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城郭 長谷川博美 基本記録

城郭遺跡見学講師 信長公記講師 お城イベント案内 民俗学講師  神道思想史講師 などの情報を発信して行きます。

天王山 山崎山城見学会

2024-03-08 08:57:16 | 城址見学会予定 

天王山 山崎山城見学会

▼米原学びあいステーシヨン▲

 長谷川木曜城郭講座好評を

 継続中宜しくお願いします。

令和6年3月9日 土曜日

 

◆質問者

長谷川氏の見学会に参加

をされる理由とは何です。

 

◆解答者

①歴史城郭に対し誠実で素朴

②見落とした石垣を見学可能

③スペシヤリスト専門の見解

④10年来の安心感と信用実績

⑤遺構写真撮影出来る時間有

➅登り土塁を是非見てみたい

⑦織豊期天守台を詳しく解説

⑧他の見学会にはない特化性

 

◆質問者

長谷川氏の性格の欠点とは?

 

◆支持者

自虐的ブログ表現され困惑?

でも本当は超一流の先生だ

見学会は極めて良質で誠実

そこにストア派の城哲学も

見え隠れして極めて向学的

現地遺跡解説のキレは最高!

竹中半兵衛/諸葛孔明級の人

隠れた才能隠士かつ慧眼の仁

◆長谷川

米原駅東口午前8時出発

1長谷川 車

2依頼人様

3ジンさん

〇空席アリ

名神高速道から山崎へ行く

 

JR山崎駅前に集合 

午前9時30分から10時頃

4カラス様 個人で車 高速

5U年様 山崎駅へ電車で

6のび様 山崎駅へ電車で

7マミ様 山崎駅へ電車で

 

山崎山城

以下ウイキペデイアより引用

 

天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返し中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城勝竜寺城へ一時撤退した。翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。

宝積寺の山門

秀吉は大坂城に移るまで、山麓にある宝積寺も含めて城郭として利用したと考えられている。

清洲会議長浜城柴田勝家へ譲り、秀吉の城は姫路城のみとなっていた。秀吉は「山城・丹波両国のどこかに城を築きたい」とし、更に「いずれ勝家と雌雄を決するときがくるはず」と考える秀吉にとって、京都に近く、しかも小谷城に匹敵する山城の候補地を物色するうち、天王山の場所に目をつけるようになったものと思われる」と推察されている[3]。小谷城は秀吉が元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)に攻め続けた城で、山城の優位性があったためではないかとしている。

秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかばかしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これは竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭ではないとしている。それとは別に『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を遣はして、最初の協定においては彼等は対等であったが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の絶対の君主とならんとする志を示している。よって直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が天下の君となるか各自の腕によって定めようと言った

一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・フロイスより
インド管区長 パードレ・アレッサンドロ・バリニヤノに贈りし書翰」(『イエズス会日本年報』)と記している。ここに記している八幡というのは、石清水八幡宮のことで男山頂に築かれた男山城を指している。『豊鑑』の「はかばかしく構にもし給ざりけり」と『イエズス会日本年報』の「甚だ堅固な城」との間にはへだたりがある。清洲会議がどのよう協定だったか日本側の史料には記載がなく、イエズス会日本年報に城郭に関する取り決めらしきものが窺い知れる。

また、秀吉が毛利輝元に出した書状に山崎城に関する記述がある。

「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」

大相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状である。文中には山崎城を築城していることも記しており、清洲会議から20日程度たった天正10年(1582年)7月17日には普請が開始されている。

最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり、廃城日は天正12年(1584年)3月25日となっている。

 

城郭[編集]

現在の城郭は、最後の城主となった豊臣秀吉時代のものが多くあらわれている。山崎城の最大幅は、東西約250メートル、南北約200メートルで本丸北側には東西35メートル、南北20メートルの小曲輪があり天守台と考えられている。本丸を中心に、東側、南側、南西側に曲輪を配置し、北側は断崖の要害となっている。

縄張りの基本は四角形で築城されており、「倭城の長大な登り石垣と空堀と第一戦に捉えた天守台のパターンに近いものが萌芽しており、織田・豊臣系の築城パターンの中でも、秀吉の個性が強く出たものと考えられる」とし、山崎城の築城パターンはその後の倭城に多く出てきており、豊臣系のものが色濃く出ているとされている[4]。豊臣秀吉が山崎城に在城中は、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣していることから、寺を含めて城郭として機能し、寺から山頂にかけての防御はそれほど重要でなく、「山頂のこの城郭は、全体の詰の城といった存在であったと考えられ」、山頂部分の縄張りは最後の砦として機能したといえる[5]

