休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

大坂の陣と玉手山古墳群

2014-04-13 14:46:51 | 史跡を歩く
 今年は、大坂冬の陣から400年ということで豊臣家や大坂の陣に関わりのある寺院や史跡などでのぼりを立てたりしてキャンペーンをしているのをよく見かける。大坂冬の陣と書いているのが、どことなく豊臣氏びいきの大阪人らしい気がする。
 さて玉手山公園である。僕も昔、40年近く前、小学校の初めての遠足はここであった。その後、探偵ナイトスクープでは、河内のパラダイスなどと取り上げられたりしたが、平成10年に休園となり、その後柏原市の公立公園として現在使われている。

 1615年の大阪夏の陣では、この地で、道明寺の戦いとして激戦区となっており、徳川方伊達氏と豊臣方後藤又兵衛等が戦い、後藤又兵衛は、この地で討死している。
 玉手山公園には、大坂夏の陣で戦った両軍の戦死者の供養塔や後藤又兵衛基次の墓碑や後藤又兵衛にちなんだ又兵衛桜などがある。

 ■大坂夏の陣戦死者の供養塔(玉手山古墳群7号墳の後円部に建っている。)
 

■後藤又兵衛基次の碑と吉村武右衛門の碑(吉村武右衛門は、後藤又兵衛の介錯をした人物である。)


 ■又兵衛桜
 

 残念ながら、訪問した時は2月の後半であったため、桜は全く咲いていなかった。(今頃はきっと満開でしょう。)

 そして、大坂夏の陣の戦死者の供養塔が建っているところは、玉手山古墳群7号墳の後円部にあたる。前方後円墳で全長110mとされる。前方部は公園に隣接する安福寺の寺地となっており、形状ははっきりわからない。

 ■玉手山古墳群7号墳の登り口(この上に供養塔がある。)
 

 玉手山古墳群については、大阪府内でもかなり古い時期に形成された古墳群であり、築造されたのは古墳時代の前期だとされている。つまり著名な古市古墳群や百舌鳥古墳群よりも古い段階の古墳群である。
 玉手山公園内にいくつか残っている古墳の一つがこれである。周辺には8号墳と9号墳があるという。
 
 また、公園内には、玉手山古墳群から出土した竪穴式石室と家型石棺が移築されている。
 
 ■家型石棺
 

 ■竪穴式石室
 

 ■家型石棺と竪穴式石室(ならんで展示されています。)
 
 
 説明板が古くて、わからないのだが、家型石棺については、6世紀のものと想定されている。これらの遺物について、玉手山古墳群のいずれかの古墳から発掘されたのは、確実なのだが詳しい情報が残念ながら得られなかった。
 
 正直、この古墳群、歴史的に見れば重要な位置にある古墳群だと思われるのだが、全く保存をされておらず、現状1,2,3,7,8,9号墳がかろうじて残っている状態である。宅地造成のスピードに古墳群の評価が追い付かなかったんだろうなと思う。
 著名なわりに古墳の存在を示す案内板等もないため、他の古墳については、実際に見ることが出来なかったのは、非常に心残りだった。

 しかし、玉手山丘陵を自転車で走り回るのは大変だったね。


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