北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

陸上自衛隊小銃手の多様な個人装備

2007-01-21 15:08:39 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■ライフルマン

 『銃は、自分の身を守る最後の盾となるものだ。もし、扱いが悪く、本当に必要になったときに動かなければ、どれは死を意味する』陸上自衛隊の前期教育において幾度となく繰り返される文言ときく。

Img_9099  写真は第十師団第35普通科連隊の隊員による執銃訓練展示の様子であるが、小銃手というのは、普通科のみならず、機甲科、特科や施設科、更には輸送科や需品科といった後方職種の隊員も漏れなく装備している。また、小銃を支える弾薬嚢(マガジンパウチ)や戦闘防弾チョッキ、更に戦闘員である個々人を支える様々な装備を一通り身につけることで、如何なる状況にも対応することが求められる戦闘員たる基点につく。

Img_2172_1  89式小銃に銃剣を装着し、訓練展示の仮設敵陣地へ向けて喚声とともに突撃を敢行する第36普通科連隊の隊員(千僧駐屯地)。顔の迷彩ペイントやゴーグルの有無などが、第十師団と第三師団ではやや差異があることに気づかされる。

 そこで今回は、駐屯地における訓練展示の様相を特集し、小銃手の装備や訓練内容の反映などで生じる各部隊ごとの個人装備などの差異を特集したい。

Img_9027  守山駐屯地祭における観閲行進の様子。記憶は曖昧だが第14普通科連隊の隊員であったように記憶する。

 普通科の職種を表わす赤いマフラーを飾り、30連発弾倉一本を収容するマガジンパウチを前に左右各一本を配置した、観閲行進における一般的な装備である。ちなみに早駆けをしているのは後ろで車輌行進が開始されている為。駆ける際の小銃保持姿勢が解る端的な写真である。

Img_3720  守山駐屯地にて撮影、第14普通科連隊の観閲行進と記憶する。師団観閲式では各普通科連隊から一個普通科中隊程度の部隊が参加していたように記憶する。

 肩に掛けているのはMINIMI分隊機銃で、89式小銃と同じ5.56㍉弾を発射する。250発入り箱型弾倉を用いて運用する。M-16A2突撃銃に12倍の火力を有すると米軍の教本にあるが、連射機能を有する89式小銃と比しても数倍の火力を有していると思われる。

Img_9095  最初に挙げた執銃訓練の様子。膝、肘を防護するプロテクターや戦闘靴の底部が確認できる。市街地における近接戦闘に際しては、自動車の陰や建築物内の脅威を排除する為に必要な姿勢である。イラク復興人道任務派遣や日本海からのゲリラコマンド脅威への対処という観点から急速に各部隊に取り入れられた訓練であり、冷戦期における野戦における対機甲部隊戦闘一辺倒と比して、個々人の能力が今まで以上に必要とされる分野であり、一層の精強化が進む端的な事例である。

Img_8898  第十師団、守山駐屯地祭における誘導隊の隊員。セラミックプレートを挿入することで小銃弾の直撃に耐える戦闘防弾チョッキ2型を装備している。

 誘導隊とは、1999年に第一空挺団を基幹とした邦人救出訓練より、国外における武力紛争により通常の手段では帰国できなくなった邦人を救出する部隊として必要に応じて編成され、レンジャー資格を有する隊員の中から選抜して編成され、常時、全国では一定数の部隊が常時待機しているとされる。

Img_9014  プロテクターやゴーグルとともに、際立つ戦闘防弾チョッキ2型は、イラク派遣任務に際して様々な部隊でも見るようになった装備で、弾片防御に主眼を置いた従来の戦闘防弾チョッキとは大きく形状が異なり、マガジンパウチなどをチョッキ本体に装備させるもので、米軍のMOLLE(Mobular Lightweight Load-carrying Equipment)システムと同じような装備である。なお、幾度か試着した経験があるが、2型はやや重く、長時間の野戦移動というよりは、乗車時、もしくはフォースプロテクションに用いる装備との印象であった。

Img_8592  春日井駐屯地における第10偵察隊の訓練展示、彼らは偵察隊所属ということからもわかるように、機甲科隊員である。フェイスマスクやニーパット、エルボーパットといったプロテクターが黒色である。これら装備は、支給品ではなく、部隊訓練により必要性が確認された際に、部隊規模で購入することが多いとのこと。制式装備以外のものを運用することに難点を指摘する声もあるが、それよりは私見として精強な部隊を編成することの方が重要と考えるのだが、皆さんは同であろうか。

Img_1459_1  豊川駐屯地祭における第49普通科連隊の隊員。独特の形状であるブッシュハットを被り、顔には迷彩ペイントを塗り、大きな背嚢(リュックサック)を背負っている。

 “R”という腕章から解るように、彼らは即応予備自衛官であるが、89式小銃を構え、仮設敵陣地の背後に回りこむべく走っている。即応予備自衛官とは、従来の予備自衛官とは異なり、訓練日数を大幅に増やした(とはいえ、同じく予備役の米軍州兵よりも訓練密度はかなり薄いという現実はある)隊員である。

Img_0354  中部方面隊創設記念行事(伊丹駐屯地祭)における第37期レンジャー過程に参加した隊員(そう記憶する、一見、第37普通科連隊の隊員にも見えるが)。顔の部分だけをペイントしたものは“お面”とされ、諌められるが、彼らは首の部分までペイントしている。装備としては小銃と弾帯、そして略帽を被っているが、レンジャーとは、個々人の能力を最大限に引き出すことを目的としており、身に着けた装備以上に精強なものを秘めた隊員たちの行進である。

