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【京都発幕間旅情】広島城,日本三大平城の“鯉城”は山陽山陰を結ぶ広島四十四万石の中心地

2017-04-05 20:18:13 | 旅行記
■広島城,夕暮れの探訪
 水の都広島、その中心部に位置する広島城は、毛利氏と福島氏がこの城郭を中心に広島の市街地を造営した城郭です。その壮大な城郭を夕暮れ時に少し散策してみました。

 広島城、毛利輝元がこの地に築き、福島正則が西日本有数の城郭として完成させた城郭です。日清戦争下では広島遷都が行われ短期間とはいえ日本の首都として機能し、第二次世界大戦末期、広島核攻撃により城郭は破壊されましたが、堅固な石垣は耐え今に至る。

 鯉城、在間城、当麻城、戦後1958年に再建された美しい城郭は様々な呼び名でしられています。広島を流れ広島の街となる三角州を生んだ太田川下流域を己斐浦といい、その平仮名の響きから鯉城と呼ばれているもので、名古屋城と岡山城と共に日本三大平城ともいう。

 安芸国に城郭が築かれたのは承久の乱が戦われた1221年に武将武田信光がその勲功から安芸国守護を任じられ、堀と塀を有する館を増築したことから始まりました、太田川流域には鎌倉以前にも砦等が構築された歴史はありますが、広島城の始祖は武田信光のようです。

 毛利輝元は安芸武田氏を打ち滅ぼし、それまでの居城吉田郡山城から広島城を本拠として移りました。吉田郡山城は安芸高田市吉田盆地を城下町として郡山を城郭化したものですが、毛利氏が尼子氏を打ち滅ぼし勢力を伸ばすと、居城としては手狭となってゆきました。

 安土桃山時代、中国地方を平定した毛利輝元は山陽地方と山陰地方を結ぶ要衝である広島へ、隷下の膨大な兵力の策源地として機能する城郭の造営に着手しますが、現在の広島城が完成する12年前にあたる1577年、この地は織田信長による中国攻めを受け戦火に曝されます。

 水軍六〇〇隻として充実した海上戦力を持つ毛利氏は当初有利に戦闘を展開しますが、織田軍は急遽志摩九鬼嘉隆へ大筒を搭載した鉄甲船の量産を命令、1578年の第二次木津川口会戦にて毛利水軍に大打撃を与え海上輸送路を喪失、全般戦勢が織田優位へ転換しました。

 本能寺の変はそのさなか1582年に起こり、織田信長は京都本能寺にて明智光秀に襲撃され無念の死を迎えますが、中国攻めを担った羽柴秀吉後の豊臣秀吉は急遽明智光秀討伐へ京都転進の必要に見舞われ、毛利輝元と和睦、歴史に残る中国大返しを敢行、成功しました。

 羽柴秀吉と期せずして和睦が成った毛利輝元はそのまま中国所領を任され、関白となった豊臣秀吉の招きを受け大坂城と聚楽第を目にする事となりました。大坂城と聚楽第は当時世界に例を視ない木造巨大天守閣を備えた城郭、毛利輝元の衝撃は如何程だったでしょう。

 1589年、毛利輝元は広島城天守閣の造営を命じます。これは大坂城と聚楽第を通じて、軍事拠点としての城郭は戦国時代の発想であり、豊臣氏天下統一成った安定の時代には城郭に政治的正統性と対外抑止力を誇示できる機能が必要だ、と悟った為なのかもしれません。

 比治築城構想が代替案としてありまして、こちらは広島市内比治山を城郭とするものです。実現していましたらば例えていうのならば織田信長の安土城のような方式、軍事施設としての防御を優先した城郭となっていたやもしれませんが、城下町の要地は限られています。

 福島正則は1600年、ここ広島城へ入城しました。毛利輝元は広島城造営途上、天下分け目の合戦となった関ヶ原の戦いにおいて敗北した西軍の一員であった為に長門国減封となりました。福島正則は秀吉腹心の部下賤ヶ岳七本槍の一人、築城名手として城を完成します。

 広島に入った福島正則は清洲24万石から広島44万石へと加増となり、更に水の都広島は、場門浦海戦にて朝鮮の名将李舜臣の奇襲を反撃打ち破った福島正則に相応しい居城だったのかもしれません。しかしそれも長くは無く、改易後晩年を信濃国川中島高井郡で過ごしました。

北大路機関:はるな くらま
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