日本と世界

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「シリア難民として 日本に来た僕が、 いま伝えたいこと」

2020-11-06 18:24:06 | 日記

「シリア難民として 日本に来た僕が、 いま伝えたいこと」

本誌ライター髙田が5歳の息子とたまたま参加したサッカースクールの体験授業。

そこで、コーチをしていたのがシリア難民の青年ジャマールさんでした。

彼の話を聞いて見えてきたのは、遠い国の出来事として報道で知るだけだったシリア内戦の実態とそれに翻弄される人たちの姿。

日本と何ら変わりない「普通の大学生」がある日突然、戦争に巻き込まれ難民になること。それは決して他人事とは思えません。

ヤセル・ジャマール・アル・ディーンさん 1992年シリア生まれ。
27歳。シリア内戦のため、ダマスカス大学を中退し家族と来日。難民認定を受ける。現在明治大学国際日本学部在学中。
学業のかたわら、子ども向けのサッカースクールのコーチをしたり、俳優としてテレビなどでも活躍中。婚約中のインザさん(25歳)はドイツ出身。ウィーン大学を経て明治大学に留学し、ジャマールさんと出会う。現在は幼稚園の英会話講師として勤務中。

共働きの両親、妹との平和な暮らしが一変

――大学生活と仕事で日々忙しく過ごすジャマールさん。いつも明るく朗らかで、戦火から逃げまどう「難民」のイメージとはかけはなれています。日本に来るまでのいきさつは?

「内戦が起きる前のシリアは平和な国でした。日本のように治安が良く、夜中に出歩いても問題なかったんです。日本について知っているという人も多く、日本の漫画もとても人気があります。僕も『キャプテン翼』がきっかけでサッカーをはじめたほどです。
シリアの内戦がはじまった頃、僕は英文学を専攻する大学生でした。学生生活のかたわらサッカーのシリアリーグ選手としてもプレーしていました。英国にも留学したかったし、将来、サッカーシリア代表になることも夢見ていたのですが、その生活は内戦で一変してしまいました。」

――ジャマールさんのご家族は?

「両親と今、高3の妹がいます。父親はケーキ作りが得意なパティシエで、母親は国営のテレビ局に勤務する共働き家庭でした。シリアの大学は原則無償で通えるので、アルバイトの必要もなく、気楽な学生生活を送っていました。100平米を超すくらいのマンション暮らしで生活の不安は何もなかったんです。僕が通っていたダマスカス大学は国内最古の大学でアサド大統領の母校でもあります。日本でいえば東大のような立ち位置で日本語学科もありました。」

――シリアから逃げなくてはならないと決断したきっかけは?

「”アラブの春”の後、シリアでも市民が参加するデモが盛んにおこなわれるようになりましたが、当初は危険な兆候はありませんでした。しかし情勢が悪化するに従い、デモに参加した友人が政府に拘束され殺されたり、爆撃を受けたり……親しい人を何人も亡くしました。それでも、我が家はまだ何とか大丈夫という思いがあり、現地にとどまっていました。でもある日、自宅マンションが爆撃されたのです。昼食の準備中にものすごい爆撃音と衝撃があり、外に出てみると、マンションの上層階は跡形もなく吹き飛ばされていました。いよいよ危ないと感じた僕はパニック状態になった母親と妹を連れ、シリアから出国しました。この時点で財産の多くを失うことになりましたが、命には代えられません。エジプトに8カ月間ほど滞在し、日本に渡航するための準備をしました。レバノンに渡り、日本大使館で観光ビザを取得。わずかに残ったお金で日本行きの航空券を買い、来日したのは2013年の秋のことです。約半月後、東京の入国管理局で難民申請を行いました。」

日本で難民認定されるまで

――なぜ日本に来ることを選んだのですか?

「叔父が日本人と結婚していたため、そのつてを頼って来日することができたんです。時間はかかりましたが難民申請も通りました。家族全員が無事日本に来ることができた、という点で僕はとても恵まれていたと思います。それでも、難民として認定されるまで、1年以上かかったので、お金も底をつき借金して生活するしかありませんでした。この時期がいちばんきつかったです。今までろくにアルバイトもしたことがなかったのに、生活費を稼がなくては生きていけなくなりました。日本語も話せないなか、建築現場で日雇いの仕事をしていじめられたり、仕事中にくぎを踏んで、破傷風になったこともあります。数カ月の入院の後、レストランの仕事を見つけましたが、一度シリアに戻った父親に送金する必要もあり、お金が足りません。週に6日、十数時間連続で働く日々が続きました。」

――今では国籍を問わず友人も多いジャマールさん。どうやって日本の生活に馴染んでいったのでしょうか。

「日本語がままならなかった時も、サッカーをやりたかったので地元の体育館に足を運んでいました。英語や片言の日本語でも、”仲間に入れてほしい”ということを伝えると、快くチームに入れてくれる人たちがいたんです。少しずつ会話ができるようになると生活は変わっていきました。日本語能力試験を取得し、留学生として明治大学に合格。奨学金を得て大学に通うことができるようになりました。今ではサッカーのコーチや英会話レッスンの講師、翻訳の仕事もしています。妹は、僕以上に日本語が得意。中学生の頃には英語スピーチコンテストで入賞したこともあります。最近、都内の大学に進学が決まりました。僕たちきょうだいは比較的早く語学を習得したので、日本の生活にとけこむのが早かったのですが、父親は日本語がしゃべれないので、せっかく料理人としての腕があるのに生かせないのが残念です。仕事ができないので日中も家で過ごすしかなく、気持ちがふさいでしまうこともあるようでした。それでも一昨年はクラウドファンディングでお金を集め、父親と期間限定のシリア料理レストランを青山でオープンしました。いつか親子で常設の店舗を作るのが夢です。」

――シリアと日本の生活はどんなところに違いがありますか?