Img_2238  大津駐屯地祭における陸曹教育隊の整列、この課程を終え、旧軍の伍長にあたる三等陸曹となる。部隊を率いる陸曹は、幹部と自衛官の間を支えるという意味で武装集団の精強さを左右するもので、米軍の将官、独軍の将校、日本の下士官、ロシアの兵士にて編成した部隊こそが(言葉が通じるかが問題と思うが)最強の軍隊である、と表現されるように、旧軍と同じく陸上自衛隊の陸曹が優秀であることは、世界中で知られている。

Img_2430  同じく大津駐屯地祭における訓練展示の様子。二脚を立てて89式小銃を射撃している。伏撃の姿勢を端的に示した写真で、この他、88式鉄帽の前には偽装の為に小枝などを挟んでいる。射撃競技会などにより鍛えられた小銃射撃の技量は、優秀な射手に与えられる射撃徽章などをもつ隊員ではスコープ無しの小銃で450㍍先の風船に命中させる技量を有する。また、概して射撃技量は米軍よりも優れるといわれる。やたら連射すれば逆に自分の位置が露呈し反撃される為、一発必中は重要である。

Img_2476  仮設敵陣地に突入する陸曹教育隊の隊員。撮影位置の制約から後姿ではあるが、89式小銃は着剣し、戦闘防弾チョッキを着込んだ上で、弾帯には折畳式スコップ、水筒、二本入マガジンパウチを二つ装備し、銃剣を配置するという個人装備の様子が良くわかる一枚である(しかし右端の隊員はパウチの場所が異なる為、全てこの装備位置で無いということも判る)。マガジンパウチは一本用二個、二本用二個の四個を携帯している。訓練展示ではこうした個人装備を携行する事例が少ないだけに、貴重な一枚である。

Img_0605  信太山駐屯地祭の訓練展示における第37普通科連隊本部管理中隊情報小隊の隊員。UH-1H多用途ヘリコプターからロープ降下した直後、ヘリへ合図を送っている。

 情報小隊とはレンジャー資格を有する隊員を中心に編成され、連隊の目として斥候を行う部隊で、師団や旅団の目となる偵察隊と似た運用が為されるようだ。行動を阻害しないよう、鉄帽ではなくブッシュハットを被り、更に背中には無線機(JPRC-F70?)を背負っている。

Img_0676  訓練展示において、軽装甲機動車から降車した隊員。左にいる二人の隊員は雑嚢(フィールドパックとかアスパックといわれる)を左腿のところにさげている。

 88式鉄帽には新型の個人用暗視装置を装着している。第一空挺団より装備が開始された。聞くところではこの第三師団(管区に大阪を含む)と第一師団(東京に駐屯)という都市部を任務担当区に含む部隊より配備が進んでいるとのこと、片眼用で従来のものよりも軽量となっている。

Img_0658  第37普通科連隊は大阪府に駐屯する唯一の普通科部隊であるが、銃剣を装着せず、その代わりに暗視装置を装備しているのが特色である。以上が、昨年に撮影したライフルマン達の写真である。部隊ごとに個性があるのは、それだけ柔軟な運用が為されている事を示し、かつてのような硬直した組織よりは異なった意味で精強な部隊へ向かっているように思える。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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名古屋市消防出初式 消防関係車輌のパレード

2007-01-20 13:16:29 | コラム

■観閲行進

 消防出初式では、多種多様な消防関係車両の行進が見られ、しかも出初式以外では中々見られないものである(恒常的に観られるようになっては困る)。

Img_3044 小生を含め、友人の中にも消防車に詳しいものがいないため、おそらく誤謬誤記の多い記事となるやも知れないが、今回は消防車の特集を行いたい。

 消防出初式の流れは先日掲載したが、今回は特にその観閲行進に際して撮影した消防車輌群の写真から紹介を行うが、もし誤りがあった場合は、恐縮ながらご教授いただけると幸いである。

Img_4474  早速わかりにくい車輌群であるが、これらの各種雑多ともいえる車輌群は、消防団の車両である。

 消防団の車両は特に経済的な問題もあり、中古にて購入した様々な自動車をもとに消防車輌へ改修したものである。予防と初期消火には地域との密着した取り組みが必要であり、消防団とはその端的な防災意識の表れであるともいえよう。

Img_3017  消防団の車輌の後部に搭載された各種装備。

 金属製梯子やスコップ、金属性塵取あとは小型発電機のようなものが搭載されている。どれもホームセンターにて販売していそうなものであるが、破砕消防や初期火災に際して、先んじての展開迅速な展開が出来れば消防団のこうした装備も大きな威力を発揮しよう。また、山林火災にも威力を発揮しそうだ。

Img_4481 消防車。

 最も基幹的な装備というべき車輌で、広範に配備され、各種用途に用いられている。

 C.ジョニー氏のお話では、近年配備されているものはホースなどの消防関係機材が写真のようにシャッター内部に格納されているものが多いという。考えるにホースなどの脱落防止や火災による被災を防止する為であろうか。

Img_3022  消防任務に際して概して最も最初に現場に到着する車両で、レスキュー資格保持者も、最初はこの消防車により消防官としての資質を養う。

 しかし、消防の努力もむなしく、名古屋市長の訓示においては、昨年に名古屋市では51名の火災による市民の犠牲者が出たとのことで、こうした出初式を掲載すると共に、改めて読者の皆さんにも防火の取り組みを促したい。

Img_4492  詳細は不明ながら20㍍級と思われる梯子車。

 梯子車は、一般に連想される消防車として最も知られたカテゴリーの一つであろう。高所火災などに際しては地上よりも極力高いところに消化点を設定し消火作業を展開することが望ましいが、梯子車はこの他、人命救助などにも用いられる。写真からは日野自動車製であることが見て取れる。

