新庄(しんじょ)
へ向かう山越えの道は、粟柄峠と呼ばれ、古 くから近江と若狭をつなぐ主要な峠道の一つとして利用
されてきました。峠の名前は、福井県側の麓に「粟柄」という村があったことによりますが、現在その村
は美浜町大字新庄の一部になり、「粟柄」の地名はなくなっています。この道は古代の官道(かんどう)
である北陸道の一部とも考えられており、『延喜式(えんぎしき)』に記される北陸道の駅である近江国
の鞆結(ともゆい)駅と若狭国の弥美(みみ)駅を結ぶ最短コースであるとも考えられています。
 近江と北陸を結ぶ街道としては、マキノ町海津から追坂峠(おっさかとうげ)を越えて、越前敦賀に向かう
北国海道(ほっこくかいどう/現在の国道 161号)が有名ですが、この道は中世以降、主に琵琶湖と日本海
の間を往来する物資の運搬ルートとして整備された道であり、徒歩で日常的に行き来をする 人々は、出発地
と目的地をできるだけ最短で結び、かつできるだけ歩きやすい峠道を選んで通ることが多かったと思われます。

この粟柄峠も近隣の村人たちの生活の中での移動に使われることが多かったと考えられ、現在、マキノスキー場
から赤坂山への登山ルートを登り始める と、途中からところどころに古い石畳が残り、かつては多くの人々が歩
いた道であったことが分かります。また、峠付近には自然石に彫られた地蔵菩薩像や岩を くりぬいて置かれた
石造仏が祀(まつ)られ、峠越えの安全を願った人々の信仰心をうかがうこともできます。

水上勉(みずかみつとむ)の小説『湖(うみ)の琴』には、福井県の粟柄村に住む主人公の少女が、三味線や琴の
糸取り仕事のため、粟柄峠を越えて滋 賀県にやってくる場面があり、その情景は「近江へぬける白い一本道の
両側の山壁には、葉を落とした欅(けやき)の梢(こずえ)が針のように空へつき出てい て肌寒い風が吹いていた。」
と描写されています。風雪の厳しいこの峠道は、冬は当然雪に覆われることもあり、交通路としての役割は早くに
終えましたが、近年では、春から秋にかけて高山植物が美し い登山コースとして、また冬にはスノーシューなどで
雪山登山が楽しめるコースとしても、多くの人に知られるようになっています。」とあります。

出典は:高島市発行「広報たかしま」平成24年2月号です。
マキノ赤坂と高島市様が益々栄えます事を慎んで祈念申上げます。

◆追記
 長浜市余呉町菅並にはかって、若狭街道の石柱が存在したとの事。塩谷山 洞寿院 (エンコクザン ドウジュイン)
が知られています。この道は過去には余呉町柳ケ瀬に抜ける山越えの間道があったと私は推定致します。また余呉町
摺墨から余呉町小谷に抜ける道があります。また余呉町池原から西浅井の集福寺へ越せる道も近年あったされます。
私が述べているのは所謂「塩の道」の事です。さてさて余呉町文室にも過去に塩止めと呼ばれる塩の運搬を規制した
史実が記録されています。応永10年(1403)如仲天闇禅師(にょちゅうてんぎんぜんし)が洞寿院の開山となり祝山
(ほりやま 現西浅井町)の洞春庵(とうしゅんあん)を創建。応永13年(1406)が中国の五台山に似た勝地として
移建。白山妙理権現より塩泉を施され塩谷山洞寿院と号したと、洞寿という名の由来は、遷洞長寿「幽仙に移っり」
長寿を保っと言われています。民俗学的に解釈するなら是は若狭の八百引比丘尼なる塩と長寿伝説の系統かと私は推定
いたします。また 延喜式神名帳「波弥神社」に比定される六所神社本殿もなっかしく思いますが米原に余呉六所権現
の梵鐘が現存する事も摩訶不思議な事であります。また長浜市西野に若狭街道の石柱がある事も、これまた不思議な事
で私達の知らない塩の道が存在した事が想像されます。そう言えば西浅井の上塩津神社や下塩津神社も典型的な塩の
流通や信仰を彷彿とさせます。そう言えば越前引壇城も別名「塩山城」だった事を思い出します。そう言えば余呉町
川並と西浅井町祝山の山越えにある常夜灯の権現社跡も式内足前神社 足海たるみ坂とも推定されています。また消失
した謎の集落、余呉の丹波「タンバ」もこの付近に存在したと言われています。長谷川博美 
◆ところがですよ!存在するはずの無い丹波がある地図には描かれているんです。だから困るのです。




 
 
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対談!近江明智伝承!長谷川博美!