「シリアの職場の雰囲気は日本とは全く違います。仕事中も和気あいあいとしゃべりしながら作業するのが普通だし、職種にもよりますが、朝出社したら、午後2時くらいには仕事を終え帰宅する人も多いんです。来日後、母親はレストランや衣料品チェーンのバックヤードで働いていましたが、言葉も生活文化も違うなか、慣れない仕事をするのは大変でした。母親はただでさえ繊細な性格なのでストレスがたまることも多く、泣いている姿も何度か見ています。かわいそうでした。今は僕の収入も増えたので”フルタイムで働かなくてもいいよ”と言い、徐々に仕事を減らしてもらいました。母はそれで少し気持ちが楽になったようです。」

これからの夢、シリアの未来

――今は、ドイツ人留学生の彼女と婚約し、両親の住まいの近くで同棲中です。

「彼女とは大学で出会いました。もともとは留学生グループの友人同士。僕は生活することで精いっぱいで恋愛どころではないと思っていたのですが、彼女とは、ものの考え方や価値観など深いところで気が合う気がしたんです。ソウルメイトのような関係です。
最近は俳優としてテレビ番組の再現ドラマやCMに出演することも増えました。俳優の仕事もすごく面白いんですよ。僕が『ラスト・サムライ』みたいな風貌で和服を着て箱根を案内する動画はYouTubeで観られるのでぜひチェックしてみてください。それから、プロサッカー選手になる夢もあきらめていません。練習を続け、Jリーグのトライアウトに挑戦するつもりです。」

――日本の読者に伝えたいことはありますか?

「日本でもイスラーム国などによる破壊や殺戮の様子が報道されたと思います。これだけは知っておいてほしいのですが、本来イスラム教の教えでは殺人は絶対悪でいかなる理由があろうとも許されることではありません。彼らのしていることはイスラムの教えにも反しているんです。現在もシリアに残って生活している友人もいます。結婚したり子どもが生まれたというニュースも送られてきます。そこで暮らしている人たちがいるんです。シリアは少しずつ復興しているものの、経済状態は悪いままで仕事もほとんどないので暮らしは楽ではありません。いつかシリアに戻りたいという思いは僕も家族も持っていますが、それがいつになることか……。
日本の今の暮らしは平和なもので、これがずっと続くと思う人も多いでしょう。でも、“永遠に続くものなんてない”ということは伝えたいです。シリア人は高等教育を受けた人が多く、語学さえできれば日本でも仕事をするチャンスが広がるんです。イスラム教では見返りを求めない親切心や奉仕の精神が重要視されます。相手の気持ちになって考えてみてください。もしも難民となり困っている人に出会ったら、日本語を教えてあげるとか、できることをして助けてあげてほしいです。」

 

シリア・アラブ共和国
通称シリア。首都はダマスカス。古代から交通の要衝として栄え、世界遺産も数多い。

【なぜ、シリアは内戦状態に?】
2010年末頃よりはじまる中東の民主化運動「アラブの春」により、チュニジア、エジプト、リビア、イエメンでは政権崩壊。しかし、シリアのアサド政権は倒れず、軍・治安当局は抗議デモを武力弾圧。政府軍と反体制派の対立、イスラーム国などに代表されるイスラム過激派の台頭、これらの組織に対する「テロとの戦い」を名目にした外国の干渉などにより内戦状態が続き、死者は46万人を超えると推計され、総人口の半数以上が国内外に避難。シリア内戦は「今世紀最大の人道危機」といわれる。

 

撮影/須田卓馬 取材・文/髙田翔子 編集/フォレスト・ガンプJr.
協力:エトハインターナショナルサッカースクール レッスンのすべてを英語で行うサッカースクール(幼児・小学生クラス)を運営。アメリカ合衆国カリフォルニア州に本部を持つ、国際スポーツ教育団体Universal Sports Gate認定校。赤坂、目黒、文京、西新宿など拠点は都内約12カ所。ジャマールさん担当クラスなど詳細は要問い合わせ。https://etoha-international.jp/

*VERY2020年2月号「サッカー大好きな普通の大学生だった。ある日、内戦が起きた。 シリア難民として日本に来た僕が、いま伝えたいこと」より。


コロナの死者数は公式発表の80倍か シリア

2020-11-06 18:13:57 | 日記

 シリアには、2011年にアラブ世界に広がった民主化運動「アラブの春」が波及し、政府によるデモの武力弾圧によって始まった内戦がいまも続いている。

10年目に入った内戦によって国土は荒廃し、アサド政権の支配地域も、北西部のトルコ国境と接するイドリブ県にある反体制地域も、ともに医療が崩壊し、新型コロナウイルスが蔓延する最悪の条件をつくっている。

 世界保健機関(WHO)によると、10月22日現在でのコロナ感染の確認陽性者は5224人、死者は257人に過ぎない。これはシリア政府の公式発表だが、国際的には実際の数であるとはみなされていない。

 

シリアの新型コロナウイルス感染状況(2020年10月22日時点) 出典:世界保健機関拡大シリアの新型コロナウイルス感染状況(2020年10月22日時点) 出典:世界保健機関

 

シリア保健相は3月22日、「外国から来た感染者が確認された」と発表した。

しかし、アサド政権は反体制勢力の支配地域を攻撃するために、イラン、イラク、レバノン、アフガニスタンなどから5万人とも言われるシーア派民を入れており、そのすべての国で2月中にコロナ感染が確認されている。

3月11日にパキスタン保健省はシリアからの帰国者にコロナ感染が確認されたと発表していた。

 

シリアでも3月初めにはコロナの感染が広がっているとの見方は出ていたが、保健相はずっと「わが国にコロナ患者はいない」と発表していた。

一方で、3月11日に国境の閉鎖、13日には学校や大学の封鎖を命じるなどコロナ対策を発表し、最初の感染者を発表した22日には県境をまたぐ公共交通機関の運行停止、集会の自粛などの対策を発表した。

政府は感染の実態を意図的に隠し、過小評価している様子が推測される。

シリア政府の対応について欧米の専門家が挙げるのは、

①十分な検査キットがなく、医療的な対応ができない、

②コロナ感染で国民の間に恐怖が広がることを恐れた――という2つの要因である。

WHOの資料によると、2019年末の段階で、113の公共病院のうち十分に機能しているのは半数で、残りの4分の1は、医療スタッフや機器の不足、建物の損壊で一部の機能にとどまり、残る4分の1は全く機能してない。

内戦で難民となって国外に出た医師や看護婦もいて、70%が出たという報道もある。

コロナ患者が増えても医療機関が対応できないという現実と、コロナ感染を公衆衛生の問題ではなく治安の問題ととらえる中東諸国がもつ強権体制独特の感覚を読み取ることができる。