Img_4497  先端屈折式梯子車。

 文字通り梯子の先端が屈折するものである。これは2001年3月7日に東京消防庁品川署へ第一号車が配備されたのを契機として、都市部を中心に配備が進んでいる。

 従来の梯子車が直線状にしか梯子を伸ばせなかったが、本車の導入によりよりきめ細かな運用が可能となった。

Img_4494  先端が屈折する利点として、従来の直線に延伸する形式では例えば都市部の電線が集中した地域や、また屋上やベランダの安全柵が障害となることが多かった。その点、屈折式であれば電線などを迂回し、若しくは柵越に救助を行うことが可能である。何分高所とは要救助者に恐怖を与えるものであり経空で直にベランダにつける従来型よりもそのまま乗り入れる新型の方が迅速に任務を遂行でき、且つ時間当たりの救助者数も多くなる。

Img_4511  10トン水槽車。

 単独でも放水可能で、水タンクはステンレス製であるから、飲用水を搭載すれば10000?の水を搭載した給水車としても運用でき、渇水期や上水道の故障の際にも運用が可能。

 恐らくハイパーレスキューの機動救急救援隊(Support Task Force)に配備されている車両と思われる。

Img_4508  不整地突破能力を有するウニモグ。

 用途は不詳ながら、東京消防庁には遠距離大量送水装置として、同型のものが配備されている(しかし、荷台が異なる)。ちなみに大量送水装置とは、ポンプ車とホース格納車で構成され毎分3.5㌧の水を2000㍍先まで送水するものだが、写真のものは不整地突破能力を活かした災害時の資材運搬に用いられるものかもしれない。

Img_4514  救急車。

 名古屋市消防局で運用される救急車は、全車高規格救急車となっている。しかし、様々な救命機材を搭載する高規格救急車であるが、医事法により救命救急の定義は著しく定義されており、この意地法ともいうべき法律により失われる命は少なくない。私見ながら准医師制度、若しくは機動医師制度などの構築により末端医療に裁量を持たせる必要はあるように思う。

Img_4522   名古屋市消防局の切り札というべき、ハイパーレスキュー(消防救助機動部隊)の機動救助隊(Rescue Task Force)。救助車、震災対策用救助車などにより構成されている。先頭を行くのは震災対策用救助車(恐らくⅢ型かⅣ型)。2㌧車をもとに画像探査機、音響探査機、電磁波人命探査装置などを搭載し、二台で1セットを構成。航空自衛隊のC-130H輸送機による輸送を前提として機内固定用ステーなどが車体下部に装備されている。

 後方には海上保安庁の消防艇“しらいと”が待機している。

Img_4524  ハイパーレスキュー機動特科隊(Special Task Force)に所属するクレーン車。地震などの大規模災害に際して道路障害除去などに活躍する。

 この他、機動特科隊には化学消防車なショベルカー、トラクターショベルやその輸送車、屈折消防車(先端が屈折し、屋上などから消火作業を実施することが出来る)などが配備されている。

Img_3037  最後に飛行した消防局のアエロスパシアルSA365N1ドーファンⅡ、飛行を行った五機のヘリコプターの内二機が名古屋市消防局のものであるが、こちらについては日を改めて掲載したい。

HARUNA

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きぬかけの路 仁和寺から龍安寺そして金閣寺へ

2007-01-19 15:04:41 | 写真

■古都の道をゆく

 仁和寺の写真を昨日は掲載したが、平安時代から避暑地として楽しまれた地を巡る衣笠山の山麓をまわる“きぬかけの路”を本日は扱いたい。

Img_4789  仁和寺の二王門は、江戸時代に再建された際に仁王を祀ったことからその名前がつけられた。

 さて、この写真は二王門で、昨日の写真とは別方向から撮影したものだが、昨日の写真のように“仁和寺”の名が刻まれた石碑は見えないものの、順光であるため空が碧く写っている。方向一つで空の写り方がここまで違うという端的な事例である。

Img_4776  二王門にはその名の通り、二対の木彫りの力強い力士像があたかも門を護るように置かれている。

 こうしたものは今まで北大路機関の“写真”特集で扱った京都の寺院には無かったように記憶するが、江戸期に再興された仁和寺ならではのものといえるのではないか。ややくすんだ色であるが、それがまた力強さを際立たせているようにみえる。

Img_4777  二王門をくぐるその時、木彫りならではの力強い姿に思わず足を止めて写真に収める姿が多々みられた(まあ、小生もその一人なんだけれどね)。

 さて、ここから“きぬけの路”の写真特集に至る訳だが、仁和寺からこの先は龍安寺、そして更にその先には金閣寺があり、京都というイメージを担う様々なものがこの道沿いに散在している。

Img_4708  きぬかけの路をいく、と書きつつもいきなり脱線であるが仁和寺の東門から駐車場を経て足を進めると近道である。写真の右側は仁和寺である。

 きぬかけの路は二王門から車道沿いに歩けばいいのだが、少々判りにくくともバスやトラックが行き来する車道よりも、こうした清涼を与えてくれそうな道の方が京都らしい印象を与えるのではないだろうか。

Img_4706  きぬかけの路とは、金閣寺と御室を結ぶ道として名前を公募し、1991年に名付けられた愛称でそもそも、“きぬかけ”とは、宇多天皇が真夏の衣笠山に白絹の布を掛け、あたかも雪景色のようにし、風流を楽しんだという故事に起因する。なお、衣笠山とはその所以ではなく、昔僧兵が争う際に山の頂上に寺院の印のついた絹の旗を掲げたことから衣笠山とよばれたと、昔タクシーの運転手さんに教えられた、しかし、宇多天皇の故事が衣笠山の所以ともいわれる。

