日本と世界

世界の中の日本

李氏朝鮮の記録

2020-11-21 18:05:56 | 日記
李斯朝鮮時代の庶民の生活

撮影年代不明 貴族階級の結婚式の様子でしょう。
左上に貴族用の帽子が写っています。左側には瓦屋根が見えます。
背景の扉の紙が破れています。修繕のゆとりが無い様です。
 

撮影年代不明 貴族階級の結婚式
 

撮影年代不明 花嫁を花婿の家に送り届ける行列
 

撮影年代不明 写真はがき 田舎の飯家
左下に土で作ったかまどがある。屋根の代わりに上を草で覆っている。
中央左の女性が調理師で、中央右の帽子を被った男性がお客なのであろう。お客の前には白い食器が並んでいる。
 

撮影年代不明 飯家
 

撮影年代不明 田舎の飯家
他のHPで、Korean Restaurantと紹介している写真であるが、飯家には見えない。検証が必要である
 

1900年撮影 撮影者不明 漢城(ソウル)の食堂
 

撮影年代不明 撮影者不明 食堂
 

1888年 漢城(ソウル) 南大門大通り
南大門大通りに面して建っているのが商店である。
大通りの中央手前に牛が背中に荷物を載せて運んでいる。荷車・人力車・牛車・馬車は見受けられない。
路面電車は1898年、漢城電気会社設立は1898年である。写真撮影時には、電信柱・線路は存在しない。
民家の屋根が連なっているが、門や庭は見受けられない。家庭菜園・花や庭木等の園芸は存在していない。
 

撮影年代不明 A MARKET 朝鮮風俗 市場
店舗を構え営業している商業形態を【廛】(テン)といい、常設の店舗等の特別の施設を有さず,行商人や近辺の農民たちが定期的に集まって商品交換を行う場所【場市】(じょうし)と言った。
李氏朝鮮後期の純祖の時の全国の場市総数は1061ヶ所で、これらは30里ないし40里(朝鮮の1里は392m)の往復1日行程を基準に毎日変えて行って市場が開かれるようになっており、商人が各場市を歩き回って品物を売るのに便利なように作られていた。場市での取引は、主に生産者と消費者との直接的な接触で成り立ったが、負褓商などの行商人も重要な役目を引き受けていた。これらは、その地方の産物以外の商品を樽が無いので重い甕などに商品を入れ、車が無いため背負子で背負って、苦労して各場市を歩き回りながら売り、同業者たちは中世ヨーロッパのギルド的な性格の同業組合を成していた。
 

1903年 仁川の場市
 

撮影年代不明 井戸水を汲み上げ売り歩く男達
両班の家は自前で井戸を持っていたが、
両班以外の者はギルド(職業別組合)の井戸水をお金で買わなければならなかった。
 

撮影年代不明 餅を搗く人たち
背景の建物が立派なので貴族階級の住宅であろう。餅を搗いている人達自身で食べるのではなく、貴族達のイベント・お祝い様に用意しているのであろう。
 

1904年 漢城 「 韓国の女性、メイド、ソウルの街中で、...韓国 」
 

1903年 通りでゲーム(ギャンブル)をする男達
 

1899~1900年に漢城(ソウル)郊外での撮影。
チャンソンと呼ばれるトーテムポールの様な木像と同じで、エベンキ族と朝鮮でだけ見られる。
キリスト教の宣教師によると、異教徒、偶像崇拝、盲目バイ·デビル、迷信韓国人と説明されている。
 

撮影年代不明 チャンソンの参考写真
 

1899~1900年撮影 漢城(ソウル)で豆を挽く男
 

1903年 Herbert G. Ponting撮影 北京へ向かい道 漢城(ソウル)の郊外 
 

1903年 Herbert G. Ponting撮影 釜山
 

1903年 Herbert G. Ponting撮影 漢城(ソウル)の寺子屋
 

1903年 Herbert G. Ponting撮影 ソウル龍山漢江渡し場 
 

1904年 George Rose 撮影 漢城(ソウル)の城壁
 

1903年 Herbert G. Ponting 撮影 済物浦(仁川の旧名)
 