コロナの死者数は公式発表の80倍か

 




シリア北西部イドリブ県で消毒作業にあたるシリア民間防衛隊のメンバー=シリア民間防衛隊提供 2020年3月27日


拡大シリア北西部イドリブ県で消毒作業にあたるシリア民間防衛隊のメンバー=2020年3月27日、シリア民間防衛隊提供

 

シリアでの実際のコロナ感染の状況を推測しようとする動きはいくつかある。

英国のインペリアル・カレッジ・ロンドンのMRC感染症分析センターが9月15日に発表した「ダマスカスでのコロナ蔓延」とされる報告書はその一つ。

人口239万のダマスカスのコロナによる死者を、政府のコロナ感染数の公式発表の推移、超過死亡の推移、病院のベッド数など様々な要因を総合して算出している。

報告書ではコロナ感染による死者は、政府の公式発表の80倍という推計を出し、9月2日までの死者は、ダマスカスだけで最低でも3250人、最大で5540人として、中央値4340人という数字を算出している。

また、ダマスカスの感染者数は約6万7000人と推計している。

シリアの人口の7分の1強を占めるダマスカスだけで死者が4000人を超えるという推計を単純計算すれば、全国で3万人前後の死者となり、中東でも最悪のレベルとなる。

ダマスカス以外の周辺地域は、内戦で反体制勢力に支配されたり、激しい戦闘によって政権軍に奪還されたりした地域も多く、病院など医療施設は破壊されている。

現在、シリア全土で660万人が家を追われて避難民となり、狭いアパートに複数の家族が暮らしたり、廃墟のようなビルに住んだりする家族もいる。シリア全体のコロナ感染の死者はダマスカスの推計よりもさらに多い可能性もある。

 

今村均とジャワ軍政~陸軍内部の批判に応じなかった「真の軍人」

2020-11-06 17:32:58 | 日記

今村均とジャワ軍政~陸軍内部の批判に応じなかった「真の軍人」

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保阪正康(ノンフィクション作家)

保阪正康(ノンフィクション作家)
写真:晩年、自宅の謹慎所の今村均

近年、企業や団体に問題が生じ、トップの責任が問われる機会が増えている。

そうしたときの姿勢のあり方として、今こそ見直したいのが、日本陸軍の名将・今村均である。

今村は、オランダ領インドネシア・ジャワの占領地統治(軍政)において、「やり方が生ぬるい」という陸軍内部の批判に応じることなく、あくまで筋を通した。

その姿勢から、リーダーのあるべき姿を探る。

※本稿は、歴史街道編集部編『太平洋戦争の名将たち』より、一部を抜粋編集したものです。

 

「異例」と評せる経歴

軍人には、二つの顔がある。

陸軍省や参謀本部で働く「軍官僚」と、戦場に立って戦う司令官などの「現場の責任者」だ。

この二つをこなした人が、本当の意味での「軍人」である。どちらか一つだけに秀でた者は「軍官僚」、あるいは「現場責任者」と捉えるべきだろう。

たとえば、東條英機は関東軍参謀長を務めたが、現場で戦ったことがほとんどなく、典型的な軍官僚である。

では、今村均はどうか。両方をこなしたから、「軍人」と呼んでいい。

ただし、彼は日本陸軍のメインストリートを歩んだ人ではなかった。

そもそも今村は、新潟県の新発田中学校を卒業後、第一高等学校へ進もうとしていて、軍人を志望していなかった。

一高を出たら、東京帝国大学に入り、知識人、あるいは官僚になるコースを歩もうとしていたと思われる。

しかし、父が急逝したことで、高等学校に進学するだけの余裕がなくなった。

そこで、学費のかからない陸軍士官学校を選び、明治38年(1905)、その19期生として入学したのだ。

ちなみに、陸軍士官学校の19期は「異例」と評することのできる特徴がある。

全員が一般中学出身者であり、陸軍幼年学校からの入学者が一人もいなかったことだ。

これは日露戦争で将校が足りなくなると気づいた日本が、陸軍士官学校の門戸を広げたためである。

期によって比率は異なるが、幼年学校から300人くらい、一般中学から50人くらいが士官学校に入るのが普通である。

陸軍の主流は幼年学校組であり、「幼年学校」、「ドイツ語」(幼年学校はドイツの軍学が重視されたからだ)、「陸軍大学校」が出世の条件だった。

一般中学出身者は、多くが英語を学んでいて、ドイツ語ができないから、二つの条件が欠けることになる。

一般中学出身者だけの19期生は、おしなべて出世が遅かった。

一般中学で培われた特色

今村均を考えるうえで、幼年学校ではなく、一般中学の出身だったことは重要である。

一般中学出身者と幼年学校組は、どこが違うのか。

一般の中学校も幼年学校もだいたい13歳で入学するが、中学では5年の学業期間に政治、経済も学んで幅広い知識を得るし、小説などの本を読んで基礎教養を身につける。

一方、幼年学校で勉強するのはもっぱら軍事である。極端な言い方をすれば、軍事しか知らない人間が育つのだ。

もちろん、幼年学校出身者のすべてにそれが当てはまるというわけではなく、バランスの取れた人物もいたことだろう。

しかし、一般中学出身者のほうが、人間的なふくらみがあるというのは、総じて妥当な見方だと思う。

今村の陸軍士官学校の同期である本間雅晴や、後輩ではあるが、硫黄島で指揮を執った栗林忠道も一般中学出身者である。

一般中学出身である今村の特色が顕著にあらわれたのは、第十六軍司令官として行なったオランダ領インドネシア・ジャワの占領地統治(軍政)だろう。

「軍政」というと、強圧的なものというイメージが強いが、今村の場合は「現地の人の生活を守る」を前提とした行政である。

今村はジャワの人たちの意見をよく聞き、彼らの生活ルールを尊重した。

また、有無をいわせずに資源を徴発する他の軍人とは異なり、適正な価格で購入するという形を取った。

「日本にもっと資源を送れ」という要求があ っても、今村は、「現地の人の生活が崩れてしまう」という理由で反対し、大本営を説得している。

それから、スカルノ、ハッタといった、オランダに抵抗した独立運動の指導者を牢屋から出したり、インドネシア独立の歌を歌うことを許したりもしている。

その地の歴史、民族の誇りをおろそかに扱うことはなかったのだ。

このような今村の方針に、「やり方が生ぬるい」という批判が陸軍内部で出た。

軍務局長の武藤章が今村を訪ねてきて、日本軍の威厳を高めるよう求めたことがある。

このとき今村は、陸軍の「占領地統治要綱」にある「公正な威徳で民衆を悦服させ」を引き合いに出して反論し、「職を免ぜられない限り、方針は変えない」といって応じなかった。

