気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

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天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(5)寿都・歌棄の江差追分歌碑や鰊御殿佐藤家

2015-10-04 22:14:08 | 日記
(9月22日の続き)
黒松内、作開から磯谷方面に海岸沿いに進み、「有戸」という地域に江差追分の歌碑・神社・鰊御殿「佐藤家」がある。

有戸あたりについて、松浦武四郎著「西蝦夷日誌」の「ヲタスツ〔歌棄〕領」に記述がある
『黒松内渡をこへ、、去年人家三軒立たり。山の端八九丁過、新坂(九折、三四丁)・・・西南を眺ば、陰森たる木立中、スッツ別(朱太川)蜿轉屈曲して流、是を隔てカニカン岳・シコマキ岳連り、眺望目覚ましき事也。・・・・此邊奇石多し。灣よき故に號く。エナヲシュマ(岩岬)、番屋(戒社)有。過ぎてアリウトル〔有戸〕(岩岬、番屋、蔵)モエアシュマ(小湾)、シレエトナイ(小川)、シレエト(小岬)、皆人家つづき。廻りてトマリ・・・
ヲタスツ〔歌棄〕運上屋(通行や、備米蔵、板蔵八、漁小や、辨天、いなり)』と周辺地の調査を記録に残している。
海側の平坦な地(岩磯)に江差追分の歌碑(高さ数メートル)が建っている。

『忍路高島 およびもないが  せめて歌棄磯谷まで・・・』全国的にも有名な追分である。

 当時女人禁制の積丹の神威岬の先にある忍路や高島の漁場には行けないが・・・せめて積丹半島の手前の磯谷あたりまで行きたいものだ・・・という切ない思いの歌。うろ覚えではあるが、昔、アイヌの人との取り決めで、女の人は忍路や高島までは連れて行ってはいけない・・・という(漁をするには神の許しがでないということなのか・・・)
因みに、積丹の女人禁制の門(2006年に撮影)


歌碑の横にある鳥居と小さな神社

国道を挟んで、北海道指定文化財である鰊御殿「佐藤家」がある。

有形文化財佐藤家の説明版

『漁場建築    佐藤家
 所在地     寿都郡寿都町字歌棄
 指定年月日   昭和四三年三月二十九日
 管理者     寿都町
角十(※ 私の技術では屋号:□の中に十・・・屋号文字表記不可だった)佐藤家は嘉永五年(一八五二)以降,ウタスツイソヤ、二場所請負人を勤め歌棄場所から、黒松内に至る十六キロ余りの道路、磯谷の能津登りから岩内場所と境界アブシタまで四キロ余の道路を私費をもって開削し、苗字、帯刀を許された。
定右衛門、栄右衛門父子の系図である。
また、ニシン漁獲峰の改善を心がけ、行成網を導入してニシン漁の急速の発展に尽くし、維新後は駅逓取扱人を命ぜられ、当地方随一の名家である。
 この建物は主屋は間口二四、三メートル、奥行き一八メートルの二階建で、よせ棟やに西洋風下見張、二階正面に櫛形ぺジメントの付いた上げ下げガラス窓、呈根の大棟をまたいて洋風の六角形の煙出し、その背後に和風の切り妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風の入り混じった折衷のスタイルの外相をもっている。
また、ニシン場建築に見る漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。
建築の完成年代は外形の洋風建築様式からみて、常識的に明治一〇年から二〇年の間の建築と思われる。
旧態の保存状態が良好である上、建築年代規模意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。
   平成二年四月  寿都町教育委員会』

和洋折衷の煙出し
  六角形の方
 
  切り妻の方

佐藤家の横に北海道建網  漁業発祥の地石碑がある

私たちは次に磯谷からニセコ方面に向かった。