城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考 №2

2019-06-05 19:02:22 | 剣熊考

『黒河越え - 敦賀の歴史』を引用させて頂くと
「北陸道の間道になった黒河(くろこ)越え
平安時代(927年)に編さんされた『延喜式』によれば、奈良時代には北陸への交通の重要地点であったマキノ町域
(現滋賀県高島市)に官道が通り、「鞆結(ともゆい)駅」が設置されていた。この鞆結駅から最短距離で敦賀松原駅に
至る黒河越え(白谷越え)がある。しかし、琵琶湖の水運の拠点である海津、大浦、塩津からの連結によって、鞆結駅
ー小荒路―野口―路原―国境―山中―駄口―追分―疋田―市橋―小河口―道口―敦賀に至るコース(七里半越え)が官道となった、
と思われる。黒河越えは七里半越えの間道になっていった。
鞆結駅の比定地は、「鞆結・北鞆結・大道東・大道西」などの地名が残る「石庭地区」と、「鞆結神社」が現存する
「浦地区」の二つがあるが、石庭説が有力である。黒河越えは別名白谷越えと言われ、白谷地区は石庭と黒河峠を結ぶ
一直線の間にあることから、石庭説に無理がない。また、鞆結神社は石庭にあったが、管理上浦地区に移転したと伝え
られている」とある。また
大荒比古鞆結神社 (おおあらひこともゆいじんじや)
高島市マキノ町浦627
大荒比古鞆結神社のあるマキノ町について
全国でも珍しいカタカナの町・マキノ町は滋賀県の北西部、高島市の最北端に位置する。東・北・南の三方を山に囲まれ、
知内川・百瀬川の2大河川によって形成される谷上盆地と沖積平野は、町の中央部から南西部に広がっている。町域には
スキー場野他、自然を生かした施設が多くある。ともある。『太平記』に記された「剣の曲」けんのくま が大変な古代
交通の要衝であった事が類推される。
◆熊野信仰と剣熊は関係あるのか?
角川地名辞典(滋賀県)を引用すると以下のような魅力的な記述が掲載されている。

これまた角川地名辞典(滋賀県)には魅力的な記述が掲載されている。

どうやら熊野信仰は長浜市西浅井町集福寺だけでは、ないようだ。

今夜は何故か執筆に疲れた。「微笑」 小荒路の 角川地名辞典(滋賀県)を引用したい。




 
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嶮熊考 №1

2019-06-05 04:14:02 | 比較研究論
◆はじめに

嶮熊なる地名に関して(けんくま)について論考を少しずつ加えたいと思う。
湖北伊香郡出身の私は(けんくま)と聞いて、即刻高島の地名を連想するが
私が即刻解ると言えども多くの滋賀県人は嶮熊に関して認識がない可能性も
有り得る、自分だけが理解し納得しても意味が無いと思われる。従って今回
は嶮熊考 №1嶮熊考 №2などの順を追って、また訂正を加えながら、稚拙
ながら、順次考察を試みたいと思う。

◆先ず『太平記』とは?
ブリタニカ国際大百科事典によると
「南北朝時代の軍記物語。作者は未詳であるが,小島法師 (1374没) 説,玄恵
(げんえ。 1269~1350) 説などが有力。 40巻 (巻二十二欠) 。数次にわたって
増補改編され,建徳2=応安4 (71) 年頃大成か。五十余年にわたる南北朝,公武の
抗争を描く長編で,内容は3部に分れる。第1部 (巻一~巻十一) は鎌倉時代,
北条高時の失政,後醍醐天皇の討幕に起筆,北条氏の滅亡,建武中興の成立まで。
第2部 (巻十二~巻二十一) は中興政治の失敗,足利尊氏の謀反,楠木正成,
新田義貞の戦死,天皇崩御まで。第3部 (巻二十三~巻四十) は南北両朝の対立
,諸将の向背常ならぬさまを描き,正平 23=応安1 (68) 年義満を補佐する
細川頼之の執事就任をもって結ぶ。物語僧によって語られ,「太平記読み」として
講釈され講談の祖となった。後代文学への影響も大きい。」とある。