 ジャワにおける今村の占領地統治は、ある種の歴史的正当性を持っていると思うし、それは一般中学で学んだことと、彼の人格が調和した結果だと言えるだろう。

ラバウルでの指揮から見える能力

今村均は現場でどう戦ったか。

昭和17年(1942)11月から終戦まで続いたラバウルにおける指揮を見れば、有能な司令官だったことは明らかである。

第八方面軍司令官に補された今村がラバウルで採った方針の一つは、兵士を無駄死にさせないということだ。

日本の戦争で問題なのは、兵站の軽視である。典型的な例はガダルカナル島の防衛戦だろう。

武器弾薬はもとより、食料さえも不足し、敵と戦う前に、餓えと戦う羽目に陥っている。

今村はラバウル防衛のために要塞化を進めただけでなく、兵士に畑をつくらせ、食料の自給体制を構築した。

今村自身も畑を耕したといわれるが、そのおかげで、補給を断たれてラバウルが孤立しても、餓死者を出すことなく頑強に守り抜くことができた。

「兵士を無駄に死なせてはいけない」
「兵站をきちんとしなければいけない」

当たり前のことを、今村は戦場で実行したのである。


「真の武士」とは 勘定奉行の小栗上野介忠順

2020-11-06 17:30:39 | 日記

2015年09月28日 公開

歴史街道編集部

小栗上野介

「真の武士」とは

「幕府の運命もなかなか難しい。費用をかけて造船所を作っても、完成した頃に幕府がどうなっているかわからない」。そんな言葉が小栗に向けられました。

元治元年(1864)、勘定奉行の小栗上野介忠順は、幕府の財政が逼迫していることを承知の上で、あえて製鉄所(造船所)建設を幕閣に提唱します。製鉄所建設は、日本が近代化に向けて必要な工業力の源になると考えたからでした。しかし、「幕府の屋台骨が揺らいでいる時に、将来への投資などできるか」といわんばかりの反応が返ってきました。これに対し、小栗は言います。

「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命には限りがない。私は幕臣である以上、幕府の為に尽くすべき身分だが、それも結局は日本の為である。幕府のしたことが長く日本の為となり、徳川の仕事のおかげだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売家にしても土蔵付き売据えの方がよい」

小栗の先祖は家康以来、代々徳川家に仕える譜代の家臣ですが、その小栗家の当主が、幕府のためよりも、日本のためになるか否かを最優先事項として考えていたのです。

そして小栗の提案は承認され、フランスの協力を得て慶応元年(1865)より建設が始まったのが、蒸気機関を動力とする横須賀製鉄所(造船所)でした。小栗の読み通り、この製鉄所から日本の近代化は始まることになるのです。

免職となった上野介は、彰義隊や会津藩への協力を誘われますが、「新しい政府に内紛が起こり、国内が混乱し外国に乗じられるようなら自分の役目もあろう。その心配もなく過ごせるならば、前政府の頑固な一人として静かに世を過ごすつもり」と言って断りました。

小栗にすればおそらく、「国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」は、実践したということなのでしょう。やるべきことをやり、その結果、主君に疎まれたのならば、もはやこれまで。後は領地の上野国権田村に退いて、静観するのみ。

生まれ育った江戸を離れ、小栗とその家族・家臣が権田村(現在の倉渕村)の東善寺に入ったのは3月1日のことでした。小栗は村の若者たちを教育して、新時代に役立てたいと考えていました。しかし、到着早々、不穏な状況となります。

小栗が所有する莫大な財産を奪おうと、博徒らがたきつけて近在の村の者を集め、その数が1000人近くに達しました。もちろん小栗にめぼしい財産などなく、おそらく小栗の権田村退去を軍事作戦の一環と疑った新政府軍の何者かが、背後にいた可能性が高いでしょう。

それだけ、新政府軍にとって小栗は、怖ろしい存在でした。しかし、小栗らは家臣全員で僅か20人。そこへ暴徒と化した1000人が、襲いかかってきたのです。

小栗は村の若者たちの応援を得たうえで、フランス式調練を受けさせていた家臣らに鉄砲で先制攻撃をさせます。正確な射撃で暴徒らが次々と撃たれると、彼らはクモの子を散らすように逃げ去りました。窮地を免れた小栗らでしたが、これが新政府軍の口実となります。

その後、小栗らは自分たちが暮らす屋敷を建て始め、年老いた母や身重の妻らも、少しずつ山村の生活に慣れていきました。しかし屋敷の建て前も間近という閏4月1日、突如、高崎、安中、吉井三藩の使者が小栗を訪れ、新政府軍の回文を見せます。

そこには東山道総督府の名で、三藩の藩主に、小栗が陣屋や砲台を築いて容易ならぬ企てを抱いているので、その追捕、手に余る場合は討ち取るべしという命令が記されていました。小栗は使者に身の潔白を訴え、養子の又一に高崎藩主に説明させることにします。

しかし、又一は高崎で捕らわれの身となり、5日、小栗は東善寺を囲んだ東山道総督府指揮の三藩の兵に有無をいわさず捕縛されました。

そして翌6日朝、小栗は家臣3名と共に取調べもないまま水沼の烏川河原に引き出され、「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめしものなり」という無実の罪を着せられて、斬首されたのです。享年42。

3人の家臣も、また高崎で捕らわれた又一と家臣も処刑されました。小栗はもとより、彼らには何の罪もありません。罪人として首を打たれる時、果たして小栗はどんな心境であったのか、小栗本人にしか知る由はありませんが、たまらない気持ちになります。

明治38年(1905)の日本海海戦で勝利した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、自宅に小栗の子孫を招き、「日本海軍が勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ」と言って、感謝したといいます。小栗へのせめてものはなむけかもしれません。

一方で小栗は、次のような言葉も発しています。

「病〈やまい〉の癒〈い〉ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為〈しょい〉にあらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌〈おうしょう〉するこそ、真の武士なれ」