Img_4700  龍安寺。龍安寺の石庭は余りにも有名であるが、ここから何を感じるかについて風情を感じるか、若いうちは解らないかで大学院でも議論があった(笑)。

 石畳が続いているように見えるが、写真の門と向こうに見える中門までの間に、きぬかけの路がはしっており、車道であるから当然信号機も設置されている。感動して向こうまで走ってゆくと轢かれるので要注意。

Img_4702  龍安寺まえ、そこに掲げられた“仁和寺まで五分”。・・・、絶対嘘である。十五分は歩いた(恐らく文字の大きさからみて自動車向けの看板なのだろう)。ここを南下すると妙心寺に至る。ここからすぐ先に立命館大学があるが、きぬかけの路はそのまま大学の裏手を走っている。ここが一番静かで、地層が剥き出しになった道は文字通り切り開いて車道としたことが瞭然であるが、木立に囲まれた道は、雑然として観光客溢れる“哲学の道”よりは風情がある。

Img_3059  山道のような道を抜け堂本印象美術館とバスターミナルのところに出るが、ここを道なりに進みしばらく北へゆくと金閣寺に達する。Y字路のところで間違えて桜木町方面へ行くと西大路通に出てしまう。

 ちなみにこの桜木町はラーメン屋は無いので要注意である。金閣寺は常緑樹が多く、秋の紅葉の美しさはないが、冬の落葉後の惨状とは無縁である。

Img_3060  仁和寺から龍安寺、そして金閣寺にいたるこの道は、五重塔、石庭、そして金閣寺を見ることが出来る。徒歩が疲れるならば59系統バスを用いればよいだろう。ちなみに写真の金閣寺は昨年撮影したものである。さて、この、きぬかけの路の散策というのは休日の楽しみとしていいのではないだろうか。

HARUNA

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世界遺産 仁和寺 (旧御室御所)散策記

2007-01-18 16:10:37 | 写真

■仁和寺探訪記

 私事ながら多忙を極めたセメスターのプレゼンテーションも一段落し、時間も空いたので久々に仁和寺へと足を運んだ。

Img_4778  仁和寺は、平安時代において第58代光孝天皇により西山御願寺として建立したのがその始まりで、光孝天皇崩御後の仁和四年(888年)、宇多天皇が先帝の意志を継ぐかたちで仁和寺を完成させた。宇多天皇は、退位したのち出家し、三十年以上にわたり真言密教の修行をここ仁和寺において励まれ、以後、明治維新までのあいだ天皇家が仁和寺の門跡となられ、寺は御室御所とよばれるきっかけとなった。そして1994年に世界遺産に指定され、今日に至る。

Img_4716  最初に挙げた写真は、寺の正門というべき二王門で、此処から入り、参道を進むと朱色が鮮やかな中門が見えてくる。この階段部分を登ると、金堂や五重塔にいたる重要文化財、国宝が立ち並ぶ。

 当日は、松などの樹木の消毒作業日だったのか、コンプレッサーの音が響き、噴霧器の霧状薬剤が撒かれていた(霧状の薬剤を霧に見立て五重塔の写真を撮ろうとしたが上手く行かなかった)。

Img_4732  江戸時代に立てられたこの五重塔は、高さ36㍍(塔高32㍍)あり、寛永年間の建築物である。

 重要文化財指定を受けているこの五重塔は、中門をくぐるとその右側にそびえ、鬱蒼とした木立の中にその存在を示している。屋根の大きさがどの層も同じという江戸期の特徴を有しており、近世に立てられた五重塔の中でも古寺の塔として貫禄を示している。

Img_4741  五重塔の裏手には、拝殿、そして九所明神があり、裏手から金堂へ向かう途上に、この経蔵がある。

 この経蔵は重要文化財指定を受けており、様々な経典が安置されている。境内はその多くが木々により占められており、観光の閑散期ということもあり、静さが伝わりそうな写真に仕上がっているが、実際、平日ということもあってか観光客は数人しか見かけなかった。

Img_4746  国宝、金堂。中門をくぐるとその正面に見える建物である。

 仁和寺が寛永年間に再興された際、この金堂は京都御所の紫辰殿を移築し建立されたもので、本尊は国宝である阿弥陀如来である。同じく阿弥陀如来坐像は、霊宝館に保存され、年に二回、四月一日と十月一日から、それぞれ50日間の名宝展というかたちで、特別公開を行っている。

Img_4750  金堂から更に西へ、水掛不動尊の前を通り、写真は観音堂へと続く道。この位置から反対側へ進めば、西門を出て御室八十八箇所巡りという巡拝をすることが出来、八十八箇所は3kmの道程で、約二時間ほどで回る順路となっている。

 本日は時間の都合もあり、八十八箇所巡りは行わなかった。道は成就山へと続くとあったので、山道なのであろうか。

Img_4747  写真は、前の写真とほぼ同じ位置から撮影したもの。

 18㍉広角レンズの威力というべきか、これまでに上げた建物が一枚のフレームに収まっている。手前の朱色の建物が鐘楼で、その向こうに金堂、そして更に向こうに経蔵がみえる。

 木々の葉が落ちてしまっているのがやや残念であるが、これは季節柄致し方ない。

Img_4759  観音堂から再び五重塔を望む。葉の落ちた木々は、かの有名な名勝御室桜である。春には満開の花々がこの一面を覆う。

 御室桜の中でも御室の地特有の桜は「御室有明」として特に有名であるが、行った経験からしてやや遅咲きであるので、桜予報などの報道をみてから花見には出かけられることをお勧めする(入り口のところで係員さんに聞くという手もあるが、それは野暮というものであろう)。

