日本と世界

世界の中の日本

イザベラ・バード『日本紀行』

2019-10-12 17:15:11 | 日記

イザベラ・バード『日本紀行』      

上陸してつぎにわたしが感心したのは、浮浪者がひとりもいないこと、そして通りで見かける小柄で、醜くて、親切そうで、しなびていて、がに股で、猫背で、胸のへこんだ貧相な人々には、全員それぞれ気にかけるべきなんらかの自分の仕事というものがあったことです。 (上巻, pp. 43-44)      
日本人は洋服を着るとえらく小柄に見えます。どの洋服も不似合いで、貧弱な体型と国民全体の欠陥であるへこんだ胸とO脚が誇張されます。 (上巻, p. 55)      
その後わたしは本州奥地と蝦夷の一二〇〇マイル〔約一九二〇キロ〕を危険な目に逢うこともなくまったく安全に旅した。日本ほど女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。 (上巻, p. 484)      
これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。だっこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、いっしょにやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり、遠足やお祭りに連れていったり、子供がいなくては気がすまず、また他人の子供に対してもそれ相応にかわいがり、世話を焼きます。 (上巻, pp. 182-183)      
なぜか子供は男の子が好まれるとはいえ、女の子も同じようにかわいがられます。子供たちはわたしたちの抱いている概念から言えば、おとなしすぎるししゃちほこばってもいますが、外見や態度は非常に好感が持てます。 (上巻, p. 183)      
疥癬、しらくも、輪癬、眼炎、不健康そうな発疹が流行っているのを見るのはつらいことです。それに村民の三割以上に疱瘡のひどい痕があります。 (上巻, p. 184)      
新しい馬はらくだのように体を揺らして歩き、小佐越で放免したときはほっとしました。小佐越は高原にある小さな村で、とても貧しく、家々は貧困に荒れています。子供たちはとても汚くて、ひどい皮膚病にかかり、女性たちは重労働のせいで血色が悪くて顔つきが険しく、木を炊く煙を大量に浴びているのでとても醜くて、その体つきは均整がとれているとはとてもいえません。 (上巻, p. 195)      
両側には住まいがあり、その前にはかなり腐敗した肥料の山があって、女性たちがはだしでその山を崩し、どろどろになるまでせっせと踏みつけています。みんな作業中はチョッキとズボンという姿ですが、家のなかでは短いペティコートしかつけていません。何人かの立派な母親たちが、なんら無作法と思わずにこの格好でほかの家を訪問するのをわたしは目にしています。幼い子供たちはひもに下げたお守り以外なにも見につけていません。人も衣服も家も害虫でいっぱいで、不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、ここの人々は不潔です。 (上巻, pp. 200-201)      
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられたりするでしょう。でもここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、無作法ではありません。 (上巻, p. 228)      
ついきのうも革ひもが一本なくなり、もう日は暮れていたにもかかわらず、馬子は一里引き返して革ひもを探してくれたうえ、わたしが渡したかった何銭かを、旅の終わりにはなにもかも無事な状態で引き渡すのが自分の責任だからと、受け取ろうとはしませんでした。 (上巻, p. 229)      
彼らは丁重で、親切で、勤勉で、大悪事とは無縁です。とはいえわたしが日本人と交わした会話や見たことから判断すると、基本的な道徳観念はとても低く、暮らしぶりは誠実でも純粋でもないのです。 (上巻, p. 237)      
わたしは野次馬に囲まれ、おおむね礼儀正しい原則のたったひとつの例外として、ひとりの子供がわたしを中国語で言うフェン・クワイ――野蛮な鬼――と呼びましたが、きつく叱られ、また警官がついさっき詫びにきました。 (上巻, p. 240)      
日本人は子供がとにかく好きですが、道徳観が堕落しているのと、嘘をつくことを教えるため、西洋の子供が日本人とあまりいっしょにいるのはよくありません。 (上巻, p. 272)      
彼らは汚く、ぎっしり集まっています。この家の女性たちはわたしが暑がっているのを知ると、気をきかせてうちわを取り出し、丸一時間わたしをあおいでくれました。代金を聞くと、それはいらないと答え、まったく受け取ろうとしません。これまで外国人を一度も見たことがない、本にわたしの「尊い名前」を書いてもらったからには、お金を受け取って自分たちを貶めるわけにはいかないというのです。 (上巻, pp. 312-313)      
