休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

長屋王墓と吉備内親王墓

2013-12-24 18:38:14 | 史跡を歩く
 読書日記でも取り上げた豊田有恒さんの小説「長屋王横死事件」を読んでから、実際に長屋王と吉備内親王の墓所のある平群町の方へ行ってみたいという思いやまず、先日、この3連休を利用して訪れることができた。

 昔、読んだ中央公論社版「日本の歴史3巻 奈良の都」に掲載されている写真では、田んぼの中にポツンと2つの塚が認識できるものだったのだが、陵域のすぐそばまで民家が迫っており、都市化の波はそんなところにまで押し寄せているのだと実感した次第。ようよう考えてみるとこの本が書かれたのは、昭和40年代初頭のころ。もう半世紀も昔のものだ。ずいぶんと月日は経っているのだ。

 そんなことを考えながら、長屋王墓とされる塚の前に立つ。この塚が、長屋王の墓とされる明確な証拠はないそうだ。続日本紀には、長屋王の死後、生駒山に葬るとだけ書かれているだけであり、詳しくは書かれていない。奈良時代に、皇族とされる人々がどのような形で埋葬されたのか、あんまりよく知らないのだが、かなり薄葬であったような気がする。
 塚については、直径15メートルであり、古墳であるかどうかも定かではないようだ。

 

 柵の隙間から写してみた。塚らしきものが見える。

 ただし、この古墳の下には、れっきとした古墳が眠っているそうだ。梨本南2号墳と呼ばれ、全長45m、前方後円墳であるとのこと。この塚が古墳の一部なんだろうか?

 

 長屋王墓の横には、長屋王御陵公園と石碑のある小さな公園が設けられていた。

 

 公園の中には、長屋王の事績などが書かれたプレートが設置されていた。

 この長屋王墓から北へ150mほど行ったところに。長屋王妃の吉備内親王の墓所がある。
 
 

 宮内庁の石碑には、天武天皇皇孫吉備内親王とある。ああ、元明天皇の皇女ではないんだ。(元明天皇は女帝)こういう場合は、男系で表現するんだと改めて認識。でも、当時は内親王なんだから、天皇の子扱いだったんだろう。血筋で行くと、夫の長屋王よりも、同じ天武天皇の孫世代ではあるが、上のはず。このことが、長屋王の変を引き起こす原因だったような気がする。

 この吉備内親王墓も、本当に間際まで民家が建っていた。民家の横の石段を登っていって、墓前に出る。この塚自身は、埴輪などの出土したという伝承もあり、古墳とすることは間違いないようだが、吉備内親王が生きていた奈良時代とは、隔たりがありそうである。

 

 この古墳も、近くまで行って眺めたが、埋葬施設等はわからなかった。

 仲良く並んである二つの塚を、伝承に基づき後世の人が、悲劇の皇族の墓と見立てたのだろうか。

 ただ、奈良時代当時の貴族たちは、生駒山の西麓を埋葬地としていたのは事実で、近くに墓誌が発掘された行基や美努岡麿の墓所などがあることがそれを裏付けると思う。そして長屋王の変(729年)から、1300年近く経っている。その魂は、この地のどこかに眠っているはずである。

  

 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第68回 甲子園ボウル試合終了 | トップ | 平群谷の古墳① ~三里古墳と... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史跡を歩く」カテゴリの最新記事