枡形虎口の例

また山頂の城郭(詰の城)は本丸に向かうまで、虎口、枡形、土塁土橋と連続した防御システムがある。これについて「山麓の宝積寺より山頂の詰の城を一体とするパターンと、詰の城の細かい防御施設に後の秀吉系の城郭パターンの原型と言える二大要素を持った縄張の城郭である」と指摘されている[5]

遺構としては、本丸の礎石跡、石垣井戸、門柱礎石が散見できる。歴史がある山崎城だが、発掘調査は進展していない模様である。

 


壮麗秀吉 山崎 天王山城 見学会

2024-03-08 08:22:22 | 城址見学会予定 

壮麗秀吉 山崎 天王山城 見学会

◆ゴルフ客

キヤデイさんゴルフクラブを

出して下さいませんか?

 

97AC8E2F-8454-4173-A3F5-C7C0C9479857

◆キヤデイさん

ゴルフクラブつて何んですか?

 

◆ゴルフ客

もういいよ!2度と来ません!

◆対談者

長谷川先生は伊賀上野城

筒井氏時代の天守台何故?

見学されたのですが疑問?

 

◆長谷川

織豊天守台の基本多角形

天主台だから3月9日山崎

天王山城の天守もゴルフ

クラブの様な織豊天守台

です。それ素人さんの為

の初心者の為の見学会!

岡山城も織豊天守台です。

要するに多角形ですね!

素朴純心に秀吉の山崎

天王山城の天守台跡を

見学致しましょうね!

それ城郭初心者と言う事

初期天守閣跡の見学です

f:id:kouji-katayanagi:20190328182242j:plain

97AC8E2F-8454-4173-A3F5-C7C0C9479857

 

◆依頼人様

羽柴秀吉の暫時の居城、山崎

天王山城に一度も行った事が

ありません是非城郭鈴鹿会で

是非とも計画を立てて下さい!

 

 

◆長谷川

冗談を言わないで下さいよ!

私は日本一人気がない無名の

城郭研究家ですよ!フエイス

ブック失敗ブログも失敗の人

第一だれも読んでいない記事

世間に無視された駄目研究家!

人気がない事が私の誇りです!

 

◆長谷川

3月9日天王山山崎山城見学会

開催しても長谷川博美講師だと

名前聞いただけで参加者が引い

て行くトランプで言えばジョウ

カー「ばば」状態の人間ですね。

 

◆依頼人様

秀吉の天王山山崎城『兼見卿記』

によれば三重の天守だったとか?

どんな感じの城だったのですか?

 

◆長谷川

ピントずれていますよ。有名で

有能な先生と城郭遺跡見学へと

行って下さい。無能無名の人間

の長谷川と城址行く事は駄目!

 

◆依頼人様

ボヤイて悲観しても前向きにな心に

はなりません!実際の計画予定は?

令和6年3月9日 土曜日

 

◆長谷川

米原駅東口午前8時出発

1長谷川 車

2依頼人様

3ジンさん

〇空席アリ

名神高速道から山崎へ行く

 

JR山崎駅集合 

午前9時30分から10時頃

4カラス様 個人で車 高速

5U年様 山崎駅へ電車で

6のび様 山崎駅へ電車で

7マミ様 山崎駅へ電車で

 

山崎山城

以下ウイキペデイアより引用

 

天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返し中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城勝竜寺城へ一時撤退した。翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。

宝積寺の山門

秀吉は大坂城に移るまで、山麓にある宝積寺も含めて城郭として利用したと考えられている。

清洲会議長浜城柴田勝家へ譲り、秀吉の城は姫路城のみとなっていた。秀吉は「山城・丹波両国のどこかに城を築きたい」とし、更に「いずれ勝家と雌雄を決するときがくるはず」と考える秀吉にとって、京都に近く、しかも小谷城に匹敵する山城の候補地を物色するうち、天王山の場所に目をつけるようになったものと思われる」と推察されている[3]。小谷城は秀吉が元亀元年(1570年)から天正元年(1573年)に攻め続けた城で、山城の優位性があったためではないかとしている。

