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城郭 長谷川博美 基本記録

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明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』3

2019-08-14 16:46:07 | 戦国

明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場す
る本格劇画『元亀の騒乱』3

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思
います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作
品には敬服致します。小野先生の益々の御発
展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非
紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷
川博美が担当しています。また当ブログでの
解説も私が担当させて頂いております。なお
順番を追って紹介しますが皆様は順次ページ
を追って御鑑賞下さい。





◆元亀の年号不吉に候!
この有名な織田信長の文言は『信長公記』に
記された貴重な文言です。永禄13年4月23日
(ユリウス暦1570年5月27日) 戦乱などの
災異のため改元。元亀4年7月28日(ユリウ
ス暦1573年8月25日) 天正に改元。足利
義昭は自らが将軍に就任した際、元号を
「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した
(『言継卿記』永禄12年4月8日条ほか)。
これに対して、織田信長はそれが将軍権威の
復活につながること、正親町天皇の在位が続
いているのに必要ないと反対した。しかし、
義昭は朝廷を説得するために下行費用の名目
で5000疋もの朝廷への献金を実施(『康雄記』
同4月6日条)し、信長が朝倉氏討伐に出陣した
4月23日、改元を実行している。

◆織田信長は天正元年の足利義昭への17ヶ条
の告訴状で次の如く元亀の年号に申し述べて
いる。元亀年号は不吉であると明言し天正へ
の改元を求めている。
一、元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべし
の由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯。
禁中にも御催しの由に侯ところ、聊かの雑用
仰せ付けられず。

信長は信長包囲網の中で悪戦苦闘を続けてい
た。『信長公記 巻六』によると、元亀3年
(1572年)9月に足利義昭に提出した17か
条の意見書で、「元亀の年号、不吉に侯間、
改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、
申し上げ侯」と改元するよう申し出ている。
義昭追放後に改元を実行させたことからも、
信長にとって元亀の年号は不愉快なものだ
ったと推察される。

◆いよいよ藤吉郎の登場です。画像の藤吉
朗は骨太に描かれており我々一般のイメー
ジする、痩せて細いイメージとは異なりま
す。しかし是は秀吉の母や秀吉の弟秀長の
絵画画像も骨太に描かれており長浜時代の
秀吉像は意外にも壮健な骨太に描かれてい
ます。秀吉は後年太閤となり天下に君臨し
ます晩年には病気を得て衰弱していた可
能性があります。劇画の藤吉郎は主に
は忠儀を先輩には礼儀を配慮する柔軟な
秀吉として描かれています。左ページの
信長の後ろ姿には多数の武将を従えながら
も孤独な信長の憂鬱な精神世界が表現さて
います。宣教師達の信長の心象として普段
は陰鬱な暗い表情をしていたとあります。

明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』4

2019-08-14 16:44:18 | 戦国
明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場す
る本格劇画『元亀の騒乱』4

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思
います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作
品には敬服 致します。小野先生の益々の御
発展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、
是非紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷
川博美が担当しています。また当ブログでの
解説も私が担当させて頂いております。なお
順番を追って紹介しますが皆様は順次ページ
を追って御鑑賞下さい。





◆劇画中の柴田勝家の文言が凄い!人間とは
迷信や風説の流布に簡単に惑わせられると言
及しています。詰り人間とは自分ではなく周
囲に生きている人々の噂や意図的に流されて
さいる言説に簡単に惑わされるものだと
言っております。柴田勝家は後年越前北庄城
主時代に宣教師達の布教活動は意外にも寛容
で越前での布教は「切り取り次第」である。
つまり布教活動は自分達の力量次第だとと述
べています。勝家の馬印は金の御幣であるか
ら勝家自身は神道系ではないだろうか?越前
の織田氏先祖の神社の奉斎においても織田信
長の代行者として赴いてる。また越前敦賀郡
の延喜式内社にも「織田神社」がある事も留
意しておきたい。

◆越前敦賀郡の謎の城郭状況
 永禄末期には越前朝倉氏は若狭守護職の
武田元明を越前に拉致し実質若狭を手中に
する目算で再三再四に渡り敦賀郡から若狭
に侵入しているのであるが、下図は越前若
狭の境界に存在する城址名称は控えたい
城址であるが図の左が若狭方面に位置し図
の右が敦賀方面に位置する。城郭遺跡の常識
として高所を占める右が本丸に相当しこの
城郭遺跡は越前から若狭方面に向って構え
られた城郭遺跡である事が解る。金ケ崎城
より手筒城よりはるかに戦国末期の城郭遺構
の様相を呈していると言えよう。この城の構
造は元亀の騒乱で朝倉方が陣した田部山城な
どと類似した城郭遺跡であり朝倉氏と言うよ
り北近江型の土塁陣城とも言えようか?