Img_4765  中門から二王門(仁王門ではなく二王門)を望む。中門が比較的高いところに築かれた事が端的に分かる写真である。

 90000平方㍍の境内であるが、この参道の左右(東西)には、東側に京料理や喫茶など食事をとることができる御室会館があり、その向こうに東門、そして比較的大きな駐車場があり、参道の西側には本坊や庭園などがあり、こちらも見ごたえのあるものだ。

Img_4767  本坊へ続く勅使門。辰殿を中心に白書院、黒書院という構成になっているが、この部分は江戸時代に京都御所の常御殿を移築したものであったのだが、残念なことに1887年に火災により焼失してしまい、明治期から大正初期にかけて再建された。

 したがって再建されたものではあるものの、当時の最高の技術を持って復元されたものである。

Img_4779  二王門を外側から観た写真。すぐ外は車道である。

 二王門のすぐ西側には京都駅や四条河原町方面に向かうバス停があり、龍安寺方面、若しくは妙心寺方面を経由し、それぞれ目的地に向かう。双方とも40分ほどでJR京都駅、阪急河原町駅に到達するという。また、59系統や26系統など4種の系統が停車する為、比較的バスの本数は多い。

Img_4782  鉄道線は京福電鉄御室駅にて降車すると二王門がみえてくる。

 しかし、京福電鉄は、北野白梅町までバスで京都駅から35分、河原町駅からも25分ほどかかり、若しくは地下鉄五条駅から阪急線に乗り換え、更に京福線に乗り換えるという非常にめんどうな道程となってしまうが、古い車輌の多い京福電車は京都ならではの情緒をかもし出し、また嵐山へも連絡が容易である。

Img_4780  京都駅からはやや距離があるものの、桜の時期や紅葉の時期は境内は多くの観光客で覆われ、また、行くだけの感動を得られる場所である。皆さんも京と観光の際には是非立ち寄られてみては如何だろうか。

HARUNA

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阪神・淡路大震災の災禍から十二年

2007-01-17 18:06:26 | 国際・政治

■兵庫県南部地震犠牲者追悼

 一月十七日は、兵庫県南部地震、一般に阪神大震災と称される戦後最大の地震災害から十二年目を意味する日である。今回は昨年撮影したルミナリエの写真と共に本論を構成したい。

Img_3964  兵庫県南部地震は1995年1月17日0546時、淡路島北部(北緯34度36分、東経135度02分)を震源としたもので、マグニチュード7.3で震源が16kmの直下型地震。これにより神戸市、芦屋市芦屋駅周辺、淡路島東北部に深度7という強い揺れをもたらし、新潟、東京から鹿児島まで深度1という広範囲の揺れを観測した(参考「防災白書」)。犠牲者は死者6436名、行方不明者3名、負傷者43792名に達する。

Img_3929  同時に住宅被害は全壊104906棟を含む512882棟、公共建造物その他4848棟、橋梁破壊320、道路破壊10069に達し、神戸の都市機能を麻痺させ、結果的に経済的な被害の事例として、神戸港の取引量低下や、アメリカ総領事館を初め、安政の五カ国条約開港以来の公館の大阪移転へとつながり、今日に至る。(消防庁資料「阪神・淡路大震災第108報」)更に山陽新幹線や東海道線を含む36箇所での軌道崩壊は計り知れない経済的被害をもたらした。

Img_3971  現在、直下型よりも広範囲が被災するプレート型地震である、東海地震、東南海地震、南海地震の危険性が指摘されており、特に直下型地震とは異なり、東海地震の場合、海底を震源とするプレート型地震は、津波による被害を伴うことで、沿岸部を走る東海道本線、東海道新幹線、東名高速道路などの主要交通機関、また太平洋岸の港湾施設に大きな被害を与えることが危惧される。また、気象庁の情報に基づき内閣総理大臣により大規模地震対策特別措置法が発動されれば被害は極限される見通しだが、別の問題を内包する。

Img_3974  同法は、商業施設営業などの経済活動や自動車、鉄道による公共交通を著しく遮断するもので、経済的な損益が大きく、その発動には非常に抑制的となる可能性が指摘される。他方で、政府の地震調査研究推進本部の「南海トラフの地震の長期評価について」では東南海地震が、更に和歌山県潮岬周辺での海溝型地震として南海地震の複合発生が危惧されている。これにより激甚災害該当地区が関東から東海、紀伊半島、四国沿岸にかけ広域化する危険性が指摘される。

Img_3900  対処方法としては、消極的であるが耐震補強の強化、自治体の対処マニュアル、初期の48時間に対応する自衛隊(予備を含む)の動員計画、広域航空救急搬送体制の確保、経済復興計画の見通し、港湾・飛行場施設の機能確保などにより被害を最低限に抑えることが期待できるが、何よりも、心の備えなど身近な防災対策が、最終的には必要なのかもしれない。

HARUNA

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名古屋市消防局出初式のマスコット達

2007-01-16 10:32:39 | コラム

■モリゾーとキッコロに会って来た

 名古屋市消防局消防出初式は年頭でネタ切れ気味の北大路機関にとり貴重な行事であったが、今回はその意外な一幕を特集したい。

Img_3051  レスキュー隊員に案内され、あのマスコットが帰ってきた!、愛知急迫を経済的に救った愛・地球博のマスコットキャラクターとして一躍有名になったモリゾーとキッコロは、万博終了後、森に帰ったということだったが、森を切り開いての万博会場の影響もあってか、愛知県の行事には幾度か顔を出し、今回も消防出初式の行進から訓練展示間での間、会場に姿を現し、子供たちに愛嬌をふりまいた。イメージとしては駐屯地祭の観閲行進から訓練展示に移るまでの野外音楽演奏のようなものだろうか。

Img_3050  ・・・、アンタ 誰?

