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【日曜特集】那覇基地航空祭-エアーフェスタ2011【3】CH-47J飛行展示(2011.12.11)

2019-04-21 20:10:52 | 航空自衛隊 装備名鑑
■那覇基地の歴史と共にあゆむ
 那覇基地航空祭、飛行展示が限られた年度故に少々間延び気味ですが那覇基地の歴史を話題としつつ当時の情景を紹介しましょう。

 那覇基地、安全保障や防衛問題に関心のない方々にとってみれば沖縄県といえば米軍基地との印象がありますが、当たり前ですが対領空侵犯措置任務に当っているのは航空自衛隊です。那覇基地第9航空団は当時第83航空隊として南西諸島防空任務に当っていました。

 第83航空隊は1973年10月16日に創設、F-104戦闘機やF-4EJ戦闘機を経て現在のF-15戦闘機へ機種転換しました。2016年1月30日に第83航空隊は飛行隊を増強し第9航空団へと拡大改編を受けました。もっとも新田原基地から一個飛行隊を引き抜いて、ですが。

 第83航空隊、1972年の沖縄返還とともに沖縄県という広大な空域を航空自衛隊は管区に返還されることとなり、まず茨城県百里基地より第207飛行隊を編入することとなります。第207飛行隊はF-104戦闘機を運用しています。F-104は基地の保存展示機として並ぶ。

 F-104は航空自衛隊初の超音速戦闘機ですが、飛行隊として1966年に創設されます。しかし、百里基地第7航空団はF-104を上回るF-4EJ戦闘機のマザースコードロン、つまりは最初の飛行隊として続く飛行隊の要員を練成する拠点部隊が置かれることとなりました。

 第207飛行隊は余裕が生まれまして、F-104戦闘機ごと南西諸島へ転地される事となりました、当時の戦闘機は現代の陸海空情報を包括管理し戦域優勢への統合第一線端末、というような大げさなものではなかったため、飛行隊単位で毎年戦闘機を量産できた時代です。

 1973年1月1日より第207飛行隊は第83航空隊隷下部隊としてアラート待機を開始しました。那覇基地は在日米軍の訓練空域と重複する空域が多く、そのために難渋することも多いということなのですが、それでも航空自衛隊戦技競技会では優勝する事も少なくない。

 戦技競技会優勝という、第207飛行隊は優秀な飛行隊といえたわけです。しかし1986年にはF-104戦闘機の老朽化もあり部隊廃止となりました。こうして沖縄県の防空はその後継機となるF-4EJファントムへと受け継がれてゆくわけでして更にF-15イーグルへと続く。

 沖縄の防空を一手に担う、これは一大防衛事業でもあり、1972年5月15日の沖縄返還に先だって自衛隊は綿密な準備を行います、8月1日には臨時沖縄派遣隊を編成、10月11日にはこの派遣隊を拡大改編する形で南西諸島の防空は各部隊創設準備の臨時部隊へ改編が。

 臨時那覇基地隊、臨時第83航空隊、臨時警戒管制隊に臨時管制隊と臨時救難隊、臨時部隊を順次創設します。受け入れ準備が完了した時点で11月10日にF-104が轟音とともに那覇基地へ到着しました。翌年元日にはF-104の第207飛行隊が実任務体制へ移行します。

 F-104の第207飛行隊はこうして、対領空侵犯措置任務アラート待機へ移行したことは前述の通り。防空任務は更に1973年2月15日に高射訓練隊というかたちで那覇と知念および恩納に分屯基地を開き、同年10月16日、これら部隊を正式に部隊新編へ移行しました。

 南西方面航空混成団、南西航空警戒管制隊、第5高射群、那覇基地隊、と再編、こうして沖縄防空の体制は編成完結しました。F-4戦闘機、ファントムは中距離空対空ミサイルも運用可能、1985年に配備されました。千歳基地の第302飛行隊が那覇に移駐したのです。

 この千歳基地は北海道のソ連にもっとも近い戦闘機部隊基地、そして1981年から航空自衛隊へは現在も主力戦闘機の座に輝くF-15戦闘機の配備が開始されており、千歳基地はF-15戦闘機を必要としていました。F-15は迎撃よりも制空権確保が目的の高性能戦闘機です。