1904年 撮影者不明 漢城(ソウル)の郊外
 

1904年 George Rose 撮影 平壌
 

1904年 アメリカのCollier`s(コリアーズ)の特派員 Robert L Dunn(ロバート・ドン)が150ドルを釜山で両替した李斯朝鮮の膨大な小判の前で撮影 中央男性がRobert L Dunn(ロバート・ドン)である。
日露戦争を取材しに来たアメリカのコリーアース(Collier's)特派員ロバート·ドン(Robert L. Dunn)が驚異的な小判の山の前で大喜びの表情で記念撮影をしました。これらの硬貨は、北に進撃する日本軍を従軍した記者が使用取材経費であった。ダンは、韓国の通貨の価値がどの程度落ちたのか知らなかった。ソウルを離れる準備をしていた日の朝、日本人通訳栗田に150ドルを変えてくるように指示した。夕方を行うまでポーターに消去されてきた小判の山を見て驚きやジャパジル状況だった。「韓国での現金両替」というタイトルの記事は、1米セントの種類に応じて、小判15〜30に匹敵する額であり、1ドルを両替すると、装丁した人が取得して行かなければならない状況だったと説明した。(Collier's Weekly、1904.6.4)
 

撮影年代は、中国人により買収されてからの撮影です
[ 大仏ホテル ] 1888年に、日本の海運業者が仁川に建築した韓国初のホテル
日本人が造っただけに240枚の畳を使用し、ベッドの部屋11室とレストランを備えた3階建ての洋館の建物だったと解説。
当時は交通の便が悪く、ソウルまで行くには仁川で1泊は必要だった頃に建てられた。宿泊客のほとんどは外国人だったため、日本語ではなく英語で宿泊客を出迎えた。
このホテルの部屋の価格は当時、上級2円50銭、中級2円、下級1円50銭だった。旅館の上級部屋価格が1円だったことと比べると高い料金だが、人気があったと記録されているという。
現在、大仏ホテルは残っておらず、京仁線が開通されると経営難に直面し、中国人に買収された。その後、1978年まで中国レストラン「中華楼」となった。 

李方子の生涯に映る日韓友好の真実なぜ日本人妃が朝鮮最後の王に嫁いだのか

2020-11-21 17:41:12 | 日記
 

朝鮮紀行 イザベラ・バード 1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮(朝鮮王朝)を訪れた旅行の記録

2020-11-21 16:09:46 | 日記

1朝鮮紀行

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『朝鮮紀行』
(ちょうせんきこう)
Korea and Her Neighbours
著者 イザベラ・バード
訳者 朴尚得時岡敬子工藤重雄
発行日 イギリスの旗1898年1905年
発行元 日本の旗1925年(抄訳)、1993年1994年1998年2008年2009年
ジャンル 旅行記
イギリスの旗 イギリス
言語 英語
コード ISBN 4-582-80572-8
ISBN 4-582-80573-6
ISBN 4-8099-0724-4
ISBN 4-06-159340-4
ISBN 978-4-8447-0011-1
ISBN 978-4-256-80572-5
ISBN 978-4-256-80573-2
 
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『朝鮮紀行』の中の1ページ

朝鮮紀行』(ちょうせんきこう、Korea and Her Neighbours)はイザベラ・バード1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮朝鮮王朝)を訪れた旅行の記録。当時の朝鮮の風俗、社会、政治情勢などを知ることのできる歴史的資料である。

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目次

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概要[編集]

釜山の印象[編集]

日本探索を終えてから、日本経由で釜山に上陸したバードは、高台にある外国人居留地の周りの杉林が1592年からの文禄・慶長の役の際に日本の豊臣秀吉軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく文禄・慶長の役の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している(「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」[1])。

狭くて汚い通りを形づくっていて、骨組みに土を塗って建てた低い上に窓がなく、屋根はわらぶきで軒が深く、どの壁にも地面から2フィートのところに黒い排煙用の穴があるあばら家の外側にはたいがい不規則な形の溝が掘ってあり、固体および液体のごみがたまっているために釜山は朝鮮の中でもみすぼらしいところなのだろうと思ったが、それらは朝鮮の街で一般的であることを後の体験で知ったと述べている[2]

朝鮮の町並みとソウルの悪臭[編集]

バードは本書の中で、ソウル、条約港、幹線道路の周辺のはげ山は非常に目につき、儒教の影響で国内で見下されている手工業は不振で美術工芸は何もなく、国土の有様に関しても不幸な未来を抱かせると述べている。

朝鮮半島南部の大部分は、墓地理由を除き皆無であったと記している。

1894年の訪問時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している[3]

また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。

道といっても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」、小川というか下水というか水路について、「蓋のない広い水路を暗くよどんだ水が、かつては砂利だった川底に堆積した排泄物やごみの間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく」と記している[4]