親の病気が、もう治る見込みがないからといって、薬を与えないのは親孝行ではない。たとえ国が滅びても、この身が倒れるまで公事に尽くすのが、真の武士である。この場合、親というのは、肉親のことではなく、徳川幕府を指しています。

今の日本に必要なのは近代化であり、幕府が倒れるか否かが問題なのではない。しかし、一方で自分は幕臣である以上、無節操に幕府を見限ることはできない。幕府が幕を下ろす最後の時まで、最善を尽くすのが真の武士ではないか…。小栗上野介忠順とは、そんな男でした。

慶応3年(1867)、最後の将軍・徳川慶喜は、京都で大政奉還を行ない、自ら幕府政治の幕を引きました。これに対し、薩摩藩を中心とする討幕派は、御所を固めて「王政復古の大号令」を決行。クーデターでした。さらに新政権には慶喜を参画させず、辞官納地を要求します。

陰謀の中で新政権を誕生させ、さらに挑発する薩摩に旧幕府側は激怒し、戦端を開いたのが翌慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いでした。ところが薩摩・長州らの新政府軍が、偽造した「錦の御旗」を掲げると、前将軍慶喜は腰がくだけ、将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰ってしまいます。これで慶喜以下、旧幕府側は賊軍の汚名を着せられました。

事の成り行きを江戸で知らされた小栗は、はらわたの煮え返る思いであったでしょう。「幕府政治ではもはや立ち行かないことは、我々幕臣も承知している。だからこそ上様は大政を奉還申し上げ、近代化にふさわしい政体を求めようとされた。それを薩長の者たちは、上様を締め出し、戦いへと誘い込んだあげく、旧幕府側を朝敵呼ばわりするに至った。こんな姑息な手を用いる者たちに、日本の近代化など託せようか」。そんな心境であったはずです。

慶喜の江戸城帰還後に行なわれた1月12日の評定で、小栗は徹底抗戦を主張しました。「このまま、旧幕府側が賊徒とされ、260年間の治世も否定されたあげく、黙って新政府軍に討たれるなど、全く筋目の通らぬ話。武士の心も踏みにじる汚い者たちに、近代国家の何たるかなどわかるまい。無理は押して通せぬことを、我らが知らしむべきであろう」。そんな思いから、次のような作戦を披露するのです。

「新政府軍が箱根の関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、分断。箱根の敵軍を孤立させて殲滅する」

実際、この話を後に聞いた新政府軍の指揮官・大村益次郎は、「もし、その策が実行に移されていたら、今頃、我々の首は胴から離れていただろう」と戦慄したといいます。

しかし、前将軍慶喜は首を縦に振ることはなく、そそくさと評定の場を立ち去ろうとします。小栗は慶喜の袴のすそをつかみ、「上様、お待ちくだされ。ご決断を」と訴えると、「無礼者」と慶喜は小栗の手を払い、奥へ消えました。ほどなく小栗は御役御免となります。

免職となった上野介は、彰義隊や会津藩への協力を誘われますが、「新しい政府に内紛が起こり、国内が混乱し外国に乗じられるようなら自分の役目もあろう。その心配もなく過ごせるならば、前政府の頑固な一人として静かに世を過ごすつもり」と言って断りました。

小栗にすればおそらく、「国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌するこそ、真の武士なれ」は、実践したということなのでしょう。やるべきことをやり、その結果、主君に疎まれたのならば、もはやこれまで。後は領地の上野国権田村に退いて、静観するのみ。

生まれ育った江戸を離れ、小栗とその家族・家臣が権田村(現在の倉渕村)の東善寺に入ったのは3月1日のことでした。小栗は村の若者たちを教育して、新時代に役立てたいと考えていました。しかし、到着早々、不穏な状況となります。

小栗が所有する莫大な財産を奪おうと、博徒らがたきつけて近在の村の者を集め、その数が1000人近くに達しました。もちろん小栗にめぼしい財産などなく、おそらく小栗の権田村退去を軍事作戦の一環と疑った新政府軍の何者かが、背後にいた可能性が高いでしょう。

それだけ、新政府軍にとって小栗は、怖ろしい存在でした。しかし、小栗らは家臣全員で僅か20人。そこへ暴徒と化した1000人が、襲いかかってきたのです。

小栗は村の若者たちの応援を得たうえで、フランス式調練を受けさせていた家臣らに鉄砲で先制攻撃をさせます。正確な射撃で暴徒らが次々と撃たれると、彼らはクモの子を散らすように逃げ去りました。窮地を免れた小栗らでしたが、これが新政府軍の口実となります。

その後、小栗らは自分たちが暮らす屋敷を建て始め、年老いた母や身重の妻らも、少しずつ山村の生活に慣れていきました。しかし屋敷の建て前も間近という閏4月1日、突如、高崎、安中、吉井三藩の使者が小栗を訪れ、新政府軍の回文を見せます。

そこには東山道総督府の名で、三藩の藩主に、小栗が陣屋や砲台を築いて容易ならぬ企てを抱いているので、その追捕、手に余る場合は討ち取るべしという命令が記されていました。小栗は使者に身の潔白を訴え、養子の又一に高崎藩主に説明させることにします。

しかし、又一は高崎で捕らわれの身となり、5日、小栗は東善寺を囲んだ東山道総督府指揮の三藩の兵に有無をいわさず捕縛されました。

そして翌6日朝、小栗は家臣3名と共に取調べもないまま水沼の烏川河原に引き出され、「小栗上野介 右の者朝廷に対してたてまつり大逆企て候明白につき 天誅をこうむらしめしものなり」という無実の罪を着せられて、斬首されたのです。享年42。

3人の家臣も、また高崎で捕らわれた又一と家臣も処刑されました。小栗はもとより、彼らには何の罪もありません。罪人として首を打たれる時、果たして小栗はどんな心境であったのか、小栗本人にしか知る由はありませんが、たまらない気持ちになります。

明治38年(1905)の日本海海戦で勝利した連合艦隊司令長官東郷平八郎は、自宅に小栗の子孫を招き、「日本海軍が勝利できたのは、小栗さんが横須賀造船所を建設してくれていたおかげ」と言って、感謝したといいます。小栗へのせめてものはなむけかもしれません。


