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【京都幕間旅情】虚空蔵尊法輪寺,京都十三仏霊場十三番は多宝塔の俯瞰風景に渡月橋の絶景

2018-05-16 20:06:45 | 写真
■嵐山法輪寺は渡月橋を望む
 嵐山の渡月橋は京都の一つの日常風景です。本日はその渡月橋からの情景をひとつ紹介しましょう。

 虚空蔵尊法輪寺、西京区嵐山虚空蔵山にある真言宗の寺院です。嵐山の渡月橋を望む際、その借景に聳える峰々の一つに朱色の多宝塔が都情緒を醸し出している事に気付かされますが、ここが法輪寺、即ち嵐山の象徴的な情景に必ず描かれている周知の寺院といえます。

 日本三大虚空蔵とされる本尊に虚空蔵菩薩を奉じ京都十三仏霊場十三番、本殿には重要文化財として木造持国天多聞天立像を安置しています。そして、今昔物語集、枕草子、平家物語、我が国名だたる古典文学にもその名は記され、古くから親しまれた寺院の一つです。

 法輪寺、とこの名を冠する寺院は全国に多々ありますが、長い長い石段の参道を歩むとともに、さて嵐山の渡月橋と共に見上げる多宝塔を、その袂から俯瞰する嵐山の情景はどのようなものか、と少し心躍る。成る程、渡月橋は渡るもの、中々俯瞰風景には収まらない。

 行基が元明天皇の勅願を受け建立した、と寺伝には伝わります。創建は平安遷都よりもさらに奈良時代、和銅年間の713年まで遡り、創建当時は葛井寺と称し、国家体制が漸く全土へ至った草創期の我が国、国家安穏五穀豊穣産業興隆祈願の祈祷所となっていました。

 嵐山は阪急電鉄嵐山線敷設前には、文字通り京都の奥座敷として知る人ぞ知る、という立地でありましたが、一時喧噪に呑み込まれ、今日では喧騒が国際色豊かに騒擾とまでは行かぬものの、十年前ならば多少感じられた静寂が失われているよう思えるのは気のせいか。

 愛宕山を望む嵐山ですが、愛宕山の峰に在る愛宕神社などは戦前一時鋼索鉄道まで敷設され観光地化したものの、戦時中の鋼材供出を契機に戦後敢えて再建せず、修験に至る静寂を取り戻したという事例を思い出し、無心に頂に上る石段が敢えて有り難く感じたもの。

 空海の弟子にあたる道昌が、ここ法輪寺に次の一幕を綴ります。東大寺にて得度と受戒した後、神護寺にて空海に真言密教を学び灌頂を受けた同年、葛井寺へ虚空蔵菩薩像を安置します。葛井寺は当時荒廃しており、その再興にご本尊の交代は当時に多々あったもよう。

 貞観年間の868年、葛井寺は寺号を法輪寺と称した、と寺伝は続きます。貞観年間は、歴史上最大の津波が三陸地方を襲う千年前の東北地方太平洋地震、歴史上最大の噴火が生じ富士湖が富士五湖に分かれた古富士噴火、日本中災厄が続いた過去千年で最悪の数年間だ。

 京都の寺社仏閣を拝観し、その歴史に触れますと、やはり貞観年間を機に建立された祈祷所や造営の伽藍等が多いことに気付かされます。当時奈良時代、律令国家としての国家運営が本格化し、徴税はじめ租庸調の原初国家体系完成後初めての大災害だったのでしょう。

 富士貞観噴火等は奈良時代に富士湖が溶岩流により呑み込まれ五つに割れた故、この地域での居住は当面不可能である旨の朝廷への報告が記録されています。千年前の東北地方太平洋地震はやはり貞観地震として朝廷に記録があり、多賀城鎮守府の被害を伝えています。

 しかし、法輪寺へと改めた寺域も、祈願所としての機能も、そののち平安朝の時代にはその名の通り平安を迎え、鎌倉時代にも安穏と信仰に修験の時代が続きます。この安寧が破られたのが、やはり、室町時代の争乱、応仁の乱です。都大路から遠いこの地へも戦災が。

 江戸時代にはいり後陽成天皇の請願を受け再建されました法輪寺は京都十三仏霊場十三番と日本三大虚空蔵として参詣者を集めましたが、幕末元治元年、即ち1864年禁門の変に局地戦の被害に遭う。明治時代再建され、電気電波鎮守社の電電宮も建立、今日に至ります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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