気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

天候に誘われて:ぶらり温泉行きが~史跡めぐりに(3)黒松内発祥の地

2015-09-26 22:15:43 | 日記
気ままな史跡探訪になってしまったが、長万部陣屋跡から黒松内に向かう途中、二股温泉への道がある。今回、秘湯の「二股温泉」には寄らなかったが、私の持っている松浦武四郎著「東蝦夷日誌」には彼が「二股温泉」に浴したことが記録されている。(浴した・・・と言っても、現在のように温泉の建物などは勿論なく、温泉に入るという感覚ではない。記録には
『(紋別川を遡る。※道東の紋別ではなく、国縫の中の沢付近にある川。ワルイ川という川もある)ワッカタレナイ(右小川)ヘタス(二股)両方共、源はカニカン岳に至る。所々に温泉所有。瘡(かさ)、切傷、眼病、こしけ等に宜しく、此邊の土人、君縫、ヲシャマンベ(長萬部)川筋等より上えう。・・・・春堅雪の比に余はモベツより、上がりしが、温泉近く迄行きて泊たり。ここに小屋を作り宿す。又浴る處も無き故に、俵笆を小川に敷て其の上に臥して温もるなり。其の温もり方他方に類なく實に奇とすべし。』と書いているので、彼は今流岩盤浴をしていたということか・・・と思った。
黒松内について、彼は
『左黒松内川を眺め、下りて風栗(ぶな)の木( ) 、是ぶな多が故號く。
後ろウタサイ(丸山)と云山有(※ 黒松内岳のことか・・・と私思うが・・・?)
クロマツナイ(川幅二十間餘、船渡壹人(一人)十三文。此の川、スツゞ(寿都)に落る。人家(當所切開人
利右衛門宅有。旅籠、木賃泊りをす。・・・近年、此川をアブタ(虻田)、ヲタスツ(歌棄)の界とす』と書いてある。
私達は黒松内市街地の「みどり橋」の附近にある「黒松内発祥の地」の石碑を探しに向った。
橋の前後の付近を捜したが、石碑らしきものは見当たらず、橋の側にある民家の広場に墓石らしきものが2基みえたが、その家のご先祖の墓かと思い、どこか・・・とウロウロし、消防署があったので、地理に詳しいと思い、うかがった。しばらくして、橋のたもとにある・・・と。実は私達が墓石と思ったのが目的の「黒松内発想の地」の石碑だったのだ。
目印のみどり橋

黒松内発祥之地跡碑と初代戸長役場跡地之碑

石碑のある景色

黒松内について、松浦武四郎は「東蝦夷日誌」
『春分、出稼ぎの往来する此は毎夜五六百人ヅゝ止宿する也。』(切り開き人利右衛門宅に泊まっている。)
黒松内の開基は1871年伊達邦成の家臣13戸が黒松内に入り、また、斗南藩士24戸が作開に、山本玉吉他数戸が白炭にそれぞれ入植したこと・・・とのこと。
町名の由来はアイヌ語の「クル・マツ・ナイ」和人の女のいる沢。
また、斗南藩といえば、会津藩が新政府軍に敗れ、青森の下北半島に逃れるように・・・行ったと記憶している。