秀吉その頃、「山崎宝寺のうへに城をかまへ居給へり、されども、この所思ひ定ざるにや、はかばかしく構にもし給ざりけり」(『豊鑑』)とし、これは竹中重門が著したもので、それほど重要な城郭ではないとしている。それとは別に『イエズス会日本年報』では、「羽柴は甚だ堅固な城を二つ山崎及び都より三レグワの八幡に築いたが、柴田及び三七殿は大いにこの築城を不満とし、人を遣はして、最初の協定においては彼等は対等であったが、その後見るところによれば、彼は自ら天下の絶対の君主とならんとする志を示している。よって直に二城を破壊すべく、もしこれをなさざれば、冬が過ぎて彼を撃滅すると言いはせた。羽柴はこれに答へて、彼等もし来ることを得ば待つべく、何人が天下の君となるか各自の腕によって定めようと言った

一五八四年一月二十日付 パードレ・ルイス・フロイスより
インド管区長 パードレ・アレッサンドロ・バリニヤノに贈りし書翰」(『イエズス会日本年報』)と記している。ここに記している八幡というのは、石清水八幡宮のことで男山頂に築かれた男山城を指している。『豊鑑』の「はかばかしく構にもし給ざりけり」と『イエズス会日本年報』の「甚だ堅固な城」との間にはへだたりがある。清洲会議がどのよう協定だったか日本側の史料には記載がなく、イエズス会日本年報に城郭に関する取り決めらしきものが窺い知れる。

また、秀吉が毛利輝元に出した書状に山崎城に関する記述がある。

「大相国吊いとして御使僧差し上され、青銅万疋贈り、御意を懸けられ候、誠に御念を入れられ示し預り候段、謝し申しがたく候、しかして、畿内の要に就き候、御使僧見及ばる如くに候、山崎において我等普請申し付け候故、吊いの儀、まず延引せしめ候間、彼の仏事執行候刻、仰せをこうむるべく候、御使僧へ申し渡し候、恐惶謹言 七月十七日 秀吉」

大相国とは主君織田信長を指しており、信長の死を悼み、弔意として青銅を送ったことに対する礼状である。文中には山崎城を築城していることも記しており、清洲会議から20日程度たった天正10年(1582年)7月17日には普請が開始されている。

最後は吉田兼見の日記には、「今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」天正十二年三月廿五日条(『兼見卿記』)とあり、山崎城には天守があり、廃城日は天正12年(1584年)3月25日となっている。

 

城郭[編集]

現在の城郭は、最後の城主となった豊臣秀吉時代のものが多くあらわれている。山崎城の最大幅は、東西約250メートル、南北約200メートルで本丸北側には東西35メートル、南北20メートルの小曲輪があり天守台と考えられている。本丸を中心に、東側、南側、南西側に曲輪を配置し、北側は断崖の要害となっている。

縄張りの基本は四角形で築城されており、「倭城の長大な登り石垣と空堀と第一戦に捉えた天守台のパターンに近いものが萌芽しており、織田・豊臣系の築城パターンの中でも、秀吉の個性が強く出たものと考えられる」とし、山崎城の築城パターンはその後の倭城に多く出てきており、豊臣系のものが色濃く出ているとされている[4]。豊臣秀吉が山崎城に在城中は、天王山から宝積寺一帯にかけて布陣していることから、寺を含めて城郭として機能し、寺から山頂にかけての防御はそれほど重要でなく、「山頂のこの城郭は、全体の詰の城といった存在であったと考えられ」、山頂部分の縄張りは最後の砦として機能したといえる[5]

枡形虎口の例

また山頂の城郭(詰の城)は本丸に向かうまで、虎口、枡形、土塁土橋と連続した防御システムがある。これについて「山麓の宝積寺より山頂の詰の城を一体とするパターンと、詰の城の細かい防御施設に後の秀吉系の城郭パターンの原型と言える二大要素を持った縄張の城郭である」と指摘されている[5]

遺構としては、本丸の礎石跡、石垣井戸、門柱礎石が散見できる。歴史がある山崎城だが、発掘調査は進展していない模様である。

 


3月3日彦根 特別お城講演迫る!

2024-03-02 11:11:10 | 城址見学会予定 

3月3日彦根 特別お城講演迫る!

◆対談者

来る3日は長谷川先生が久しぶり

に彦根の講演に招かれましたね!

 

◆長谷川

御招きを賜ったものの私は極めて

人気がなく主催者様の期待に応へ

られるか大変焦燥をしています。

◆対談者

先生大丈夫ですよ!先生の講演に

は素朴で善良な人々が集合される

この講演を聞き逃したら大損する

 

◆現地同行者

偶然長谷川先生と坂本城発掘現場

で遭遇し先生に今回の出土遺構は

一体何でしょうかと質問しました。

◆反論者

貴方は蔵書1000冊もあり常に図書

と親しむ習慣を持っておられます

何も長谷川如きに坂本城の事をば

傾聴する必要は全くないと思う!