1660年~1864年の間に死亡者が多数発生した疫病は79回あるとして、このうち一回で10万人以上が死亡した場合は6回もあったと不衛生さを述べている。

また、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺跡もわずかで、公園もなければ、まれな例外を除けば見るべきイベントも劇場もなく、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心であったため寺院もなく、迷信が影響力をもつため墓地もない、と驚いた。

孔子廟と碑を除くと公認の寺院がひとつもなく、城内に僧侶が入ると死刑に処せられかねないため、清や日本ならどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている[5]

他方、金剛山の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している[6][7]

貨幣通貨の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している[8]

日清戦争後のソウル環境改善の印象[編集]

バードによると、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、

1897年から税関長マクレヴィ・ブラウンの提案のもとに、市内環境改善を行なっており、

「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている!(講談社学術文庫版p545)」

「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きまわりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている(同頁)」と記載し、

改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない(同p546)」と記している。

その結果、ソウルの街並み環境は著しく改善し、バードは、1894年当時そのままの姿の残るスラムを写真に撮ろうとしたが、

「そんな場所はどこにも見つからなかった」と記載する程の改善を見せた(同p546)。

同族統治と他族統治下での朝鮮人の違い[編集]

また、ロシア国境部の沿海州ではロシアの影響により近代化が進んでおり、水路が整備され、衛生にも配慮され、そこに住む朝鮮人の家屋は朝鮮半島のものより立派、彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だっだと記述した上で、「朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた」と朝鮮半島での朝鮮人たちと違う沿海州の朝鮮人でその考えを大いに修正しなければならなくなったことを明かした。

朝鮮中の誰もが貧しさは自分の最良の防衛手段であり、自分とその家族の衣食を賄う以上のものを持てば、貪欲で腐敗した官僚に奪われてしまうことを知っているのだと分析している。

沿海州の朝鮮人の裕福さや品行のよさから「朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる」と朝鮮半島が他国の統治を受ければ半島の人々も沿海州の朝鮮人になることが可能であることとしている[9]

背景には国王が事実上朝鮮政府そのものになっていて、憲法がなく議会も存在しないのである以上、国王の公布した勅令以外に法律はないことにある。

朝鮮半島の朝鮮人が豊かになるためには2つの条件が不可欠であるとして 、

「朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない」、

「(王制を残すなら)国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」と結論づけている[10]

残虐だった刑罰について、日本の影響下に入った後は拷問は廃止されたし、切断された首や胴体をさらしたり、笞打ちや身体のそぎ切りで死にいたらしめるような刑罰も禁止された[11]

農業・畜産業について[編集]

バードによると日本人の細かなところにも目のいく几帳面さや清国人の 手の込んだ倹約ぶりに比べると、朝鮮人の農業は無駄が多くてしまりがないと述べている[12]

朝鮮では牛の喉を切り開いた切り口に栓をしてしおいてから手斧を取り、牛の尻を死ぬまでなぐる。

一時間ほどかかる作業中に、牛は意識を失うまで恐怖と苦痛にあうが、この手法が使われる理由は、わずか少量の出血しか起こらないために血液がそのまま残り、その結果重量が減らないので売る手には得だからである[13]

 

宗教について[編集]

バードによると朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿がない。

家々には神棚がなく、 村祭りには神輿もなければ、偶像を運ぶ行列もなく、婚礼や葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりすることがない。

朝鮮の仏教は日本の大きな仏教改革派の特色である正義を求める崇高な目的や向上心は何も見られないとして、朝鮮の修行僧たちはひどく無学で迷信深く、 自ら信仰している宗教の歴史や教義についてほとんど何も知らなかったと記している。

大半の修行僧から私が受けた印象は、彼らは何の意味もなく宗教的な儀式や作業を行っており、何人かの例外を除いて、信仰を持っていないというものであった。 実際に朝鮮人からも僧たちは放蕩者だと考えられていて見下されていた[14]

両班制度について[編集]

朝鮮には実質階級が盗む側と盗まれる側の2つであり、両班から登用された官僚階級は公認の吸血鬼であり、人口の5分の4をゆうに占める非貴族は文字通り「下の人間」で、吸血鬼に血を提供することがその存在理由となっていた。

宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上ほしいままにしてきた[15]

朝鮮の官僚については、日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していたとし、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかったと述べている。

朝鮮国内は全土が官僚主義に色濃く染まっている。

官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりでなく、政府の機構全体が悪習そのもの、底もないほどの腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう。

職位や賞罰は商品同様に売買され、政府が急速に衰退しても、被支配者を食い物にする権利だけは存続していた[16]