休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

安満遺跡 現地説明会 ①

2016-02-14 00:01:05 | 現地説明会
 昨年の6月27日、28日の2日間に渡って安満遺跡の現地説明会が開催された。すっかりと時間が経ってしまったのだが、多くの写真も撮ってるし、この際、まとめておこうということで今更ながらブログに書くことにした。
 阪急京都線を乗っていると、高槻市駅を越えると広い農場が電車の車窓に広がる。京都大学の農学部の農場で、今回、発掘調査が行われ、現地説明会が開催された安満遺跡は、この農場の地下に眠る遺跡である。(京大の農場は、今後、数年かけて木津川市へ移転するらしい。)
 安満遺跡の調査に歴史は古く昭和3年(1928)に京大の農場の建設工事の時に弥生時代の石器や土器が見つかっており、その後も断続的に調査がなされており、発掘調査は50次に及んでいる。

 安満遺跡は、淀川の右岸の三島地域にあり、檜尾川が形成した扇状地の上に立地する弥生時代の遺跡である。そして安満遺跡は、弥生時代の初期、北九州に発生した弥生文化が時を置かずして畿内に流入したことを示しており、弥生時代の700年間存続していたと言われている。説明会でも、おそらく初めのころは、新しく入ってきた弥生人と古くから住んでいる縄文人が同時期にこの地に生活していたのではないかと話しておられた。

 安満遺跡自体は、弥生時代の700年間何の変化なく続いていたという訳ではなく、紀元前の2世紀ごろには、檜尾川の氾濫により、安満の集落は、土砂の下に埋まってしまう。今回の発掘調査でも、水田が土砂に埋まった様子がうかがえる。一旦、集落を離れ、近くに新たに村を作ったのち、また戻ってきているらしい。

 では、現地説明会で様子を見ていこう。今回、現地説明会で公開されたのは、調査区の1区、2区、3区であり、1区は水田の遺構が、2区は、灌漑などに使われた溝が、3区では、墓地が検出されている。

 【水田跡】

 

 1区で検出された水田跡。弥生時代の水田は、現代の水田とは違い、一区画の大きさが、かなり小さく、また形もいびつなものが多いらしい。安満遺跡の今回の発掘でも、同様の水田が検出されており、全部で57枚の水田跡が見つかっている。

 

 水田は、幅20~30cm、高さ5mの畦で仕切られており、高い田から低い田へ、畦畔を越流させて給水したらしい。

 

 畦と田の土の違いわかりますか?説明を聞いた時はわかった気がしたのですが、今になってみると・・・。

 水田の上を、黄土色の土が覆っているのが、洪水で運ばれた砂礫で、この洪水でこの水田は壊滅してしまい、放棄されて、現在まで土の中で眠ることになった。

 

 こっちの写真では、水田を覆っている砂礫層がはっきりとわかる。

 また、この洪水を当時の人は、心配して覗きに来たようで、その時の足跡が残っている。

 

 茶色土の部分がそうだ。意外と足が小さい。

 

 大雨の時、田んぼの様子を見に来るのは、今も昔も変わりないのだろう。考えてみれば、一つのむらが壊滅するダメージを受けているわけだから、心配というレベルではなかったのかもしれない。自然の脅威を改めて考えさせられる遺跡でもある。
 

 2区、3区については、安満遺跡 現地説明会②へ続く予定。
 

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