日記

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4/25予定・西本願寺境内での一向念仏行について

2023年04月17日 | ブログ
諸々の動向を受けて、4月25日午前10時から予定の拙生の西本願寺境内での一向念仏行は、拙生自身は赴く予定(葬儀が入れば中止)ですが、ご一緒して頂けるとご連絡いただいている4名のお方には、事態を受けて、共の念仏行はお断りを入れさせて頂いた。

一時間半ほど、ただひたすらにお念仏申し上げるのみですが、このままでは何らかの危害が及ぶ恐れがあるため。ご容赦賜りたくに存じます。合掌

新しい「領解文」を考える会
https://www.facebook.com/groups/754460852681528/

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浄土真宗における信心は、阿弥陀如来の往相・還相二種回向の本願への信心であり、二種回向を純粋に頂けたかどうか、心底より疑いのない本願を頂けたかどうか、本願で満ち溢れて余分が一切もないかどうかということが重要になると考えております。

そのように本願へと信心を向けて下さるのが、何よりも阿弥陀如来の方便法身としての「名号」(の真実功徳のはたらき)となるわけです。

もちろん、阿弥陀如来の二種法身、特に方便法身のはたらきは、報身仏、釈尊からも、阿弥陀如来の二種法身からの「名号」を私たちに向けて下さるものとしてもあるわけですが、凡夫では、報身仏との見仏は不可であり、また、釈尊応身による示現は、釈尊入滅以降においては不可であるなど、そのはたらきの示現をめぐる判断は難しいものであり、それ以外でも仏典、付随する論書等においても、方便法身のはたらきの示現として認める範囲を限定しないと、ある意味において、娑婆の森羅万象ことごとくの全てがその示現であるとも言えなくはないのであります。

この点からも、親鸞聖人が、その示現を「名号」(一つに集約させて、と表現するのがよいのかどうかは別検討)として「称名」を正行業とし、「称名」以外を厳しく排されたことは、非常に重要な視座であったのではないだろうかと思うのであります。

そうでなければ、無際限に何でもかんでもを「方便法身のはたらき」としてしまっては、全ての行いは他力となる行いとして認められうるようなモラルハザードを生じさせかねないからであります。

要は、何でもかんでもが「弘願の他力」、「報恩の他力」として認められてしまいかねないということであります。

今日的に問題となっている「新しい領解文」においては、信前、信後を問わずに念仏者の生活のあり方として、自力的な行い、要は、雑善、雑修、雑行となるような行いを敢行推奨することが、認められるのか、どうなのか、というところに本覚思想の問題とは別に疑義を持っているため、それを問うための歌を慶讃法要の初日において掲げさせて頂いた(抗議文ではない)わけですが、この点で、それらを「弘願の他力」、「報恩の他力」として認めうるのかどうかということの返答を頂ければ、一番に有り難いことであると考えており、しかし、「弘願の他力」、「報恩の他力」の範囲は、当然にある程度限定していかないと、結局は何でもありとなりかねない、要は、それらの行いは「名号」、「称名」への入り口だと言えば、無際限に一切の行いをそう捉えることもできなくはないということであります。

つまり、「宿善の他力」ということと同意的に、信心へと向けた一切の行いは他力として、全ての行いをそのようにしてしまうこともできなくはないということになりかねないわけです。

先に少し述べてあるように、何でもかんでもがそのように認められてしまっては、戦時下において、戦争に協力、助長したように、戦争における行為、特に殺人も「弘願の他力」、「報恩の他力」であるからとして認められてしまいかねないということであります。

このような懸念から、門外漢、部外者、身分不相応ながらにも危惧を持っているわけです。

特に今回の「新しい領解文」に基づいた教義の強制的な変更(その制定過程の強引さ)、唱和の強制、法話の強制、伝導の強制・・と、まさにどこか戦時下を思わせるような状態であり、異常なわけであります。

「新しい領解文」への見解を聞かれたことから始まったわけですが、上記のような懸念から、従来の浄土真宗についての考究と併せて色々と述べさせて頂いてきたわけでございます。ご寛恕賜りたくに存じます。

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