 このため、第302飛行隊は旧式となったF-4を運用していた関係もあり、もう少し安全な、安全というのも当時中国空軍には沖縄を戦闘行動半径に含めた戦闘機を全く持っておらず、ソ連海軍は軽空母しか有していませんので戦闘機の脅威が無い上に、地域が安定していた。

 在比米軍と在沖米軍が防備を固めている当時、F-4戦闘機でも南西諸島の防空は安泰、という考え方があったのですね。第302飛行隊は航空自衛隊史のなかでも転換点となる事案に直面した飛行隊でもあります。もともと飛行隊は1974年に千歳基地で創設されました。

 第302飛行隊は編成完結を経て1975年からアラート待機に移行しましたが、1976年9月6日の緊急発進にさいし国籍不明期が突如高度を下げ低空を函館空港に緊急着陸するという事件が発生、マッハ3を越えるソ連最新鋭戦闘機MiG25函館亡命事件が発生しました。

 このMiG-25函館亡命事件はソ連群特殊部隊が戦闘機機密維持の任務により函館へ強襲する準備があるとのアメリカ情報があったとされ、航空自衛隊は津軽海峡上空の24時間戦闘空中哨戒CAPを開始、函館駐屯地第28普通科連隊が即応体制を維持し、最大限の警戒が敷かれた。

 北海道全域が、第11師団と第1戦車団も待機体制をとったといわれ、海上自衛隊はソ連船の津軽海峡周辺遊弋をうけ護衛艦と駆潜艇や掃海艇を常駐させ警戒を強化、東北方面隊も津軽地区警戒強化という極めて緊迫した状況となりました。この一件は調べてみますと興味深い話が多い。

 第302飛行隊はこの日ソ関係が最大の緊張度を帯びたMiG-25函館亡命事件の最初の緊急発進を行った部隊だったのですね。那覇基地へ移転した第302飛行隊は、1987年12月9日、ソ連領空侵犯機警告射撃を実施します。緊急発進し実弾で警告を行ったということ。

 自衛隊史上初と成る実弾によるソ連機への警告射撃はTu-16偵察機が繰り返し領空侵犯を実施したため、繰り返し領空外退去を求め、進路上を領空外に誘導を試みるものの、沖縄本島上空に侵入、緊急発進機は南西方面航空混成団司令部へ警告射撃の許可をもとめた。

 正式に警告射撃実施が命令、自衛隊発の警告射撃が二回にわたり実施されました。那覇基地では強制着陸に備え64式小銃を準備しソ連捕虜に備えましたが、Tu-16はそのまま着陸を拒み領空外に、その後先島諸島上空を領空侵犯した後にソ連本土方面へ飛去りました。

 本事案は在日米軍も支援体制をとっていたといい、その後Tu-16は北朝鮮平壌近郊の空軍基地へ着陸しています。しかし、日本政府は過去に例がないほどの厳しい態度でソ連に抗議し、ソ連国防省はTu-16領空侵犯機操縦要員の階級降格と航空機搭乗禁止を行いました。

 ソ連側はTu-16領空侵犯について、計器故障による領空侵犯であり故意ではないと強調しましたが、アメリカメディアを中心にソ連航空機は沖縄本島さえ確認できない地紋飛行能力の欠如を皮肉る報道を行い、結果的にソ連側はその威信を落とすこととなっています。

 幸い今日まで続く警告射撃の事案は発生していませんが、今日、沖縄周辺空域は中国からの国籍不明機が多数接近し、冷戦時代の北海道を越える緊張の空となっています。実際問題、最盛期は一日の航空祭で七回とか八回の緊急発進が離陸してゆくという状況になる。

 何故沖縄県だけ、という印象は無いでもないですが、師団規模の着上陸を想定する必要があり自衛隊が四個師団で北海道の防備を固めた冷戦時代の北海道程は緊張状態にはありません。しかし、国境に近い都道府県というものは周辺情勢の影響に直面するようですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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2 コメント

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Unknown (パラベラム9)
2019-04-22 14:56:59
那覇基地まで行かれていたんですか!
お疲れ様です。
ちなみに僕は昨日、徳島航空基地に行っていました。
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Unknown (はるな 管理人)
2019-04-30 17:27:38
パラベラム9 様

那覇、良いところでした

ところで徳島航空基地、なにかありましたっけ?徳島というと徳島駅ビルのステーキが美味しかった思い出が、また行きたいですね
返信する

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