吉田は豊かで繁栄しているように見え、沼は貧しくてみすぼらしいものの、山腹から救出された沼のわずかな農地は吉田のそれと同じようにすばらしく整然として手入れが行き届き、完璧に耕されています。また日当たりのいい米沢の平野の広い農地と同じように、気候に合った作物をふんだんに産します。そしてこれはどこでもそうなのです。「無精者の畑」は日本には存在しないのです。 (上巻, pp. 321-322)      
ごちそうだということを示すために、ぺちゃぺちゃ、ごくごくと音をたてて食べたり飲んだり派手に息を吸ったりするのは正しいことです。作法では厳然とそう定められており、これは西洋人にとってはとても困ったことで、わたしはこのお客さまの食べ方にもう少しで笑い出してしまうところでした。 (上巻, p. 338)      
どこでも警察は人々に対してとてもやさしく、反抗しない相手には、二言三言静かに発するか、手をひと振りするかすれば事足ります。 (上巻, p. 374)      
港には二万二〇〇〇人の見物人が町外から集まったと警官が教えてくれました。それでも三万二〇〇〇人の行楽客に対して、警官は二五人いれば事足りるのです。その場を引き上げた午後三時まで、わたしはひとりの酔っ払いも見かけませんでしたし、粗野な振る舞いや無作法な態度をただの一度も目にしませんでした。しかもいちばん人で込んだところですら、みんな暗黙に了解しているかのように輪をつくり、息のできる空間をわたしに残してくれたのです。 (上巻, p. 401)      
午前五時には豊岡の全住民が集まり、朝食をとるあいだ、わたしは外にいる村人全員ばかりか、土間に立ってはしごを見上げている四〇人以上の人々の注目の「的」となりました。人々は宿のあるじからいついなくなってくれるのかと訊かれると、「こんなにめずらしいものを一人占めするとはずるいし、隣人の思いやりに欠ける。外国人の女性なんて、いま見ておかなければ、一生見られる機会はないかもしれない」と答えました。それで彼らはいてもいいということになったのです! (上巻, p. 407)      
そこかしこで出会う親切な人々について話したいのですが、馬子ふたりは特に親切で、わたしが辺鄙な内陸で足止めをくわされるのを怖れて蝦夷行きを急いでいると知ると、そっとわたしを抱き上げて馬に乗せてくれたり、乗るときに背中を踏み台代わりにしてくれたり、野草の赤い実を集めてくれたり、手を尽くしてわたしに協力してくれました。赤い実は礼儀上食べたものの、なにか嘔吐剤のような味がしました。 (上巻, p. 418)      
わたしの宿泊費は(伊藤の分も含めて)一日三シリング未満で、これまでほぼどこに行っても、快適にすごしてもらいたいという心温まる思いやりがありましたし、日本人ですら足を踏み入れない一般コースをはずれた小さくて素朴な村落に泊まることが多いことを考えると、宿泊設備は、蚤と臭気をのぞけば、驚くほどすばらしく、世界のどの国へ行っても、同じように辺鄙なところで同等の宿泊設備は得られないと考えるべきでしょう。 (上巻, p. 426)      
日本の女性は独自の集いを持っており、そこでは実に東洋的な、品のないおしゃべりが特徴のうわさ話や雑談が主なものです。多くのことごと、なかんずく表面的なことにおいて、日本人はわたしたちよりすぐれていると思いますが、その他のことにおいては格段にわたしたちより遅れています。この丁重で勤勉で文明化された人々に混じって暮らしていると、彼らの流儀を何世紀にもわたってキリスト教の強い影響を受けてきた人々のそれと比べるのは、彼らに対してきわめて不当な行為であるのを忘れるようになります。わたしたちが十二分にキリスト教化されていて、比較した結果がいつもこちらのほうに有利になればいいのですが、そうはいかないのです! (上巻, p. 429)      
しばらくそのまま馬を引いていたところ、鹿皮を積んだ荷馬の行列を連れたふたりの日本人に会いました。ふたりは鞍を元に戻してくれたばかりでなく、わたしが乗るあいだ鐙を支えてくれ、別れ際には丁重にお辞儀をしました。これほど礼儀深くて親切な人々をどうして好きにならずにいられるでしょう。 (下巻, p. 53)      
黄色い肌、馬毛のように硬い毛髪、弱々しいまぶた、細長い目、平たい鼻、へこんだ胸、モンゴロイド特有の顔立ち、脆弱な肉体、男のよろよろした足取り、女のよちよちとした歩き方など、総じて日本人の外見からは退化しているという印象を受けますが、それに対しアイヌからはたいへん特異な印象を受けます。 (下巻, p. 104)      
伊藤が夕食用に鶏を買いましたが、一時間後に絞めようとしたら、嘆き悲しんだ売り主がここまで育ててきた鶏が殺されるのを見るのはしのびないとお金を返してきました。ここは未開の辺鄙な場所ですが、勘は美しいところだと告げています。 (下巻, p. 161)      
 