◆元亀の騒乱の仮説を立てる!
 元亀の騒乱が始まる契機つまり切っ掛け
は?織田信長が若狭の武藤氏から救援を受
けての若狭派兵である。
この時期若狭の朝倉氏に頑強に抵抗してい
た粟屋氏はどうしていたのであろうか?若
狭粟屋氏は国吉城を根城に親織田信長派と
して活躍した若狭でも傑出した武将である
と私は評価している。元亀元年に織田信長
が若狭から急遽敦賀平野越前に攻め込む際
にイラストにある様な陣城に越前勢が布陣
していたら全く信長は越前には侵入できな
かった事であろう!一応若越の紛争が一時
収束して、形式的には古い旧式の金ケ崎城
や手筒城へと朝倉勢が引き上げていた時期
に織田信長は若狭から越前に乱入したと歴
史の流れを仮定すると。元亀元年の頃の元
亀4年天正元年の北近江と若狭の浅井朝倉
方の城郭状況を知る必要がある。それを知
り得る文献とは何か?
◆文献『信長公記』の天正元年記の浅井
朝倉方の落城した記録だ。1573年8月25日)
天正に改元されている事にも注意!「同日
、落城の数、大づく、やけ尾、つきがせ、
ようの山、たべ山、義景本陣田上山、引
檀、敦賀、志津が嵩、若州粟屋越中所へさ
し向け侯て、付城共に、拾ケ所退散。」と
ある。是を現代的に解釈するならば

大づく、=大嶽城
やけ尾、=焼尾丸砦
つきがせ=月ヶ瀬城
ようの山=丁野山城
たべ山、=田部山城
義景本陣田上山=田上山城★
引檀=疋田の城つまり引壇城
敦賀=全く不明!金ケ崎城や手筒山城の
事か?花城山城の事か?それと下図の城
郭遺跡の事か?
志津が嵩=賎ケ岳城★
若州粟屋越中所=国吉城
へさし向け侯て、付城共に、=中山の
附け城など。拾ケ所退散。」
これらの浅井朝倉の城郭の内で★印の
ある★賎ケ岳城と★田上山城は1583年
天正11年の賎ケ岳合戦に再利用されて
いる事である。これに注意したい!
また敦賀の城とは金山城の事なのか後
の敦賀城の事なのか全く解らないので
ある。

◆賎ケ岳城の現況
 賎ケ岳城の現況としてはかって観光
開発された為に城郭遺跡の原型を完璧
にはとどめていない。しかし砦の周囲
は旧来の切岸を中心とした室町期の城郭
を思わせる切岸が残る。


明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』5

2019-08-14 16:42:42 | 戦国
明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場す
る本格劇画『元亀の騒乱』5

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思
います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作
品には敬服致します。小野先生の益々の御発
展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非
紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は
◆長谷川博美が担当しています。また当ブロ
グでの解説も私が担当させて頂いております。
なお順番を追って紹介しますが皆様は順次ペ
ージを追って御鑑賞下さい。