 

◆現地同行者

私は文字知識は豊富です。しかし

長谷川先生は遺構を見て見解を述

べられる私は知識を文字で習得を

する事には長けていますが現場の

遺構を見て何が何だかサッパリと

解らないタイプの人間なのです。

つまり私は応用が利かないタイプ

その点長谷川先生は柔軟な切口や

発想で鋭く電光のように放電する

様にスパークする閃光を感じる。

◆一般者

確かに坂本城三の丸石垣出土して

も石垣表面の写真を撮って帰るね

これが一般見学者だと言えますが?

◆一般者

彦根城観光でも中堀の堀と石垣

を写真にパシャリでOk100点だ

◆長谷川

そうかな?表は石垣でも裏は

土塁と言う事も見るべきです。

 

◆現地同行者

長谷川先生は現地遺構を見て貴殿

は彦根東高校を卒業して国立滋賀

大を卒業されたインテリなんだか

ら何回彦根城を毎日見ましたか?

と言われました。私は北川書店で

購読する事が趣味で彦根城は見て

なかった訳ですね。文字読むも城

は見てなかった人間かと思います。

 

◆長谷川

貴殿に質問致します。明智光秀の

小納戸役つまり文書管理官は誰?

 

◆現地同行者

天正9年まで木俣守勝が務めた!

 

◆長谷川

家康はある人を徳川家に引き取り

彦根の井伊家の目付家老とした事

は知っていますね?

 

◆現地同行者

それは木俣土佐守守勝ですね。

 

◆長谷川

木俣は彦根藩でも別格な人物

で『井伊年譜』などでは山崎

郭を邸宅とし居住し政務の為

に彦根城の西の丸三重櫓へと

登城していた彦根藩重鎮です。

つまり井伊家は三層の天守を

持っていたが家老格の木俣は

三層櫓二基も所持していた人

彦根の実質の主で管理者です

いや家康の西国監視のサーチ

ライト監視役監査役と言う事

 

◆現地同行者

彦根城の土塁石垣や坂本城の

土塁石垣は何の関係もない!

◆長谷川

貴殿彦根城の中堀の石垣土塁

を見た事があるのですかね?

これも徳川天下普請の彦根城

で当然木俣土佐の築城の意志

や志向は彦根城に影響を与え

ている思いませんか?両者は

遺構の大小の違いはあれど同

タイプの遺構と言ってよいと

私は思います。

◆おっちやん

そや!軽トラックも中型トラック

も大型トラックも用途はみな同じ

や坂本城の石垣も彦根城石垣など

も同じタイプやと思いますがな!

『井伊年譜』には大津城を縁起

が良いから彦根城の材木に使った

とある大津城は坂本城を壊して

作った城やさかいこれは木俣の

かっての主君の城明智の坂本城

と言う事になる彦根城天守内部

をまた見学してみなはれ古い城

の材木を継接ぎしたリサイクル

城郭や3月3日プロシード講演は

予約なしでも参加できると思う

さかいワテは絶対参加しますわ!

◆世話人様

長谷川先生は突飛な事は言われ

ません。城郭解説は基礎的な事

犬走を見学しくしようと地味に

言われます。彦根城中堀石垣も

ヤハリ城の基本犬走りが存在!

城とは基本から入門すべき事!

 


城歩会令和6年3月3日彦根山崎山城見学会御案内

2024-03-01 16:52:54 | 城址見学会予定 

城歩会令和6年3月3日

彦根山崎山城見学会御案内

 

◆配車係様

長谷川先生が『城歩会』の皆様

33人に私費でお手紙を送られて

3月3日のプロシア―ドアリナー

講演をお知らせされたのですが

全く一名も参加希望連絡様連絡

が入っていません。

 

◆世話人様

それは仕方ない事ですよ。城址の

見学希望者は講演には関心ない

特徴があります。

 

◆配車係様

申し込み予約がないと困ります。

先方の主催者様はプロシア―ド

アリナー講演に来場された方に

は70人分の御茶を出すとか言わ

れ城歩会からの御参加は何人?

ですかと質問されて困惑です。

まさかゼロ人だと言えません!

 

◆世話人様

米原学まなびあいステーシヨン

での長谷川先生の連続城郭講座

は好調につぐ好調が続いてます。

◆長谷川

私は歴史城郭講師として全く

人気がありません。城歩会様

も人が集合せずに解散状態で

これ一重に私に人徳人気ない

証拠と言えます。駄目人間!