◆要する『太平記』とは南北朝の動乱を記した「軍記物」であり『信長公記』の
様な文献的に資料評価が非常に高い書物とは異なる「軍記物」である事に注意し
なけばならない。余談であるが私は過去に名古屋4年と滋賀で4年文献『信長公記』
の解説を担当させていただいた経緯もある。その節お世話になった方々に感謝する。
◆滋賀県長浜市西浅井町岩熊
この地名も「ヤノクマ」と読む事に留意したい。

◆『広辞苑』によると
くま【隈・曲・阿】
①道や川などの湾曲して入り込んだ所。万葉集13「道の―八十―ごとになげきつつ」
②奥まって隠れた所。すみ。源氏物語明石「かの浦に静やかに隠らふべき―侍りなむや」
③色と色とが相接する所。光と陰との接する所。ぼかし。陰翳いんえい。暈うん。陰。くもり。源氏物語賢木「月の少し―ある」。「目の―」
④秘めているところ。隠していること。後撰和歌集秋「秋の夜の月の光は清けれど人の心の―は照らさず」
⑤かたすみ。へんぴなところ。源氏物語常夏「さる田舎の―にて」
⑥欠点。源氏物語浮舟「そのことぞとおぼゆる―なく」
⑦歌舞伎で役者の顔に施す色どり。くまどり。
◆長谷川的(クマ)解釈
 地形的には際立った熊野や峻嶮の場所を(クマ)と言うのであろう。九州には「クマ」地名は頻出する。
◆『太平記』に見える嶮熊(ケンクマ)地名。
『太平記』には嶮熊地名は正式には登場していない、しかし嶮熊と思われる地名が
本文中をよくよく観察すると登場している事を決して見逃しては、ならないだろう。

◆『太平記』原文
『太平記』北国下向勢凍死事
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。

◆『太平記』現代語訳
河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。

◆文中の「見の曲」とは嶮熊(ケンクマ)と読める。
 クマは古来「曲」「熊」「隈」「隅」などの文字を当てる事が多い地名学的には際立った場所と私は推定する。
「見の曲」場所を現代感覚で表現するなら滋賀県高島市マキノ町小荒路(しがけんたかしましまきのちょうこあらじ)
付近に相当する。もっと解り易い現代的感覚で言えば国道161号線の道の駅マキノ追坂峠「おっさかとうげ」に近い
場所でもある。

◆『太平記』

◆国道161号線と七里半超の地理
国道161号(こくどう161ごう)は、福井県敦賀市から滋賀県大津市に至る一般国道である。
「七里半越ひつりはんごえ」は フリー百科事典『ウィキペディア』によれば
「標高383mの国道161号上に位置する峠である。別名として山中峠(やまなかとうげ)、愛発越(あらちごえ)、海津越(かいづごえ)とも呼ばれる。先に挙げた別名の由来は山中峠は峠のある福井県側の地名から、愛発越と海津越は麓の地名からとられたものだが、七里半越の由来はかつての街道の起点であった敦賀市疋田と峠道が平坦になる高島市マキノ町海津までの距離が約七里半(約30km)であったことに由来する。またこの峠道自体も七里半街道と呼ばれる。 古くは古代三関の一つである愛発関が置かれており、交通の要衝であった。現代でも滋賀県湖西から福井県を目指す場合、避けては通れない峠となっており、現在もドライバーたちに難所として知られる峠である。 滋賀県側の麓には追坂峠という峠があり、この峠も七里半越の中に含まれる。峠道の中に別の峠を内包する希有な峠である。」とある。

◆ 『太平記』北国下向勢凍死事 の意義その重要性。
質問 ①北国下向勢凍死事は何年頃の事か?
解答 延元元年(建武三年1336年)十月十一日と推定される。但し旧暦で記していれば11月の頃と思われる。
   要するに湖北のきびしい厳冬期である。