2019-06-08 10:40:27 | 比較研究論
対談!近江明智伝承!長谷川博美!

対談者
 長谷川先生!剣熊論が大変話題になっていますよ!
長谷川
 全く話題になってません。見ている人は0人ですよ。

対談者
 私は早くから、長谷川先生に近江明智伝説や城址を
 解説していただいき先生の推理力分析力に驚きます。
長谷川
 あなただけがそう思っているだけではありませんか?
対談者
 いいえ長谷川先生の城郭に関する図面やイラストは
 未だに多数の講演や、見学会で使われているのです。
長谷川
 私は知りません。私は社会から求められていません。
対談者
 私は長谷川先生と対話する事が多いので長谷川先生
 の知っておられる事を巧みに聞き出そうとされます。
長谷川
 それは貴方の意識過剰ではありませんか?現在私の所
 に見学会や講演を求められる人など全くおられません。
対談者
 しかし最近近江に多数の明智伝承が発見されています。
 また『信長公記』の 元亀三年
海上は打下の林与次左衛門・明智十兵衛、堅田の猪飼野甚介・
山岡玉林・馬場孫二郎・居初又二郎に仰せつけられ、
囲舟を拵へ、★海津浦、★塩津浦★与語の入海、江北の敵地、
焼き払ふ。竹生島へ舟を寄せ、火屋・大筒・鉄炮を以て攻めら
れ侯。とあり明智が海津や塩津に精通した人間である事を
私は連想させます。
また『信長公記』の元亀四年癸酉
一、明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、
山門領の由仰せ懸げられ、預ケ置き侯者の御押への、とある。

長谷川
 私は第一級文献資料の『信長公記』の講師を名古屋で5年、
 米原で4年させていただきましたが、明智地名は全国にぱ
 は多数存在すると思います。
対談者
 西浅井の庄の地台帳は慶長年間までさかのぼれる貴重な
 資料と言われていますが?
長谷川
 ああそうでしたか?そんな事は誰でも知っている事かと?

 
 



コメント (3)
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剣熊考 №7

2019-06-08 08:04:22 | 剣熊考
剣熊考 №7

◆剣熊考着手の発端

 長浜市西浅井町集福寺に私が迷い込んだ記事を発端としている。南北町の頃、見の曲「剣熊」の地で新田義貞の
北陸方面へ降る時、彼らの後続隊が西浅井の集福寺へと迷い込んだ事からも端を発している。ここで再度当地の
小字名を考察してみる事にしたい。

※先ず気になる地名は「余呉谷」である。当然余呉町池原とは集福寺超えを挟み婚姻や交流があった事が推定される。
 また「オサガタイラ」であるが、わしは過去に余呉町の行市山を越えて敦賀市の奥麻生「おくあそう」の長者屋敷と
よばれる場所に行った経験もある。大変な深山幽谷の地であり怖かった記憶がある。

※また西浅井の集福寺の人は北陸線が塩津谷に完成していない明治期には余呉町中之郷駅を目指して通行があった事。
次に遅越と書き「オソコエ」と読む地名である。余呉町に在住していた頃は「オクレ超え」と俗称していた記憶がある。
遅越「オソコエ」地名は河野氏等が難渋した路を言うのか?
◆『太平記』原文
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。
由来するものと私は私は推定する。この文中の「前の勢に追殿れ」の「追殿れ」は追い遅れと読むのだ。

※また次の「若山や城の腰」の地名は集福寺の中世城郭遺跡を指すものであろう。山門「比叡山領」であろうか?この
城址は大津の穴穂の壺笠山城にも酷似していて何故か幻想的でもある。今でも一部石垣が残っており興味深い土地だ。

上図には椿坂と椿井宿の二カ所が記された近江国細見図であるが『義経記』の能見山は越前燧城に流れる能見川であるが、
この椿坂と椿井宿の二カ所は私にとり摩訶不思議な場所である。先ず椿市なる集落を私は聞いた事が遠い昔に消えた集落
なのか?余呉町でも丹波なる集落が消滅したり下余呉の南組の式内「乃彌神社」が消えてしまったり。坂田郡の中山近辺
に男罪と書いて「オガリ」と読む集落が存在し、そこには「キトラ谷」の城址を私は大へん昔に発見しているのであるが。