◆信長が元亀年号を奏上してこれが認可される
も織田信長と対立する諸侯は依然として元亀4
年の年号を使い続けたとされます。年号とは、
時の為政者が選定し作成するものである事が
如実に現れております。
◆信長が気長な敵将誘導策戦を実行したのは
永禄3年に尾張桶狭間が顕著です。先ず信長
は永禄2年から気長に尾張大高城の今川方を
一年間包囲します。敵の今川義元が尾張に侵
入しても、清洲城で織田信長はのらりくらリ
と暮すばかり、ところが突然電撃の如く桶狭
間に突撃して今川義元の本陣を急襲して義元
の本体に決戦を挑み、義元本隊が約500m後
退したところをすかさず追撃追い打ちして今
川義元の首級を取り疾風の如く清須城に凱旋
する行動をとっております。今川は大高城救
援します。これを「後詰」と呼びます。
敵将を救援させておいて敵の本隊に急激なス
ポツト攻撃を仕掛けて後退する敵陣を強烈に
追撃する作戦を「付け入り」作戦つまり追撃
作戦が相手の後退に「付け入る」集中攻撃作
戦です。この作戦バリエーションが小谷城包
囲や虎御前山城築城でありましよう。つまり
は北陸王朝倉義景を打倒するには義景を近江
に誘引して是を打ち取る計画でしょう。小谷
城を落してしまっては越前朝倉は一乗谷に逃
げて越前を固めてしまう。
信長としては一乗谷に住む純然たる分限ある
武士階級3000人を討滅してしまえば朝倉の
雑兵8000人は脆く瓦解してしまう。そう
信長は策戦をシュミレートした事でしょう。
つまり大軍が二つに割れた時にその本隊
を直撃して主体を討滅する事を考えた事
でしょう。

明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』6

2019-08-14 16:40:27 | 戦国
明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』6

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作品には敬服
致します。小野先生の益々の御発展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷川博美が担当しています。また当ブログでの解説も私が
担当させて頂いております。なお順番を追って紹介しますが皆様は順次ページを追って御鑑賞下さい。




◆右画面の藤吉郎の首尾準備の良さに驚きます。信長は藤吉郎の常に先を読む心地よい戦略に笑顔破顔して
喜色満面の様子です。一方朝倉義景は信長の誘導策戦が解っていながら焦燥する越前王の姿を現しています。
◆『信長公記』よりますと越前から近江に到着した朝倉方家臣は次々に信長方に寝返った様子が記されてい
ます。また信長は投降した越前方の武将にも事前に十二分の恩賞を用意していた事も記されております。

明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』7

2019-08-14 16:39:19 | 戦国
明智 羽柴 丹羽 柴田 織田信長が登場する本格劇画『元亀の騒乱』7

小野伸明先生の秀逸な劇画を紹介したいと思います。先生の画業の斬新かつ素晴らしい作品には敬服
致します。小野先生の益々の御発展と隆昌を祈念して『元亀の騒乱』を、是非紹介したいと思います。

作品のネームつまりシナリオや原作は◆長谷川博美が担当しています。また当ブログでの解説も私が
担当させて頂いております。なお順番を追って紹介しますが皆様は順次ページを追って御鑑賞下さい。







◆朝倉義景は小谷城救援を中止し越前に帰る策を選択します。朝倉の武士階層は刀禰坂を目指して
疋田敦賀を経由して引き揚げます。越前の雑兵8000人は中河内つまり国道365号線を越前に引き返し
ます。信長は刀禰坂に向かう本隊を事前に予想しており是に追撃つまり「付け入り」作戦する事を
家老の佐久間信盛らに指示しますが、佐久間信盛は信長にたいして近江越前国境の伏兵を懸念して
また家老として分別として信長の追撃作戦に賛成しません。これに対して信長は烈火の如く佐久間
信盛を罵倒します。
◆その時の様子を『信長公記』は以下の如く記しています。
佐久間右衛門、涙を流し、さ様に仰せられ侯へども、我々程の内の者は、もたれまじくと、
自讃を申され侯。信長御腹立ち斜ならず、其の方は、男の器用を白慢にて侯か。何を以ての事、
片腹痛き申し様哉と、仰せられ、御機嫌悪候。御分別の如く、朝倉左京大夫義軍癈軍侯を、
討ち捕り、頸ども、我も貼と持参候。此の時、御馬にめし御出だし侯。中野河内口、刀根口二手に
罷り退き侯。何方へ付き候ても然るべく候はんやと、相支へ、僉議区に侯ところに、信長御諚には、
引檀・敦賀の身方城を心懸け、退くべく侯間、引檀ロヘ人数を付け侯へと、御諚侯。妙案なり。
中野河内ロヘは雑兵を退げ、朝倉左京大夫、名ある程の者どもを召し列れ、敦賀をさしてのがれ候。
頓て、刀根山の嶺にて懸け付けとあります。