勝海舟のみた川路

2020-11-06 16:54:34 | 日記

1 勝海舟のみた川路

 「……川路は取りたてものだから、どうも人が悪くてね、こすく(狡い)てね」
 これは、勝海舟の川路聖謨評だ。
 川路が生涯の親友として交際した人物に、佐久間象山と藤田東湖がいる。
 象山は勝の妹順子の亭主であり、「海舟」という号は、象山が書斎にかかげていた扁額の「海舟書屋」から採った。
 が、この義弟に対して勝はこう評する。
 「佐久間象山はもの知りだったよ。しかし、どうもほらふきでね。あんな男を実際の局に当らせたらどうだろうか……」
 川路は、自分が外国奉行を去るときに、後任は誰がいいかときかれて、
 「佐久間象山殿を推せんいたします」
 と答えた。
 きいた方は、「ふざけるな」と、一笑に付した。が、川路は本気だった。
 もうひとりの親友藤田東湖についても勝はこういう。
 「藤田東湖は、おれは大きらいだ。……
 書生を多勢集めてさわぎまくるとは、実にけしからぬ男だ……」
 こうなると、日本の古諺(こげん)である“類は友を呼ぶ”や、ヨーロッパの古諺“同じ色の羽の鳥は同じ所に集まる”というのは、事実になる。
 つまり川路聖謨と勝海舟とでは、生き方がまったくちがうのである。
 その差は、新政府軍に江戸城を攻撃された時に決定的になる。
 書くまでもなく、勝は西郷との腹芸で江戸を無血開城(降服)してしまうし、川路はその報をききながら、病躯をおしてピストル自殺をとげる。
 ピストルによる自殺者として、、日本の第一号だ。
 “こすい”といえば、勝は、元治元年(一八六四)九月十一日、西郷吉之助に幕府の最高機密をもらし、「早く幕府を倒して、共和政府をつくりなさい」と煽動している。
 いまでいう“秘密漏洩”と“内部告発”のふたつの罪を敢えて犯している。


佐久間象山

藤田東湖

 すぐれた人間同士のプラス要因は、どうしても衝突せずにはいられないらしい。
 いずれにしても、長く生きのこった奴が得をするので、「自分のことは語らない」といいながら、実際には、あれほど多くのことを語りすぎるぐらい語った勝海舟(注)のことだから、このへんは川路にとっては不利である。
『氷川清話』『海舟座談』等

 そういえば、仲のよかった川路・藤田・佐久間の三人は、それぞれ変死している。
 (川路は自殺、藤田は地震で圧死、佐久間は暗殺)。
 そして、勝も川路も、ともに幕末の開明派老中阿部正弘によって登用された低身分者である。
 勝は川路のことを、“取りたてもの”だというが、勝自身がしがない御家人から、“取りたてられ”て、最後は陸軍総裁という異常な出世をとげた男だ。
 “こすさ(狡さ)”にかけては、勝も川路にヒケはとらない。
 それに、川路には勝にないものがあった。それはユーモア精神である。
 勝にユーモア精神がまったくなかったとはいわないが、勝のユーモアはどこか冷笑的でおる。
 が、川路のそれは向日性のものだ。
 それが通訳を通してしか会話できないロシア人に、何度も腹を抱えさせ、哄笑させた。
 この笑いが、徳川幕府の対ソ交渉をみごとに成功させた。
 しかも、ロシア人たちが感じたのは、ユーモアの底にみなぎる川路の誠実さであった。

2 誠実さとユーモア精神 top

 川路聖謨が生まれたのは豊後(大分県)日田である。ここに幕府の代官所があった。
 かなり広域にわたっての支配力を持つ代官所だ。父はこの代官所の下級役人で、名は内藤吉兵衛、母も代官所役人の娘だった。
 生まれたのは代官所内の官舎である。
 やがて父は江戸に出た。地方役人がそんな異動ができたのはふしぎだが、父は相当に金を溜めていた。
 そして、“何とかして息子をりっぱな武士に出世させたい”という悲願を持っていた。
 金で直参の株を買おうと物色していた。
 株を買うといっても、別に、直参の株が市場に売り出されているわけではない。そんなことはできない。
 よく、御家人の株を買ったなどというのは、持参金を持ってその家の養子になる、ということである。
 養子になるといっても、その家に娘がいるとはかぎらない。
 娘がいなくてもいいのだ。夫婦養子(もらい子)というのがゆるされる。川路聖謨はこの口だ。
 四歳の時で母に連れられて江戸に出た。十二歳の時、小督請組の川路三右衛門の養子の口を父が買った。
 聖謨は内藤姓を捨て、川路姓になった。
 十三歳の時、家督を継いだ。元服もした。剣術に熱中し、やがて免許皆伝になる。
 翌年、実弟松吉がやはり幕府直参の井上家の養子に入り、のちの下田奉行、軍艦奉行、江戸町奉行になる。
 慶応三年(一八六七)に兄に先立って死ぬが、出来のいい兄弟だったことはまちがいない。
 十七歳の時に幕府の学問吟味・筆算吟味の両方に優秀な成績で合格する。経済面に強かった。
 翌年、支配勘定出没に登用された。以後、順調に出世する。
 そして三十五歳の時、寺社奉行脇坂安董(やすとど:播州竜野藩主)と組んで、いわゆる“仙石騒動”を裁断した。
 幕府実力者の容喙(ようかい)をはねとばした“反権力の姿勢”が、硬骨漢としてのかれの名を高めた。
 老中大久保忠真が注目した。しかし、このころ、妻を離縁、またちがう女と結婚、すぐ離婚と家庭内は不幸だった。
 忙しい仕事と家庭とは両立しなかったのだろうか。
 火災で焼けた西丸普請のための用材を木曽に買いに行ったりもした。
 天保十一年(一八四〇)、佐渡奉行になった。
 このとき「奉行所の机の前に坐っていて、民情がわかるか」といって、島内をくまなく歩きまわった。
 が、ウメボシひとつの日の丸弁当を持って歩き、村村にごちそうを要求するなどということは絶対にしなかった。
 名奉行の名があがった。
 しかし、渡辺崋山との仲を、目付の鳥居耀蔵(ようぞう)にしつこく訊ねられる。切り抜けた。
 天保十二年、四十一歳。小普請奉行になり、奉行所内の業者との癒着を改革した。
 このころは小野忠邦の天保の改革前夜なので、大いにほめられた。
 弘化二年(一八四五)、前に書いた阿部正弘(備後福山藩主)が老中に就任した。
 が、両者の出会いはまだなく、川路は奈良奉行に転出した。
 ここで、かれは悪僧・悪商人・悪役人・悪旅館主・悪賭博師の五悪人をこらしめ、農民を救った。
 そこで、「五泣百笑のお奉行さま(五悪人は泣き、百姓はよろこんで笑う)」といわれた。公正さはかれの身上であり、どこへ行ってもそれを貰いた。
 また、地域内の天皇陵の修復に力を注いだので、「勤王奉行」の名もたかめた。
 このことは京都の天皇や公家の間でも評判になり、幕吏にしては珍しい男だと好感をもたれた。
 このときの知己を頼って、のちにかれは、『条約勅許」の使者に加えられるが、失敗する。
 知己があったことが裏目に出たからだ。
 このころ、こんなユーモラスな話がある。
 ある日、奉行所から戻ると、かれはいきなり、三度目だか、四度目だかの妻の前に手をついた。
 そして、「ありがたや」 といった。
 「どうしたんですか?」と妻がきくと、
 「今日、ユズでつくったチン(犬)に目鼻をつけたような醜女のために、男が二人傷害事件を起ごした。
 人間とはつくづく面白いものだと思った。
 いままでおまえを、まんじゅうの干ものだの、オカチメンコだなどといってまことに申し訳ない。
 これからはもう少し大事にする」といった。
 そばにいた者がみんな哄笑したという。
 たしかに川路も異常な出世をした男だから、人間通であり、処世術に長けた面もあっただろう。
 勝のいう“こすい”面もあったはずである。
 が、そのこすさの底に他人への愛情とか、純粋な魂がなければ、ただ処世術だけで人間は出世できるものではない。
 他人の眼、特に上役の眼はフシ穴ではない。
 特に千軍万馬の外国の特命全権大使を煙にまき、結果として、双方大満足の合意に達することなどできない。