 

◆世話人様

たとえ一名城歩会から参加

をされても彦根山崎山城の

駐車場の安全や城址の下見

は先生の性格からご確認を

して欲しいと思ってます!

 

◆長谷川

下見報告を致します。駐車

場は存在致します。入口に

狭い柵があり。駐車誘導係

の人が必要かと、思います。

◆世話人様

現地は石垣城郭と言う事で

坂本城からも石垣が出土し

本能寺の変後は明智光秀に

与するも羽柴陣営に加わる。

 

◆長谷川

破城された石垣は現在も目視

できます。3月3日解説します。

◆世話人様

伊賀の百田藤兵衛城でさえも

長谷川先生はこの様に解説を

されている訳ですから先生の

解説視点はやはり一級品だと

いつも思います遺構をミクロ

に丁寧に解説される従って写

真も撮影出来るチヤンスある。

 

 


藤林長門砦 探訪 令和6年2月25日に迫る

2024-02-23 11:27:17 | 城址見学会予定 

藤林長門砦 探訪 令和6年2月25日に迫る

◆質問者

藤林長門砦は映画にも登場

するのですか?私は忍者の

イメージが強く藤林姓には

強く興味を感じますどす!

◆おっちやん

忍者とはなんじやかんじやと?

城とか砦本当に存在したのか?

この映画みてみなはれ!藤林砦

が爆発して櫓が倒れとるやおま

へんか?もう無茶無茶な映画!

◆おっちやん

ワテ10分に一回、ズボンちやん

がズレまくり必死でスボンを上

げますドス。ほんなもん激しい

ブッシュの中にカッパズボンを

ば着用して行ったら激しく破れ

まくれの半ケツ状態どすねん!

ほんなもんミットミナイ不細工

な事、世界最強どす。これ以上

不細工なもんない筆舌に尽くし

たいワテ日本の恥じどすわ!

ほんなもん最近はニンニンの

連続状態で甲賀伊賀の城巡り

を楽しんでおる次第ですわ!

◆参加者

しかし冗談や洒落ヤメテ下さい!

現地の城址見たら仰天しますよ!

これねもう冒険活劇映画なみだ!

スバーン!スドーンと現実城郭

が迫って来るスぺクタル見学会!

どこまでもマニアック見学の極地

◆一般様

しかし冒険活劇忍者城郭見学会と

いう破天荒な見学会をされる方々

は本当にすき焼きの残り汁の様な

良い味出しておられ滋味豊富です。

味わいたつぷり濃厚スープですわ。

 

◆一般様

しかし長谷川先生人気急上昇です

よ!赤丸🔴急上昇中です講座座!

だってオモロイもん楽しいもの!

◆長谷川

さあ?私は知りません!クールです!

◆城郭 鈴鹿会

甲賀城館に天守台の祖型を求める見学会 

甲賀豪快の城Ⅱ 

 

◆日時 令和6年2月25日 日曜日

◆集合 北組 米原駅東口午前8時

    南組 草津線甲賀駅北口

       ロタリー前車集合

         午前9時41分

 

◆講師 元滋賀県中世城郭分布調査

   現地調査員/滋賀民俗学会理事

   長谷川博美

 

◆探訪城郭「チョイ寄り」オマケ

 甲賀上忍 藤林長門守城 約10分

 講師評価 ★ 

 ブッシュコンデションC

 

◆見学城郭 「本格見学」 約60分

 栢ノ木城「かやのき城」

 講師評価 ★★★★★

 ブッシュコンデションA

 堀切/大櫓台 出丸約2

 

◆見学城郭 「本格見学」 約60分

 高嶺南城「たかみね南城」

 講師評価 ★★★★★

 ブッシュコンデションA

 大堀切/大櫓台 出丸約3

 

◆見学城郭 「本格見学」 約60分

 高嶺中城

 講師評価 ★★★★

 ブッシュコンデションC

 大堀切/狼煙台あり 出丸約3

 

◆見学城郭 「本格見学」 約60分

 高嶺山城

 講師評価 ★★★

 二重堀切/土狭間/狼煙台

 ブッシュコンデションC

 

◆質問コナー

質問A

堀切写真多数撮影可能ですか?

 

◆長谷川

連続で巨大堀切が登場致します。

撮影時間は用意しますので安心。

 

B遺構のメリハリ迫力とはどう?

 

◆長谷川

非常に明白で顕著な遺構の連続!

今回の見学会は迫力では五ッ星!