 カラーガード隊も一瞬戸惑いそうな、怪しい笑顔のマスコットは、名古屋港に隣接する入場無料のイタリア村マスコットとのことで、上部の突起物が三色のイタリア国旗を示している、らしい多分。当日、イタリア村ではチーズ鏡餅の鏡開きが実施されるとのことで、その広報も兼ねていたようだ。出初式終了後、イタリア村にやたら高級な望遠レンズを抱えた集団が大挙訪れたのはいうまでもない。

Img_3054  更にこのキャラクターは、消防のマスコット、ケッシー君。名古屋港にケシ?と海上保安庁や厚生労働省、県警が動きそうな名前であるがもちろんこれは、消火の消しをもじったものである。本来ならば出初式の主役キャラクターであるはずなのだが、キッコロよりも小さい身の丈が災いして、案外目立っていなかったように見えたのはご愛嬌。この他、名古屋港のマスコットキャラ、ポータン君も名古屋港開港100周年をアピールすべく会場に姿を現した。

Img_3129  マスコットたちは、状況開始と同時に会場を去ってあたりは緊迫したムードに、・・・、と思いきや、状況開始後も会場に愛嬌を振りまいていた。

 想定は、多重衝突事故が発生し車輌火災、また同時に要救助者を破損した自動車から救出するという緊迫した状況、高鳴るサイレン、駆け出すハイパーレスキュー、立ち上がれ梯子車!という状況とは関係なく、ひたすら愛嬌を振りまくモリゾーとキッコロ。

Img_3105  ケッシー君とイタリア村のマスコットはいつの間にか会場から姿を消していたが(反対側に行っていたのかも)、あれ、ポータン君は?と目を会場隅に走らせると、アッ、いたいた!しかもなんとスマキ状態である!

 名古屋港開港百周年記念イベントのはしりとなる年頭にいきなりスマキとは穏やかではない。「お父さんスマキってなあに?」と聞かれれば返答に苦渋しそうな瞬間である。

Img_3106  そして上空にドーファンヘリ。オーライオーライ!という掛け声と共に、なんとポータン君は空中機動。ドーファンとポータンといった状況である。

 完全にスマキ状態で宙吊り、かなりシャレにならない状況であるが、ポータン君は冷静にいつもの表情を保っている。名古屋港に陽光を反射する水面を背景に、ポータン君はどんどん高く高度を増してゆく。

Img_4568  ドーファンとポータン。

 一瞬、森林火災消火用の消化剤空中投射装置を搭載したドーファンにみえるのだが、写真に吊るされているのは紛れもなくポータン君である。訓練展示で要救助者をウインチで機内に収容する展示も直前に実施された為、ポータン君もそのまま機内に収容されると思いきや、やはり頭が大きすぎたのか、そのまま宙吊りで会場向こう側へ飛んでいった。

Img_3131  状況終了後、車両の撤収が進む中、スマキ状態からヘリ宙吊りというお笑いタレントでも中々ない状況を乗り越え、ポータン君は無事戻ってきた。小生ら一行は、一応、これらマスコットをバシバシ撮った訳だが、こうした集団にも暖かく対応してくれたのは一種意外であった。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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名古屋海上保安部巡視船『みずほ』・消防艇『しらいと』

2007-01-15 11:29:11 | コラム

■消防出初式で見た海上保安庁船艇

 昨日展開した名古屋市消防局消防出初式であるが、消防車両に関しては手元に資料が少なく、幾度かに分けて掲載したい。こうした中で、今回は昨日見た第四管区名古屋海上保安部の二隻を掲載したい。

Img_4409  写真は第四管区名古屋海上保安部に所属するヘリコプター巡視船“みずほ”で、“みずほ”型の一番船、観艦式で撮影した“やしま”と同型である。総トン数5259㌧、常備排水量5317㌧、全長130㍍、幅15.5㍍で、ディーゼルエンジン二基により18200馬力を発し、速力は23ノット、35㍉単装機銃、20㍉多銃身機銃各一基を搭載、この他ベル212型ヘリコプターを二機を搭載し、1986年に就役した大型巡視船である。

Img_2918  ちなみに、護衛艦などを表記する基準排水量や満載排水量と巡視船や船舶一般を説明するときに用いる総トン数は別物である。排水量とは英語でdisplacement,即ち、船舶を巨大な水槽に放り込んだ場合どのくらいの水を押しのけるか(水槽から排水されるか)により計算するので、実質的には目方である。対して船舶一般に用いられる総トン数とは船内の各種用途に使用できる空間容積をもとに算出する為、船舶の重さとは関係が無い。

Img_2921  さて、この“みずほ”型は国連海洋法条約に基づく新海洋秩序とSAR条約(海上における捜索及び救助に関する国際条約)へ1979年採択、1985年加入に際してヘリコプターを常時運用可能な複数機搭載し、求められる警備救難能力の拡大、特に200浬排他的経済水域以遠の広大な海洋を捜索する目的で建造されたもので、海上保安庁が13隻保有するヘリコプター搭載巡視船(内二機搭載型は3隻)の内の一隻である。

