気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

にしん街道で見た松浦武四郎の西蝦夷日誌の記録と江差の百印百詩の酒

2013-11-19 18:46:25 | 日記
安政の探検家であり、北海道の名付け親である松浦武四郎は渡島半島の八雲にある由追稲荷神社に通行の度、旅の安全を祈願している。その八雲に2か所彼の足跡や木柱があるということを厚真町のアツマ食品会社を訪れた際いただいた北海道地図に印が2個あったので、調べて行った。
まず、国道5号線沿いにある八雲の稲荷神社に寄る。ここは何度か見ている場所で以前の写真は立派になった神社の石柱で「松浦武四郎の説明」の案内板が石柱の陰になって正面からは見えにくかったが、今回訪ねた時には説明版が半分に途切れることなく撮影ができた。個人的には内心満足している。
神社の向かい側は蝦夷地との境目になる関所があった所。
関所風の建物(山越中央会館)と当時の会所の井戸や山越内関所跡の石碑などがある。
日本最北の山越内関所と会所の井戸
   
東蝦夷日誌の「山越内領」には
『爰に境の稲荷と云有。余はいつも捧物をなし、道中の安全を祈りて入けるに、・・・一首書附けたりける。』と歌を詠んでいる。
新しくなった稲荷神社の鳥居と松浦武四郎の説明版がある。(説明版は右側の石柱の横)

また、八雲の付近のことについての記載には君縫、此の邊シャクシャインの古戦場なりと云うり。過てクンヌイ(君縫・國縫)(川幅七八間、船わたし、夷家有・・・。と。八雲から長万部付近についての記録もある。また、黒岩について・・・クンネシマ(大岩、黒岩と云う。是に白木玉石附たり。其小粒なるは透明し、可ㇾ弄物なり・・・。詩を残している。
   旅人の 手をばなれそ 岩床に 神在せりと えなを立てたり
八雲市街地を過ぎて、雲石峠に向かった。時期であれば紅葉が美しい峠でもあり、かつて温泉マニアだったころには、峠の下ったところにある見市温泉に来たこともあった。「渡島日誌」には見市川すじのことや平田内温泉のことも書いてある。
興味深いのは・・・西蝦夷日誌にある熊石について、『余は(安政三四月十一日陸行す。扨其熊石村たる哉、漁檐櫛比、帆竿は排立,棹歌互答、漁業の壮なること眞に宇宙之壮観也。其熊石も本命はクマウシにして、魚棚多との訛りなりし也。村人は夷言たることを忘れて、雲石とて雲のごとき石有故故號といへり。』と熊石、雲石のことが書かれている。
  ここでは   ふみわくる 岩根そばだち けだものの 住かもしるき 熊石の里  と云う和歌を詠んでいる。

にしん街道の熊石の木柱は、峠を降りて国道229号線にあった。日本海側を通るときにはこの道を通っていたはずである。交差点にある民宿Kにも宿泊したことがあったのに・・・気付かなかった。

にしん街道熊石は平成19年にライオンズクラブが設立している。
説明版には
『ここ八雲の熊石は「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸の町の一つです。道南の町のなかでも漁獲量が多く「にしん万石場所」と云われていました。一八四五年四月、漁の最盛期に熊石を訪れた探検家「松浦武四郎」漁家が連立し、船の帆柱やにしんを干す竿が立ち並び、沖と岸を行き交う船の人たちのはやし声が村中に響くという活況は「真に宇宙の壮観也」と西蝦夷日誌に記載してます。・・・(略)にしんルネサンス事業はにしんで栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結び「にしん街道」を楽しませてくれます。』平成十九年十二月吉日  北海道二海郡八雲町鮎川町内会  とあります。

熊石からにしんで栄えた江差へと向かった。
                   説明には『北海道日本海沿岸においては、北前船の交易によって大きく反映し、十八世紀半ばのにしん漁最盛期には多くの廻船問屋と土蔵が連ねて立ち並び「江差の五月は江戸にもない」と云われ、歴史を今に伝わる数々の郷土民芸や建物をこの地にもたらしました。
そこで、今一度、日本海沿岸の市町村を支えた「にしん」に、歴史・文化等多方面からもスポットをあて、当たらな産業や観光資源の創出を目的にアック朝で「にしん街道」の標柱を設置することにより、往時の繁栄されていたころの「にしん文化」を再びよみがえらせ、後世に引き継ぐ・・・』
ここは平成17年10月江差観光コンベンション協会が建立している。

江差は松浦武四郎が滞在し、頼三樹三郎と「百印百詩」を読んだ地でもある。それに因んだお酒があるというので、当時を偲ばせるような街並みを探した。
見つかりました。家屋の屋根に「百印百詩」の大きな看板が乗ってました。
   
早速店に入り、このお酒のことで・・・伺ったことを話すと、気持ちよく、見せていただいた。
額縁入りの説明がとてもきれいな文字だったので、伺うと、ご主人のご姉妹が書道の先生をされていて書いたということでした。写真に撮らせてもらった。その説明には『酒名の由来』が書かれており、江戸後期の儒学者頼三陽の第三子、三樹三郎が江差に来遊した折に、探検家松浦武四郎と会い、意気投合しし、武四郎は三樹三郎を支援するため豪商・齋藤鷗洲と江差の文化人と山の上雲石楼で一日百印百詩の会を催した。両者の創作の場に居合わせた豪商や文化人は一詩一印に酔い互いに酒を酌み交わしたであろう往時をしのび、文化の香り江差より真心を込めて純米吟醸酒「百印百詩」をお届けいたしたく存じます。」と書かれています。
吉田酒店ではコロッケも販売しており、揚げたてのコロッケをいただいた。
また、江差の街並みを昔風(ニシンで栄えた頃のイメージでしょうか・・・)に建て替えたときの経緯や御苦労などもお話いただいた。
松浦武四郎の「百印百詩」石碑のある小公園を再訪した。