質問 ②何故?新田義貞の軍勢は遅れ湖北の山に難儀したのか?
解答 「河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが」とは新田義貞の北陸下向の後続部隊つまり殿軍「しんがり」である。
   彼らが「前の勢に追殿れ」先駆け先鋒隊から「行き遅れ」たと記している。つまり国道161号線事、七里半超を北上する
   途次に七里半超を封鎖されて塩津に迂回して行き進退窮まると表現している。「行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。
   佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間」とはこの状況を明瞭に示している。また滋賀県長浜市集福寺の伝承で
   は先陣から遅れた人々と伝承されている。私が住んでいた余呉町では延元元年(建武三年1336年の年末の「クレ」に
   先陣から遅れた人々が「おくれた峠」として集福寺坂と別の越前への間道おくれ超え「おくれ峠」が存在したと伝わる。
   つまり『太平記』にある「見の曲」は嶮熊(ケンクマ)に七里半超を北上する事を阻止する剣難の関所「小荒路」の存在
   を暗示するものであろう。「小荒路」とは律令古代三関の一つ越前の「愛発関」(あらちの関)の出張機関の後続機関と
   推定される。越前と近江の古代道についてはまたの機会に後述したい。
★番外質問①
   長谷川先生に質問です。『太平記』にある熊谷と佐々木の一族とは誰ですか?
長谷川
   熊谷とは鎌倉幕府から諸国に派遣されて現地に定住した本舗地頭の塩津、近江熊谷氏の事でしょう。また佐々木の一族は
   京極氏かと思いますが?私はこの件に関して詳しくは知りません。
★番外質問②
京極の殿様や近江熊谷氏は中世「室町期」において当然、身分が高かった事でしよう。私は長谷川先生と塩津谷の数カ所の
中世城郭を実際に見学して塩津谷の近江熊谷氏の勢力の強さに目を見張り、歴史の現場の見てまた歴史観が一変いたしました。
長谷川
  私はこの件に関しては知りません。

『天文三年浅井備前守宿所饗応記』には★熊谷下野守直房が記されています。
浅井備前守(亮政)
御屋形様(京極高清)
御曹司様(高広)

「一族衆」
京極加賀守政数
加賀五郎(政数甥)
黒田四郎左衛門尉(宗清)
岩山民部少輔
高橋兵部少輔(清世)
碧憪斎

「奉行人」
大津若狭守(清忠)
山田越中守(清氏)

「国人衆」
★熊谷下野守直房
多賀豊後守貞隆
河瀬九郎左衛門尉
河瀬新六
下河原宗兵衛尉

★番外質問③
とぼけないで下さい。熊谷下野守直房の席次を見て下さい!
京極氏の筆頭の席次です右の二段目に表現されていますよ!
つまり熊谷氏は室町時代京極氏の元では№2の高い地位です。
左大臣より、右大臣のが古来よりも、地位が高いのですよ。
織田信長が、右府と呼ばれた事も、知っているでしょう?
今でも「俺の右にでるものいない」と男性はよく言われます。
現代でも策謀により地位が落された人の事を左遷と言います。

長谷川
 熊谷氏が地頭職であった事や近江塩津谷には城址が多数残っている事は
 近江の歴史に興味にある人ならば誰でも知っています。常識的な事なです。
★番外質問④
 近江三熊谷の伝承記録ってありますか?
長谷川
 近江側の伝承記録の『淡海温故禄』のこれでしょうか?

※以下の資料の原典は『疋田記』や石井左近先生の『敦賀の城塞』だっと思いますが、忘れてしまいました。すいません。
弘治元年(1555年)近江国塩津の熊谷平次郎が三千騎を率いて疋檀城を急襲した事

疋檀城主疋田景継は城を明けて留守であったが急報を受けて引き返し、兵を集めて
城へ入ろうとしたが大手は熊谷軍によって包囲されていたので、搦手より入城して
戦った。攻防の最中に大晦日となり熊谷軍は正月三日までの休戦を申し込み熊谷軍
は兵を引いた。しかし、翌日熊谷軍は軍を引き返して疋檀城を急襲し休戦となって
安堵していた城内は防戦もままならず東曲輪は焼き払われた。と伝承されています。

★番外質問⑤
 疋檀城とは?
長谷川
 別名「塩山城」です。古代の律令三関「愛発」あらちの関が置かれた場所とされ
ています。つまり近江嶮熊と同じ国道161号線沿いの七里半超の要衝の地、塩の道
とも言えます。近江嶮熊は「小荒路で」す。越前「愛発」も「あらち」つまり荒路
とも荒乳とも荒血、もあります。余談ですが追分には「嵐」なる孫字名もあるとか?

 



  
   
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