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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

古市古墳群を歩く おまけ② ~島泉平塚古墳・島泉丸山古墳・津堂城山古墳~

2019-08-03 17:10:49 | 史跡を歩く

 藤井寺駅から北西へ1.5kmほど歩くと、住宅街の中に、島泉平塚古墳と島泉丸山古墳が一体となって造られた雄略天皇陵がある。

 

 ちょうど拝所の裏側の少し盛り上がった場所が島泉平塚古墳だと思われる。よく観察してみると陵墓内の森の中にも盛り上がっている場所とそうでない場所がある。この感じは、橿原市にある垂仁天皇皇子倭彦命墓として宮内庁が管理している桝山古墳と似ている。

 島泉平塚古墳については、一辺50m、高さ8mの方墳である。当然のことながら宮内庁が管理しているため詳細はわからない。島泉平塚古墳を含めた前方部については、かなり住宅が接近して立っており、あまり墳丘を見る場所もない状態である。

 

 拝所から少し北側へ出て西に行くと、雄略天皇陵の後円部、島泉丸山古墳を見ることができる。

 

 こちらの方は、古墳の周囲を大きな濠が囲んでいる。特に北側は、後世に溜池として改変されたため、かなり大きな池となっている。

 

 池のほとりには、新しい案内板が建てられている。島泉丸山古墳については、直径75mの円墳。円墳のカテゴリーで考えると大円墳の部類であるが、倭王「武」と考えられ、万葉集の巻頭に飾られ、即位にあたってはライバルの皇位継承者を謀殺したり、葛城山の一言主神と狩りを競うなどした英雄的な伝承の多い雄略天皇の御陵と考えるとかなり疑わしい気がする。

 

 たぶん、幕末の人も同様のことを考えたようで、文久の修陵図では、円墳に拝所をつけただけであったものから、その後明治時代になってから、近くにあった島泉平塚古墳を含めた前方部を造って、島泉丸山古墳と一体で前方後円墳に擬したのだろう。

 

 Googleマップの航空写真を見ると、一目瞭然ではありますね。古墳の軸が見事にズレている。

 

 後円部の濠の堤と住宅の間に「高鷲原」という石碑が立っている。雄略天皇丹比高鷲原陵だからかな。

 付け加えると、この雄略天皇陵については、さすがに疑わしいと思ったのか、この古墳の西にある河内大塚山古墳を、雄略天皇を想定した陵墓参考地として、宮内庁が管理している。以前は、この古墳が雄略天皇の真陵と考えられていたが、築造年代が、6世紀中ごろと考えられることから、むしろ、現在、仲哀天皇陵として管理されている岡ミサンザイ古墳の方が、雄略天皇の御陵ではないかと考えられている。

 この雄略天皇陵については、古代史というよりも近代天皇制の遺跡と考えると面白いかもしれない。天皇陵というのは、近代天皇制を形作っている重要なパーツである。そういう視点で見ていくことも必要なのではないかなと思う。

 雄略天皇陵から、津堂城山古墳まで歩いていった。20分ぐらい歩いたような気がする。ただ、住宅街の中を歩いていくので変化に乏しく、その20分が結構長く感じた。

 細い道に入ると、突然、後円部の西側にある津堂八幡神社の前に出る。その後ろに見える鬱蒼とした森が、津堂城山古墳の後円部である。

 

 いつもは、反対側の幹線道路の方から見ることが多いので、こちら側から見るのは初めてである。史跡城山古墳と書かれた石碑から神社の鳥居までの平坦部が、昔の濠があった場所だろうか、かなり濠の幅が広い。

 津堂城山古墳は、構成する古墳としては一番最初に造られた古墳であると言われている。奈良地方では、佐紀盾列古墳群がまだ造られている中に、古市古墳群では、津堂城山古墳が造られたということになる。二重濠を持ち、200mを超す墳丘を持つ大古墳の被葬者が、一地方の豪族とという訳にもいかないような気がする。

 例えば、古墳に隣接して建てられているガイダンス施設「まほらしろやま」の前庭に、津堂城山古墳の長持型石棺を復元した模型が置かれているが、もはや「大王の墓」と呼ぶにふさわしいものである。

 

 後円部の濠の跡は、花畑として、菖蒲などが植えられており、四季折々にいろいろな花が咲くようだ。僕が訪れた時にはまだ、これといった花は咲いていなかった。

 この後円部の先端部分にガイダンス施設「ましらしろやま」がある。見ものは、その前提にある、津堂城山古墳の長持型石棺の復元模型や市内の各所から集められた津堂城山古墳の天井石である。

 

 

 津堂城山古墳の埋葬施設については、1912年に地元の人々が中心となって後円部の発掘が行われており、だいたいの概要がわかっている。越す割り石積みの竪穴式石槨の中には、長持型石棺がおさめられていたとのこと。これらについては、その後埋め戻されているが、天井石については、持ち出されており、近くの神社の石碑や葛井寺の忠魂碑、お寺や民家の庭石などに転用されていたのを、この場に集めて公開している。(忠魂碑だけは、この場に置くことはできなかった。)

 

 また、ガイダンス施設の屋根の上には、津堂城山古墳の島状遺構から出土した水鳥型埴輪を模したものが載せられている。実物が、藤井寺市のアイセルシュラホールで見ることができる。

 

 津堂城山古墳は、後円部を除き、墳丘に登ることができるのだが、雨の降った後で、足場が悪かったので断念。今回は、外から眺めることにしたが、しかし、まあ、大きい。墳丘は、中世に城として活用されたので、かなり改変されたのでガタガタではあるが、周辺も含めて、これだけの広い土地を残して、保存しているというのは本当に素晴らしいことだと思う。

 

 土地の乱開発を上手く防いだ行政はよくやったと思う。当時は、評価されなかっただろうけど、数十年後になってみると、堺市、羽曳野市との差は歴然としてあると思う。

 

 津堂城山古墳の特徴として、前方部の濠の中に島状の遺構があり、水鳥型埴輪などが出土している。同様の遺構は、神戸にある五色塚古墳にもあるという。

 

 津堂城山古墳については、この古墳の出現を皮切りに、この台地上に、仲津山古墳や誉田山古墳などを代表とする古市古墳群が築かれていくことになる。

 遥かな古代の壮大なロマンを感じつつ、近くのバス停から近鉄バスに乗って帰路につくことにした。(このバスが、全然進まず近鉄八尾駅まですごい時間がかかった。)


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