3 “ぶらかし”の対露交渉 top

 川路聖謨の生涯のハイライトは、日露交渉である。
 日本に開国を迫るロシアとの交渉だ。このころ(嘉永六=一八五三年末から安政元=一八五四年にかけて)、幕府はペリーを相手とする対アメリカ交渉と、プチャーチンを相手とする対ロシア交渉で頭を悩ませていた。
 幕府の外交官僚もアメリカ班とロシア班の二派に分かれていた。
 が、幕府のエネルギーの大半は対アメリカのほうに注がれていた。
 というのは、当時の幕法では、外国との交渉はすべて長崎でおこなう、ときめられており、ペリーにも、「長崎に行ってくれ」といったが、ペリーはきく耳をもたず、浦賀から江戸湾に侵入したのである。
 たった四杯といわれながらも、無気味なこの“海の城”は動かなかった。大砲の筒先をピタリと江戸に向けていた。
 これに対し、ロシアのほうはおとなしく長崎に回航した。
 いまのロシアとちがい、帝制下の国であり、大使のプチャーチンは、皇帝の侍従武官長で貴族であり紳士だった。
 それに政府から、日本人の慣習を無視して、ゴリ押しをしてはならないという厳命をうけていた。
 一方のペリーはアメリカ東インド艦隊司令長官で、東南アジア滞留の経験から、「後進国はおどかすにかぎる」と、はじめからゴリ押しをする気だった。だから、長崎へまわれという幕府のいうことなど、せせら笑ってきかなかった。
 さて、人生一般でも同じだが、社会では大体“紳士”よりも“無頼”が勝つ。ナリフリかまう紳士よりも、ナリフリかまわない強引な無頼のほうが、自分のしたいことをを実現する。


プチャーチンロシア大使

 同時に対応する側も、こっちのほうにエネルギーを注ぐ。何でもそうだ。さわぐほうが強い。
 アメリカ班は、無頼のペリーにふりまわされた。そして、「大変だ、大変だ」とさわいだ。
 幕府内部の関心も全部アメリカ側にかたよった。
 これは、現物が目の前の江戸湾にデンと坐っているのだから、どうしてもそうなる。
 そこへいくと、一方のロシアはおとなしい。
 「長崎へ行ってくれ」といえば、素直に長崎に航行する。
 長崎は遠い。江戸の人間には危機感も遠くなる。実感が湧かない。
 おとなしいロシアはこの点でも割りをくった。
 対アメリカには総力をあげて当たったが、ロシアのほうは川路と筒井改憲(まさのり)という老人に任された。
 筒井は、「世の中は何でもゴネだほうが得ですな?」と旅の途次で川路に言って笑った。
 対ロシア交渉は十二月十八日からはじまった。江戸を発つ前、川路と筒井は老中に聞いた。
 「どこまで権限をお与え下さいますか?たとえば開国条約を結ぶ承認をしてもよろしゆうございますか?」
 老中は、
 「それは絶対にだめだ」
 といった。川路は、
 「それではどうするのですか?」
 とさらにきいた。老中は、
 「のらりくらりと煙にまいて追い返せ」
 と答えた。
 「ははあ、ぶらかしですな?」
 「ぶらかし?」
 「はい。言質を与えずに、たぶらかせ、ということですな?」
 「そうだ、ぶらかせ」
 「むずかしいお役目です」
 「だからこそ、おまえを抜擢したのだ」
 出かけるとき、川路は老中に釘をさした。
 「もちろん、アメリカのほうもぶらかしでございましょうな? そうでないとロシアをだますことになります」
 「大丈夫だ。アメリカにも何ら約束はしない」
 が、これはうそになる。
 筒井と川路は、“おとぼけ名コンビ”だった。
 長崎で、筒井はおよそ意味のないことをダラダラとしゃべりつづけたし、川路はその合間合間に鋭いジョークをとばした。
 プチャーチンには、ロシアの作家ゴンチャロフが従っていたが、かれは川路を、
 「頭の鋭い、ユーモアのセンスのある、しかも大変誠実な人物だ」
と評している。
 のらりくらりと交渉は埓があかない。プチャーチンたちはサジを投げた。そしてついに、
 「日本はどこの国とも開国条約を結びませんね?」
 と念を押した。
 「結びません」
 「もし、どこかの国と条約を結んだ時は、ロシアともすぐ同じ内容の条約を結ぶこと、もちろん最恵国待遇の扱いをすること、このふたつを約束して下さい」
 「そんな約束はできません。なぜなら、わが国はどこの国とも条約を結びませんから」
  プチャーチンは呆れて苦笑した。そして、
 「カワジさん、あなたには負けた。まあ、今回は黙って帰りましょう」
と、何の得るところもなく出港した。
 「ああ、骨が折れた」
と、筒井は笑った。大成功である。
 が、江戸に戻ってくると、アメリカ班は陥落していた。
 ペリーの恫喝に屈して開国条約を結んでしまっていた。これには川路は怒った。
 「紳士的なロシアをだましたことになる」
  しかし、仕方がない。
  結局、その後、下田でもう一度プチャーチンと会い、こんどは条約を結ぶ。
 このとき、大風が吹いてロシア艦が大破し、川路はその修理に実に温かい誠意を示した。
 プチャーチンは感動し、
 “エトロフ島の日本帰属を認める。カラフト(サハリン)には国境を設けず、いままでどおり日露共有とする”
という大譲歩をした。
 このときの川路は、もう、ぷらかしでなく、誠実一辺倒だった。
 プチャーチンは、「いろいろな国をまわったか、これほど親切にされたことはない」と感謝した。
 が、このときの修理で、川路は船大工たちに、ロシア艦の構造を調べさせ、造船技術を盗ませていた。
 ただ修理したわけではなかった。
 しかし、このころが川路にとっては人生の頂上で、以後はまっしぐらに坂を降っていく。