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剣熊考 №6

2019-06-08 02:37:53 | 剣熊考
剣熊考 №6
◆近江剣熊には小荒路なる地名もあるが。『義経記』にみる国道161号線沿いの越前の愛発の描写を考察する。

三 愛発山の事

判官は海津の浦を立ち給ひて、近江國と越前〔の〕堺なる愛発の山〔へ〕ぞかかり給ふ。一昨日都を出で給ひて、大津の浦に著き、昨日は御船に召され、船心に損じ給ひて、歩み給ふべき様ぞなき。★①愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立枯れ、巖石峨々として、道路すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。何時踏み習はせ給はねば、左右の御足より流るる血は、紅を注ぐが如くして、愛発山の岩角染めぬ所ぞなかりける。少々の事こそ柿の衣にも恐れけれ。見奉る山伏共、余りの御痛はしさに、時々代り代りぞ負ひ奉りける。かくて山深く分け〔入り〕給ふ程に、日も既に暮れにけり。路の辺二町許り分け入つて、大木の下に敷皮を敷き、笈をそばだてて、北の方を休め奉る。

北の方、「あら恐しの山や。是をば何と云ふ山やらん」と問ひ給へば、判官、★②「是は昔はあらしいの山と云ひけるを、何とてあらちの山とは名づけけん」と宣へば、「此山は余りに巖石にて候程に、東より都に上り、京より東に下る者の、足を踏み損じて血を流す間、あら血の山とは申しけるなり」と宣へば、武蔵坊是を聞きて、「あはれ是程跡形なき事を仰せ候御事は候はず。人の足より血を踏み垂らせばとて、あら血〔の〕山と申し候はんに〔は〕、日本國の巖石ならん山の、★③あらちの山ならぬ事は候はじ。此山の仔細は、弁慶こそよく知りて候へ」と申せば、判官「それ程知りたらば、知らぬ義経に言はせんよりも、など疾くよりは申さぬぞ」と仰せければ、弁慶「申し候はんとする処を、君の遮りて仰せ候へば、争か弁慶申すべき。此山をあらちの山と申す事は、加賀國に下白山に女体后の龍宮の宮とておはしましけるが、志賀の都にして、辛崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其月近くなり給ひしかば、同じくは我が國にて誕生あるべしとて、加賀國へ下り給ひける程に、此山の絶頂にて、俄に御腹の気つき給ひけるを、明神御産近づきたるこそとて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてげり。其時産のあら血を零させ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。★④さてこそあらしいの山あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて、笑ひ給ひけり。


★①「愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立枯れ、巖石峨々として、道路すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。」
 とあり、荒涼とした七里半超え、つまり161号線沿いの景観を描写している。

 ★②「是は昔はあらしいの山と云ひけるを、」と記している。
 敦賀市疋田の出郷の追分の孫字に「嵐」がある事には驚愕する。また敦賀の追分は近江塩津から疋田に至る到着点でもある。
 越前疋田には平家の小松重盛が近江と越前を結ぶ運河の開削を計画した場所とさ疋田船川なる場所も残っている。
 
 ★③「あらちの山ならぬ事は候はじ。此山の仔細は、弁慶こそよく知りて候へ」
 武蔵坊弁慶は和歌山の田辺、熊野方面から来た人物。また元来比叡山や廻国の山伏と考えられる。

 ★④さてこそあらしいの山あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて、笑ひ給ひけり。
 義経 も「あらち」の由縁は知ってるよと弁慶に笑って答えたと描写している。

 この石塔の写真は滋賀県長浜市集福寺の式内「下津塩津神社」にある河野氏のものと考えられる。河野通治か?

 余談であるが集福寺には熊野信仰が入ったと思われる。また中世城郭「若山城跡」も存在する。
 集福寺は比叡山領で一二坊伝承がある。
 以下の写真は滋賀県能登川の神郷亀塚古墳を訪問した際の式内「乎加神社」近辺にある石塔の写真。


 勿論この近辺に和田山城があり『信長公記』にも登場する。素晴らしい土塁による縄張は進歩的だ。
 織田信長はこの和田山城には美濃三人衆を派遣するだけで和田山城には強引に攻め寄せてはいない。
 孫子兵法にいわく。強い敵を攻めるのではなくて敵の弱点を攻めなさいとある。まさに是であろう。





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