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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

ミグ25函館亡命事件から40年【後篇】九月戦争の回避と法整備へ40年の遠い道のり

2016-09-24 22:15:28 | 北大路機関特別企画
■九月戦争回避と政治の限界
 函館に亡命したソ連最新鋭戦闘機MiG-25は、当初危惧されたソ連側の奪還作戦も実行されず、四十年前の今日9月24日、調査のために分解され、アメリカ空軍C-5輸送機により航空自衛隊百里基地へ移送されています。

ミ グ25函館亡命事件において、防空能力というハードウェアは新型戦闘機と早期警戒機の導入、その後の基地防空部隊の強化やレーダーサイトなど施設の地下化、様々な部分で進められましたが、法整備という部分では残念ながら40年を経て、今年安全保障関連法施行により多少は前進したといえるのですが、根本的な解決に至ったのか、と問われればまだまだ不十分な事例が山積しています。それは、防衛出動という事象、平和憲法下の我が国へ侵攻する勢力は、そもそも平和憲法制定時点ではアメリカ軍4個師団と第7艦隊に第5空軍が展開していたため、考える必要はなかった事象だったわけですが、ミグ25函館亡命事件は冷徹にその問いを突き立てました。

 第28普通科連隊、函館駐屯地に駐屯する第11師団隷下の連隊で青函地区北部の防衛警備を担当する普通科連隊です。冷戦時代、今日では想像さえ難しくなりましたが、北海道へソ連軍が侵攻する可能性は常に存在しており、74式戦車とT62戦車が戦車戦闘を展開する可能性は十分あったわけです。そうした意味で、有事の際には日本国家は防衛力である自衛隊を駆使し、交渉を超えた軍事力による恫喝に対しては毅然たる態度を執る姿勢が必要だったわけです。

 ソ連軍は太平洋艦隊が日本列島により蓋をされ日本海よりも外海にでることができません、ソ連海軍はアメリカ海軍に対し有事の際、もう少し太平洋の中央部で迎え撃ちたい、という視点とともにアメリカ本土近海に遊弋するアメリカ海軍戦略ミサイル原潜を無力化しなければ、絶対発見されずソ連側は手を出すこともできない聖域からソ連中枢部を制圧する能力がアメリカにはあり、これを大平洋への進出により打破し戦力的な均衡を求めていました。そもそも第二次世界大戦後、留萌から旭川の線以北をソ連側に編入する要求をスターリンは示しており、アメリカ軍は精鋭第7歩兵師団を北海道へ素早く駐屯させ、既に北海道千島列島と樺太まで侵攻したソ連軍の北海道島への上陸を阻止しました。

 太平洋へ。ソ連は間宮海峡と宗谷海峡北部を占領しましたが、冬季には流氷により使用不能となります、この際に穫れなかった北海道、冷戦時代には更に戦略上の要衝となった北海道において、函館は本州からの膨大な増援へ威力と物資、特に広や相模原の米軍物資を自衛隊へ供給し支える上で絶対不可欠な連絡線で、ここ函館にソ連軍スペツナズが降下したならば、もちろん、亡命戦闘機の奪還乃至破壊か、函館の占領か、という意味合いの違いは小さくはないのですが、第28普通科連隊は重大な決意を迫られることとなるのはいうまでもありません。具体的には、64式小銃と62式機銃により、これを排除し毅然とした姿勢を示さなければ、ソ連側に北海道割譲へ無抵抗の意志を示すこととなり、数年後に更に強い姿勢を以て北海道占領を試みる次の戦火へ道民600万を追い落とすこととなった可能性が、ある。

 この部分において、有事という平時の概念と制度の維持が不可能となる非常時、法哲学的にいう例外状態の成立に、対応できる法整備が為されたのは2003年の小泉内閣時代にはいってからの政治の怠惰があり、同盟国と同盟を活かした防衛任務を展開するための法制度は安倍内閣時代にようやく着手、ミグ25函館亡命事件から実に40年をへた2016年にようやく、その雛形が形成されたわけです。

 一方、防衛力が暴走するのではないかという世論の偏見、なぜならばそれは主権者である国民が防衛力を統制できる為政者を選挙民として国政へ送ることを怠った故の自らの影法師に怯えているのみなのですが、これにより防衛力に主体性を持たせず、長いモラトリアムを続けてきました。実際問題として、第28普通科連隊はソ連軍スペツナズ奇襲という確度の隊秋情報をうけ待機態勢を執っていたとされていますが、支援の61式戦車やL90機関砲の加入、その所要弾薬の集積など、連隊長や師団長ではなく、方面総監や陸幕での命令系統の上での行動であったことは考えられます。

 当時はまだ、戦後21年、そしてその事件から40年です。この奇襲事案への即応、という部分は防衛出動という政治手続きと、防衛上の要請との認識の離隔があることも確かで、これは続く栗栖統幕議長の超法規発言とその後の更迭、それ以前の自衛隊部内研究としての三矢研究など、有事への責任者たる当局者の検討を萎縮させ、苦肉の策として、有事法制は研究に止め、有事の際に防衛庁内局より閣議決定を経て国会に緊急法案として提出、有事の混乱の中、起こらないことが起こったのだからとの議論省略の上で有事法制を急速整備するという、当時の説明ではこのようなものでした。

 この施策、仕方ないとはいえ、平和主義を形式的に維持したが故の民主主義上の問題点をはらむ、いわば、平和主義は民主主義に優先する、という不可思議な概念を21世紀初頭まで醸成し続けてゆきました。ミグ25函館亡命事件へ、ハードウェアとソフトウェアにて突きつけられた課題は、前者については素早く解消されましたが、ソフトウェアとして法整備には、長い長い課題解決までの道がここを端緒として、始まったわけです。結果、第28普通科連隊の即応体制、という歴史は長らく関係者間の秘話として扱われ、実質的に我が国の制度はこの問題の視点をなかったものとして扱った。しかし、近年に入り徐々に関係者は当時の証言を様々な機会にて残すようになりました、こうした事象が再度起こらないよう、40年前のこの出来事は現在の安全保障におけるさまざまな事象についても、投げかけているのかもしれません。

北大路機関:はるな くらま
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