気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

日高町 石の道しるべなど探訪 2013年10月16日

2013-11-11 22:55:14 | 旅行
何度か日高方面に来ているが、数年前に通った際、沙流川沿いの紅葉の美しさが印象に残っていたので、紅葉の見ごろでは・・・と来たが、丁度台風が関東に接近の時で、日高も大雨に見舞われた。(ホテルの予約も取っていたこともあり・・・)
国道237号を北上・・・。
日高道の駅「樹海ロード」に着いた頃は雨が霙に変わってきて「日勝峠は通行止め」となっていた。道の駅には十勝方面に戻れないという方が数人、仕事で来られた方など連絡を取っている方もいた。
私たちは映画「鉄道員(ぽっぽや)」のロケで使われたという幾寅駅(映画では幌舞駅・・・と)まで行って見ようか・・・と日高峠へ進んだが占冠の町に入る所に来てこの地も雪になり、夏タイヤなので、日高町へ戻った。町に入る分岐点で、交通整理の職員さんに「どちらの方に行きますか?」と聞かれて「日高の町・・・」って答えたら、日勝峠は通れません・・・「千栄まで、です・・・」でOKが出ました。
 私の相棒は日高のチロロの巨石を見たいと場所を調べていたことと、以前、札幌の駅構内にある北海道各地の旅情報のコーナーから日高に関する資料を集めていたので「HIDAKA GUID MAP」の資料を見て、その中から日高地区の歴史探訪「石の道しるべ」が8か所、マップを頼りに訪ねた。(後で気が付いたが、千栄神社の横を通過したのですが・・・この神社も8箇所の一つだったのでしたが、寄らずに帰ってきてしまった・・・残念!)
最初は、日勝峠に向かって走行し、チロロ橋を渡り、右折してしばし平坦な林道?を進む。途中民家があり、バス停がそのお宅の苗字がバス駅名となっていた・・・(凄い!)。釣り堀もあるよう・・・行き止まりは「北戸蔦別登山口となっている。
チロロの巨石

この石の大きさの測定は不明・・・兎に角大きい。(後で調べると横6メートル、重さ200トンあるとのこと。)
説明には『昭和40年代北海道開拓団団長の栗林基次郎(八紘学園理事長)が巨費を投じて千呂露川流搬出した日本一大きいと伝えらる日高青色片岩です。』ヒスイの沢(ペンケユフトラシナイ沢)の奥から久保内、高野、村上3氏によって美しいねフライト様岩石が発見され、やがて番場博士によって北海道でただ一か所のクロム透輝石ヒスイ=日高ヒスイと提言された・・・ということ。草緑色の高貴な色調を誇る日高ヒスイは太古の海から誕生した日高山脈の歴史を私たちに語りかける様です・・・と説明版がある。

石の道しるべマップはイラスト入りであるが、ピンポイントで道しるべを探すのは結構ルートが分からず・・・。
三島小学校跡と校門の証か・・コンクリート支柱が草に埋もれて見えた。(写真○囲み)
    
大正七年福島県伊達郡下の北海道移住団十五戸(福島団体)が入植。その後の太平洋戦争時、三井鉱業がこの地でクロームの採鉱を行う。福島と三井の二文字を取って「三島」と呼称す。これら子弟教育の場として、昭和二十二年九月千栄小学校三島分校を設置したが、翌年七月この地に移転。昭和二十四年四月三島小学校として独立。・・・その後児童数の減少により昭和四十九年三月を以て千栄小学校に統合した・・・平成六年九月建立・日高町と刻まれている。
この石碑は雑草と雑木林の中で見えにくかったが、少しの平地に発見。廃校になった所は何箇所か見たことがあるが、ここで学んだ卒業生は当時楽しく遊んだり、自然の中を走り回ったり・・・いろいろな思い出があったでしょうね・・・私の小学校も移転して新しい校舎になって思い出の校門やグランドの面影もありません・・・。
この学校跡の付近に、三井鉱山の火薬庫が現存しているということでしたが、火薬庫は発見できなかった。

宇佐津富(ウシャップ)の標柱跡
『明治5年 開拓使属史の一之瀬長春は北海道庁の命により岩知志を起点として左右府地域を経て金山(かなやま)に向かうルートの測量を行った。標木を建てながら沙流川沿い猟道をたどり、2月26日、この地点に本町の旧名である「ウシャップ」の標木を初めて建てた。「跋渉日記抄」には「夜寒堪え難く、平地北東に開けて幾里なるを知らず。標下に小家九軒あり。男女ここに来集す。」と当時の様子が記されている』
 
沙流川流送発祥の地とさんご渓谷散策コース案内
    
『沙流川流域原生林の伐採、流送という大事業に挑んだ坂本竹次郎は、明治四十二年、始めてこの場所から材木を浮かべ、遠く太平洋岸へ送り出した。かって林業の町として栄えた飯高町発展の歴史の始まりである。・・・』材木を筏に組んでこれに乗って現在の富川まで送り届ける役をしたのは越中(富山)など本州からの熟練者であったということが刻まれていた。
また、その石の道しるべのすぐ横にさんご渓谷散策のコース案内看板が立ってあるが、林道への道には通行止めの柵があった・・・勿論、大雨のため散策は出来なかった。
ドッコイの渡船場跡

『明治四十一年、夏川政五郎は開拓者の 便のため丸木舟を作り、針金を張り、左右府と前場を開設。後に公設となり、奥村ドッコイこれを漕ぐ。当時の渡し賃 大人二銭
ドッコイの舟歌 今も 川底から 聞こゆるか。』とある。平成七年九月建立 日高町
ウシャップラム古戦場

『伝説によると、この丘の上あたりで東と西のアイヌが戦った。敗走する兵が沙流川を地に染めながら叫んだという。「ウシャプラム!ウシャップラム!(追われるから逃げろ」が本町の旧名「右左府(ウシャップ)の由来の一つと云われている』とのこと平成七年九月建立

沙流川河畔遺物出土地帯

激しい雨で石碑は沼のようになって近寄れなかった・・・
石はすべて日高特産の石が使われている。
お世話になった沙流川温泉ひだか高原荘と翌朝のホテルから見えた紅葉と雪で白くなっている山
   
岩内不動と不動の滝

国道237号線沿いの岩知志ダム付近。「岩内園地」の向かい側に石の道しるべがある。
『此の地は断崖屹立して古来難路として知られたが、町内閉山寺の開創定賢和尚が夢に天女の舞う水音を聞いて、この滝に旅人の安全を祈ったと伝えられる。以来、いつしか里人らより集いて盤座に不動尊をまつり、豊穣と安全を祈って今に続いている。この願い、白く天女の毎に躍って天に昇るか。』と書いてある。滝の高さはあまり高さがあるとは言えない滝で、アバウトで3m位あるか・・・滝の横の崖下には祠が鎮座している。