元ラーメン屋店主のツイート集

ラーメン屋を10年経営し、今は閉店し、介護士をしています。

⑦リッチー・ブラックモアとジョー・リン・ターナー

2007年08月24日 | リッチー・ブラックモア
リッチー・ブラックモアはグラハム・ボネット
のやる事なす事全てが気に食わなかった。

特に、グラハム・ボネットがリフにメロディを
付けたり、作詞が出来ない事にリッチー・ブラッ
クモアは腹がたった。

そして、服装、髪型、パフォーマンス、歌声、
人間性など我慢出来なくなり、解雇を伝えても
バンドを去る意思が無かったグラハム・ボネッ
トを強行的に追い出す為に、新ボーカリストを
探した。

そこで目を付けたのが「ファンダンゴ」です。
人気急上昇だった「ファンダンゴ」のギグを
リッチー・ブラックモアは見に行った。
会場は女性ファンが多く、
甘いマスクでギターを弾きながら歌う
ジョー・リン・ターナーの姿にリッチー・
ブラックモアは「こいつならイケる」と確信
を持ち、すぐさま「レインボー」への加入の
勧誘をした。

ジョー・リン・ターナーは、ずっとリッチー・
ブラックモアの大ファンで「レインボー」を
愛聴していたので2つ返事で「OK」をした。

ジョー・リン・ターナーの歌声は、リッチー・
ブラックモアが長年求めていたポール・ロジャー
スに似ていた事もあり、リッチー・ブラックモア
はジョー・リン・ターナーに対して何の不満も
無かった。

ジョー・リン・ターナーはプロバンド「ファンダ
ンゴ」でのキャリアもあったので、作詞、作曲、
アレンジにも積極的に加わり「レインボー」の
新たな方向性を導いていった。

グラハム・ボネットは、ジョー・リン・ターナー
の加入に不服ながらも、仕方なく退いた。

ジョー・リン・ターナーが常にリッチー・ブラッ
クモアに敬意を払い続けていたので、リッチー・
ブラックモア自身も気分良くバンドを存続できた。

リッチー・ブラックモアの目論見通りに、女性ファ
ンを大量獲得出来「レインボー」のキャリア最大の
ヒットアルバムまで生まれた。

しかし、初期の様式美路線を敬愛していた「レイン
ボー」ファンは、軽い洗練されたハードポップに
困惑した。

しかし、セールス的成功はジョー・リン・ターナー
時代の「レインボー」です。リッチー・ブラックモア
は、この当時は何が何でもヒット曲を生みたかった。
だから、今までのファンより大衆向き路線に走った
感はありました。

MTVがアメリカの音楽界で大きな勢力を持ち始めた時期で
ジョー・リン・ターナーはロック・スターとしてもては
やされました。

「レインボー」は飛ぶ鳥をも落とす勢いで、絶頂期を
爆走中でしたが、黄金期のメンバーで「ディープ・
パープル」再結成という話が舞い込み、莫大なお金が
舞い込む為、リッチー・ブラックモアは「レインボー」
を解散し「ディープ・パープル」を再結成させた。

リッチー・ブラックモアは、ロニー・ジェムズ・ディオ
が「レインボー」を去った時、最初に「レインボー」加入を
誘ったのはイアン・ギランでした。かつて、喧嘩別れを
したイアン・ギランに助けを求めたのです。だから、
リッチー・ブラクモアはタイミングが合えば「また
イアン・ギランとバンドをやりたい」という気持ちは
あったのかもしれません。

もしかしたらリッチー・ブラックモアのワンマンで
引っ張ってきた「レインボー」に疲れ、バンドの5分の1
の存在に戻りたかったのかもしれません。

ジョー・リン・ターナーはその後、イングヴェイ・マル
ムスティーンに加入し、ロックミュージシャンとして
2番目にソビエト連邦でライヴを実現しました。
(1番目はボン・ジョヴィです)

そして、ジョー・リン・ターナーはディープ・パープルに
加入し、ジョー・リン・ターナー・バンドを結成しました。

最近は「レインボー・トリビュート虹伝説」「レインボーの
交響楽トリビュート・トゥ・レインボー」など「レインボー」
絡みの仕事も増え、自身のカ
バーアルバムでも「レインボー」の「ロスト・イン・ハリ
ウッド」を歌ったり、「ブラックモアズ・ナイト」で
「レインボー」のセルフカバー「ストリート・オブ・ド
リームス」に参加しました。

今のジョー・リン・ターナーは、リッチー・ブラックモアと
頻繁に連絡を取り合い「レインボー」再結成を熱望してい
ます。

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