Img_2922  第四管区海上保安本部には、名古屋海上保安部(衣浦・蒲郡・常滑海上保安暑)、四日市海上保安部、尾鷲海上保安部、鳥羽海上保安部(浜島分室)にヘリコプター巡視船1隻、巡視船2隻、巡視艇14隻、その他8隻を保有しており、この他、第四管区情報通信処理センター、名古屋港海上交通センター、伊勢湾海上交通センター、伊勢湾航空基地(明野駐屯地に隣接)を以て、東海三県(内陸の岐阜も管轄に含む)の伊勢湾内、熊野灘など三重県太平洋沿岸、愛知県太平洋岸の警備救難にあたっている。

Img_3025  さて、“みずほ”ま、まさに偶然、文字通り朝駆けの成果(といいつつもあと五分はやく名古屋港に到着していれば正面から“みずほ”の船橋を捉えたもっといい写真が撮影できたのだが・・・)といえるが、もう一隻は同じく名古屋海上保安部所属の消防艇“しらいと”。10万重量トン級タンカー火災への対応を想定して建造された“ぬのびき”型消防艇の四番艇で、総トン数92㌧、満載排水量89㌧、速力14ノット、航続距離は180浬である。

Img_3023  “ぬのびき”型の最大の装備は機銃などではなく、毎分2000~6000?の放水力を有する各種放水銃4基で、この他に自船が被災しないよう、自衛用噴霧ノズル、また散乱した油などに対応する油処理剤散布装置を搭載しているが、同型船は1974~1981年に10隻就役したものの老朽化により既に6隻が新型の“よど”型消防巡視艇と交代しており、1975年に就役した写真の“しらいと”もそろそろ退役の時期を迎えつつある。

Img_2923  海上保安庁の巡視船や巡視艇は大なり小なりの放水装置を搭載しているが、こうした消防艇はそれを遥かに凌駕する能力を有する。

 なお、C.ジョニー氏によれば、例年であれば名古屋市消防局が運用する二隻の消防艇が出初式には海上パレードを行うとの事だが、今回は内一隻の“ぎんりゅう”(写真左)だけで、代わりに海上保安庁の“しらいと”が出てくるのは珍しいとのこと。

Img_3055  小生は当初、もう一隻の消防艇がドック入している為海上保安庁から“しらいと”が来たのではないか、と思ったが、もしかしたらば名古屋市消防局が間もなく退役するであろう海上保安庁の“しらいと”へ、組織は違えど同じ任務を受け持つ消防艇の32年間という任務の完遂を祝い、最後の晴れの場として消防出初式へ参加を呼びかけた、とも考えられるであろう。

HARUNA

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2007年 名古屋市消防局消防出初式

2007-01-14 22:49:41 | コラム

■消防局行事

 2007年、北大路機関の初展開は名古屋、名古屋港において開催された消防出初式である。

Img_3086  私事ながら所用があり、京都市関係の消防、警察の年頭関連行事を観覧することは出来なかった(消防出初式の同時刻、小生はプレゼンテーション、警察視閲式はミーティングがあり展開不可)。

 しかし、今回、いつも自衛隊関連の行事にてお世話になっているC.ジョニー氏からお誘いをいただき、土曜日の特別演習でのプレゼンテーション終了後、準備を初め何とか会場である名古屋港へ行く目処が立った。

Img_4458  出初式とは、消防関係者の年頭行事であり、行政関係者の訓示、そして本職の消防官による訓練展示や行進により決意を新たにするという行事である。

 写真の端から端までを埋め尽くす消防団員。名古屋市消防局出初式は、人口ではパリ特別市に匹敵する200万都市ということもあり、消防団だけでも1600名が参加するという大規模なものであった。

Img_2960  部隊巡閲(と自衛隊では言うが、消防でもそういうのかは不明、ご存知の方はご教授いただければ幸い)。埠頭に勢ぞろいした消防団旗の波の中を進む。

 写真の観閲車には名古屋市長と消防長が乗車している。この他、名古屋市助役、名古屋市消防団連合会長、愛知県知事、消防庁長官、名古屋市議会議長、名古屋市議会副議長が自動車にて巡閲を実施した。

Img_2984  部隊巡閲に続き、観閲行進へと移るため、小走りで移動する。本職の消防局員は火災に備え訓練展示参加要員を除き行進は行わない為、消防団員による行進であるが、なにしろ区ごとに消防団があるので、1600名という物凄い行進の規模である。

 消防音楽隊が演奏する行進曲は、自衛隊のものとは異なるが、徒歩行進と車輌行進で音楽のテンポが異なったのは同じであった。

Img_4484  車輌行進、消防車が続々とこちらに向かってくる。広報によれば、参加車輌は60両ということだ。

 最初は消防団が運用する様々な車両が行進し、その後、ハイパーレスキュー、ポンプ車、梯子車、消防車、救急車といった順に行進した。企業の自衛消防隊や特殊火災用の車輌、更には大規模災害に備える車輌も参加し、その様子はまさに勇壮の一言に尽きる。

Img_3035  式典観閲行進の最後は、五機のヘリコプターによる祝賀飛行が実施された。名古屋市消防局が運用する二機のアエロスパシアル、京都市消防局より飛来したアエロスパシアル一機、更に愛知県、岐阜県の防災ヘリコプターが一機づつ編隊飛行を実施、消防ならではの印象的な赤いスモーク(やはりブルーインパルスのスモークのように有害ではないかとのイヤガラセ苦情が殺到するに違いない)を曳いての飛行である。

Img_4577  観閲飛行終了後の訓練展示。

 大災害の発生を想定した訓練展示では、複数の破損車輌からの負傷者救出や負傷者搬送、またヘリによる名古屋港キャラクター“ポータン”の輸送展示も実施された。消防は一分一秒が文字通り延焼の阻止を左右することもあり、幾度もの現場を潜ったのだろう現職の消防官がきびきびとした展示を実施、その後、写真の消防団員によるポンプ展開などが展示された。