4 井伊直弼にきらわれる top

 阿部正弘は開明派で民主的な老中だった。いままで禁じていた外様大名にも幕政参加をさせた。
 その最大の参加者は薩摩藩主の島津斉彬である。
 考えようによっては、阿部の“ひらかれた幕府とその政治”が、幕府の倒壊をはやめたといっていい。
 そのころ、国難に対応できる次期トップ(将軍)の選任についてもめていた。
 阿部や島津その他の有力者大名は、一橋慶喜を推していた。
 しかし、この運動が実りないうちに、阿部は死んでしまった。
 このころから、再び天皇や朝廷の権威ということがいわれはじめ、開国条約を勅許(天皇の承認)なしで結んだのはおかしい、と幕府を糾弾する世論が起こった。
 そこで幕府は老中堀田正睦(まさよし)に、川路や岩順忠震らの外交官僚をつけて、勅許を得るために京都に派遣した。
 が、京都では、
「つぎの将軍を誰にするのか?」
 という問題と、この勅許問題かからみ、公家どもは、条約より将軍人事に介入することに熱中した。堀田たちもこの争いにまきこまれた。


川路聖謨

 そして、岩瀬は一橋派の橋本左内と共鳴し、公然と「慶喜擁立」運動に加わった。
 このときの川路は煮えきらない。
 というのは、「自分の主人を部下が選んでいいのか?」という素朴な疑問を持っていたからである。
 この不透明な態度は、一橋派からも、反対派からもにらまれることになる。
 反対派というのは大老井伊直弼のグループである。しかし実際には、川路は一橋派である。
 外交官僚はすべてそうだった。
 そしてこのときに、奈良代官時代の勤皇心披露で知遇を得た宮家や公家にいろいろ運動したのだが、それが、「堀田と川路は、莫大な賄賂をばらまいて、公家に工作している」と伝えられ、これがはなはだしく川路の評判を落とした。
 もうひとりの岩瀬は、「幕臣でありながら、憂国の情が至純で、態度がはっきりしている」と、一橋派に激賞された。
 川路はこのとき、すでに五十八歳で、岩瀬は四十一歳である。橋本左内はまだ二十余歳の青年だ。
 将軍継嗣問題は、土塊場で井伊派が辛勝した。
 勝利をおさめると、井伊は反対派に報復した。安政の大獄である。
 安政の大獄というと、吉田松陰や橋本左内たち、いわゆる志士たちの処刑を全面に立てがちだが、それはそれとして、もうひとつの面がある。
 反対派に走った幕臣の処罰だ。
 いったいに安政の大獄の処罰方針は、「そういう立場にない者が、幕政を批判し、幕府の人事に口を出した」者にいちばんきびしかった。
 井伊は阿部とちがって、“ひらかれた幕政”などあり得ないと信じていた。
「そんなことは、当事者能力のなさを自ら示すようなものだ」と思っていた。
 幕府の中で外交官僚は院内野党として、いいたい放題のことをいった。理屈につよく、上司を面罵した。
 井伊にはゆるせない。そして、この先頭に立っていたのが岩瀬忠震だった。
 井伊は、志士よりも幕府から給与をうけながら、その幕府崩壊の手伝いをしたこれら官僚を憎んだ。
 岩瀬などは、「切腹させてやりたい」とまで思った。
 大獄は志士よりも幕臣のほうがら先におこなわれた。
 真先に処分されたのは、岩瀬忠震・永井尚志(なおのぶ)・川路聖謨の三人である。
 岩瀬は永蟄居、永井は謹慎、川路は隠居謹慎を命ぜられた。
 井伊はスパイを使って部下のうわさを収集するのが好きだったが、川路のうわさもよく仕込んでいた。
 また大老放任のときに会った川路の顔をよくおぼえていた。
 疱瘡(ほうそう)をわずらったことのある川路の顔は、美しいものではなかった。
 井伊の川路への第一印象は「狡そうな男」であった。
 だから岩瀬たちにくらべれば、川路の慶喜擁立は、やや控え目のはずだったが、井伊は容赦しなかった。
 この三人の中で、後日リターンするのは永井だけだ。その永井も擁立した慶喜に大政奉還をさせる。
 奉遺文の草案を書くのは永井である。岩瀬は自閉のまま、半ば悶死する。
 そして、川路聖謨は慶応四年(明治元年)三月十五日、一ヵ月早い江戸開城の報をきいて、家人を使いに出し、その留守を狙ってピストル自殺した。
 中風にかかって体が思うようにうごかなかったせいもある。だから腹はうすく切ってあった。
 川路は明治天皇を讃えていたが、薩摩藩の謀略性は憎んでいた。
 自殺はその謀略性への死の抗議であった。六十八歳。

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