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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

天王寺界隈を歩く⑤ ~安居神社と逢坂~

2017-04-16 23:58:27 | 史跡を歩く
 天王寺七坂のうちの一つ、天神坂の名称は、「天王寺界隈を歩く④ ~清水坂・天神坂~」にも書いた通り、天神さんを祀る安居神社が坂に隣接していることに由来する。天神坂を降りていくと左手に安居神社の裏参道がある。

 

 大河ドラマ「真田丸」のブームもあり、「大坂夏の陣」「真田六文銭」などののぼりが階段などに立てられている。残念ながら、「真田丸」は全く見たことがない。大河ドラマについては、衛星放送の午後10時の枠ががなくなってから、生活のリズムに合わず全く見ていない。何とか復活してもらえないだろうか。

 

 安居神社の創建については、いつごろに建てられたものなのかはわからない。ただ、菅原道真が大宰府に流されるときに、この地で風待ちのために休息をとったことからこの名称がついたとの伝承があるそうだ。安居神社を有名にしたのは、やはり、真田信繁(幸村)が徳川方との合戦に敗れ、この地で討ち死にしたことである。境内には、真田幸村終焉の地と書かれた石碑と真田幸村の銅像が立っている。

 

 真田信繁は、この地で合戦のさなかに傷を負い疲れた体を休めていたところ越前松平家の家臣西尾宗次に打ち取られたとのこと。そういう目で見ると、銅像もどことなく戦に疲れた表情をしているような気がする。

 

 大阪では、真田信繁(幸村)というと、最後まで豊臣方について奮戦した武将ということでかなり好感度が高い。そのためか結構真田丸ブームにより真田信繁(幸村)の知名度も上昇しているような気がする。ちらほら真田信繁の名称が通りつつあるような感じだ。かなり昔から、真田信繁が本名であり、幸村と書かれたものは同時代には存在していないというのは一部では知られていて、僕も学生時代には、歴史学者の桑田忠親氏の本などで知っていた。それから、30年40年してようやく定着しつつある感じだ。

 

 安居神社を出ると、目の前を国道25号線が走っており、多くの自動車が道路を行きかいしている。東西に緩やかな坂になっており、これが天王寺七坂の一つ逢坂と呼ばれる坂道であり、一番南に位置している。

 

 逢坂は「合坂」「相坂」などとも呼ばれ、聖徳太子と物部守屋が法を討論した合法四会に由来するという説もある。ただ、天王寺七坂の中ではもっとも情緒のないところとなっている。この逢坂を東へ登っていくと四天王寺に至る。

 

 道路のわきには、真田幸村戦死の地と書かれた石碑が立てられている。そして、天王寺七坂もあとは真言坂を残すのみとなったぞ。

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