Img_3092_1  梯子車による展示、特に近年は、名駅周辺のビル高層化が顕著であり、万が一の高層ビル火災に際して、迅速に消火拠点を火災発生地付近に構築する為にもこうした梯子車は重要であり、近年では60㍍以上の大型梯子車の数的増強にも力が注がれていると聞く。

 また、後方のクレーン車はハイパーレスキューのもので、地震災害などには威力を発揮するであろう。

Img_4588  訓練展示の最後は、恒例の一斉放水にて終了となった。同時に消防船や海上保安庁の消防艇も放水する。本年も大きな災害のないことを祈りつつ、訓練は終了となった。

(お誘いしていただきましたC.ジョニー様、現地でお世話になりました皆さん、ありがとうございました)

HARUNA

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京都府警察 年頭視閲式実施のお知らせ

2007-01-13 12:34:40 | 北大路機関 広報

■京都府警

 京都府警は、祇園祭、時代祭、葵祭といった世界中から多くの観光客が訪れる伝統的な祭事やまた国際会議場といった国賓の会議場もあり、高い警備能力を有している。

Img_3708_2 その年頭行事である視閲式が、来週月曜日、一月十五日、平安神宮(写真)付近において開催される。平日であり、また大学院の発表の関係もあり、非常に残念ながら、小生は撮影できないが、国立大学のようにやたら正月休みの長いとこや時間に余裕がある方は、京都観光を兼ね是非観覧をお勧めしたい。

 京都府警年頭視閲式とは、陸上自衛隊の観閲行進のようなもので、機動隊員や警察官、警備車両などが行進する。

Img_5237_1 特に近年、機動隊の銃器対策班にはワールドカップ警備を契機に導入されたMP-5J機関けん銃を装備している。特殊急襲部隊SATはMP-5Jの特殊仕様のものや一説にはその他の特殊銃(SD?89?M4?PSG-1?)を装備しているが、これはまず公開されない為(昨年北海道の11師団との演習は例外である)MP-5Jは貴重である。

 参考までに以下のHPを参照されたい。

■北大路機関

http://www.pref.kyoto.jp/fukei/kotu/kisei_k/rinji_kisei/sietu.htm

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東本願寺 平成の本堂大修復来年完了

2007-01-12 13:08:52 | 写真

■京都駅前に巨大航空機格納庫!?

 数年前だったか、友人のY氏が久々に京都へ訪れた際に京都駅を出た瞬間、「なにやら航空機用格納庫のようなものが」と言った。

Img_4247  高さ推定43㍍、幅90㍍、ボーイング747-400やエアバスA380充分収容できそうな巨大建造物が写真の通り、京都駅前、それも駅前にある京都タワーがしっかりとみえる徒歩五分のところに建っているのだ。無論、航空機工場でも格納庫でもない(小松左京の『こちらニッポン』で御所に着陸してたが・・・、まあ、堀川通りなら737クラスなら大丈夫やも!?)。何を隠そう、この巨大な建物は、東本願寺の本堂なのである。

Img_4254  これが本堂!、老朽化で堅牢な鉄筋コンクリート製建造物に立て替えたのか!?と一瞬途惑うが、実は、平成の大修復という改装工事の一環として行われているもので、写真は烏丸通を挟み、中央緑地帯の噴水越に撮影したのであるが、やはり目立つ大きさである。というのも、本堂自体、高さ38㍍、幅76㍍あり、中は927畳の大広間である。一般の六畳間や精々マンションで20畳、そんなところに927畳!(比べちゃイカンですね)、誰もがこんな広い部屋で一度は伸び伸びと暮らしたいものである・・・筈

Img_4221  さて、この東本願寺であるが真宗大谷派の本山で真宗本廟といわれる。堀川通に面した西本願寺と区別し、東本願寺と呼ばれるが、その始まりは1272年、親鸞の娘である覚信尼が東山大谷に仏堂を建て、親鸞の御影を安置したところからはじまる。大谷派は室町時代に大きな発展を遂げ、戦国時代にはその勢力は織田信長に対抗するまでになったが、破れ、急速に衰退の一途を辿った。しかし、豊臣秀吉の治世下で六条堀川に本願寺を再興した。

Img_4251  1602年には徳川家康が現在の土地を寄進し、此処に建立されたが、残念ながら度々火災の憂き目にあい、現在の東本願寺は全て明治時代の建築である。

 本堂は1895年に竣工し、真宗寺院の典型的な建築様式により建てられている。中央の本堂には親鸞の御影が安置され、そのとなりにやや小さい阿弥陀堂が建てられているのが特徴である。

Img_4227  本堂は修復のために大きな覆いが為されているが、その破損状況は虫食い(白華現象)、凍害や瓦の破損、建物自体を支える土居材への亀裂発生、経年劣化による萎縮、柱の傾き(左傾)、構造材への内障であり、これらの修復が今回の平成の大修復の主眼が置かれた部分である。

 この他、阿弥陀堂、御影堂門にもこうした破損もあったが、これらの修復は既に完了しているとのこと。

Img_4263  烏丸通の向かい側、自衛隊広報センター玄関前から撮影。東本願寺の大きさが判ると共に、その本堂の巨大さが一際目立っている。改修工事の完了は2008年であるが、こうした様子をみれるのも今後50年ほどは無いことを考えれば、ある意味貴重である。西本願寺の大修復は既に終了しているので、見比べてみるのも良かろう。東本願寺へは、京都駅より烏丸通を北へ徒歩五分である。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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