日本紀行』イザベラ・バードの旅のコース 案内人      
        
日本紀行』イザベラ・バードの旅のコース      
 
伊藤鶴吉(1857~1913) 神奈川県三浦郡菊名村出身、後に「横浜通訳協志会」会長となり当時の通訳の第一人者として活躍。      
 
バードは横浜で通訳兼従者を雇うためにヘプバーン博士(1815~1911)立会いの下で応募者と面談を行い、三人目の応募者と契約しそうになったところへ、四人目の応募者である伊藤がなんの推薦状も持たずに現れる。
 
以前植物採集家のマリーズ氏と東北や北海道を旅したことがあるという。(後で伊藤の背信行為がばれる)      
 
バードは伊藤を信用できず気に入りませんでしたが、伊藤にはバードの英語が分かりバードには伊藤の英語が分かる。
 
早く旅に出たいこともあり伊藤を月12ドルで雇うことにし、伊藤の頼みで一カ月分の賃金を前払いした。       
       
伊藤は18歳(20歳という説もあり)で身長は150㎝足らず。『がに股ながら、よく均整のとれた頑丈そうな体軀の持ち主です。顔は丸顔で妙にのっぺりしており、きれいな歯と細い目をしています。それに重そうに垂れたまぶたはまるで日本人によくあるまぶたを戯曲化したようです。』      
  『伊藤はその割におしゃれがえらく好きで、歯を白くしたり、鏡の前で丁寧に顔に粉をはたいたり、日に焼けるのをひどく嫌がったりするのです。手にも粉をはたいていますし、爪を磨き、外に出るときは必ず手袋をはめます。』      
 旅の途中(藤原)では、『伊藤はとても頭がよく、いまでは料理人、洗濯人、一般的なお供、それにガイドと通訳をすべて兼ねるほど有能で(中略)彼は強烈に日本人的で、その愛国心には自分の虚栄という弱みと強みがしっかりとあり、外国のものは何でも劣ると思っています。』      
伊藤は頭がよく、旅支度などは指示されなくとも手際よく整え、人との交渉においてもその能力を遺憾なく発揮している。      
                     
 伊藤という通訳者無しでは今回の旅は成し得なかったかもしれないし、バードの手紙も内容は乏しいものになったことが想像できる。また、週に一度長い手紙を母宛に送っているし、送金もしており親孝行な若者といえる。旅行中の唯一の楽しみは夜の按摩だったという。      
バードは函館で伊藤と別れるときこう書いている。『愉快な蝦夷の旅を終えるのがひどく心残りで、(中略)この若者と別れるのがとても残念だったのです。』、『今日は大変残念に思いつつ、ついに伊藤と別れました。伊藤は私に忠実に仕えてくれ、(中略)わたしは既に彼を恋しく思っています。』      
 
イザベラ・バード『日本紀行』イザベラ・バード自ら描いた挿絵      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 新潟の運河      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 秋田の農家      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 アイヌの小屋      
 
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 アイヌ民族の男性      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 屋台の蕎麦屋      
ザベラ・バード自ら描いた挿絵 大八車と人夫      
 
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 飛脚      
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 アイヌ民族 高床式倉庫      
 
イザベラ・バード自ら描いた挿絵 日光で9泊した金谷善一郎の私邸      
 

 

    


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