気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(6)倶知安の啄木歌碑・レルヒの碑など

2015-10-06 21:08:44 | 日記
歌棄の江差追分の碑や鰊御殿「佐藤家」を後にして、磯谷を経由し、ニセコ町、倶知安駅に着いた。ここでは石川啄木の歌碑がある。啄木の歌碑は小樽・岩見沢の北村、札幌、そして地元の箱館公園の歌碑を見たり、釧路では彼の記念館である「弘文館」により、少しではあるが、彼の豊かな感性に触れてきたという思い・・・。
倶知安駅の隣にある交番の横に歌碑があり、さらに、歌碑の横には碑文がある。
石川啄木の短歌

  『真夜中の 倶知安驛に下りゆきし
          女の鬢の古き痍(きず)あと』

碑文には
『石川啄木は函館から小樽に向かう列車で真夜中の倶知安を通ったのは、明治四十年(一九〇七)九月十四日の午前一時過ぎである。
啄木はこの時の温床を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年十二月)に収められた。
鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は実景であったのか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として創り出したものであったのかは、定かではない。
 当時の倶知安村は、開墾か始まって十五年たったばかりであった。・・・(略・・・)』と刻まれている。
また、倶知安駅には「カラフルな牛」や「日本一の水」があり、倶知安町のキャラクター「ジャガ太くん」が美味しい水の水飲み場になっている。



安政の探検家である松浦武四郎はこの地域に歌碑を残している。(以前、白川建設の敷地にある歌碑を訪ねた。)彼の著書「西蝦夷日誌」には尻別川上流を丸木舟で渡ったときに『クッシャニブト(倶知安川口)・・・水勢吼ごとし。雪解水にて濁れり。・・・』歌を詠んでいる。(この歌碑が建設会社の敷地にある。
『あやうしと しりべつ川の 白波を 命にかけて  けふわたりけり』
歌碑写真

倶知安町市街地にあるさくら公園へと行き、「倶知安草分けの地」石碑を訪ねた。
公園は子供たちが野球をして、帰るところであった。子供の遊び場には丁度いいな・・・
石碑の台座には倶知安開拓の先人の苦労が読み取れる。

『原始林に覆われた倶知安原野に明治25年5月二木宇蔵氏と先達とした一行16名が丹生治、クトサン川筋(ここから南約400M)の猟小屋いたどりつき一夜を明かし、翌日から開墾の鍬入れを行った。
 その後、開拓が進むにつれ、この管理人として赴任したのが宮脇 意氏(のちに初代倶知安町長)であった。』
      昭和50年11月3日 倶知安町文化財保護調査委員会   と説明碑文より

さくら公園の近くにスキーのレルヒ中佐の像がある。

『オーストリア國武官てテオドール・アオン・レルヒ中佐は明治四十三年、日本に派遣され、二年に亘って我国将校達に一本杖によるスキーの指導を行った。
 明治四十五年四月十五日に旭川市第七師団将校等を伴い來町したレルヒ中佐は、十六日に旭ヶ丘附近にて町民にスキー練習を公開し、翌十七日には、エゾ冨士と言われる秀峰羊蹄山(一八九三M)にスキー登頂を挑んだ。
(中略・・・)急峻と零下三十度の酷寒、しかも視界零に近い猛吹雪に見舞われる中で九時間余りを費やして登頂に成功し、全員無事帰省した。
「スキー」の町」を宣言する倶知安町は昭和六十一年二月に本町において開催される第四十一回国民体育大会冬季大会スキー競技会を雨にして、レルヒ中佐一行の壮挙を記念するとともに、日本文化を理解し、生涯を通して日本をこよなく愛したレルヒ中佐に深い敬慕の念を持って記念公園を建設、併せて、有志一同は浄財を募ってレルヒ像を建立し、我が国「スキーの父」の功績を永遠に讃えることにした。』と説明。

レルヒ記念公園からの後方尻別山(羊蹄山)


次に、有島武郎の地へ向かった。