7月2日、千歳のホテルを出発し、国道36号線を苫小牧方面に進む。室蘭の市街地から崎守町にある振興センターの建物を探す。港の倉庫街や資材置き場の中を迷ったが、見つけることができた。
松浦武四郎著、吉田常吉編「蝦夷日誌 上」東蝦夷日誌には有珠や長流川について記述した後に『川を越、赤土坂上り、檞(ね)柏(ぎ)原しばし過下りて(十八丁)モロラン「室蘭」(會所・通行屋や勤番所。調役邸・板蔵・御備米蔵・辨天社。永住はたごや・・・出稼ぎ等多し)西南向き、砂原に対し毎日乗合船出る。(海上七里)頗る辦(便)利也。土人多し。・・・』と渡島半島の砂原と室蘭の海上交通について書いてある。
また、地名について『モロランは小路ナル義ニテ、小または静也。ルは道、ランは下がる義也。小路を下るという也。昔し、山道なく、是よりエトモへ船にてこへる。』とある。(森町の駅近くに旧桟橋がある。「日本奥地紀行」のイザベラバードもこの航路を使っている。
振興センターの入り口の横に大きな説明版には『ムロランはもともとアイヌ語に源を発する地名で「モロラン」と呼ばれていた。』(中略)「室蘭」の名付け親は松浦武四郎(一八一八~一八八八年)である。六回に及ぶ蝦夷地探検の際一八四五年には噴火湾沿岸を調査し、さらに明治二年(一八六九)に明治政府の開拓判官となって「北海道」と命名、また道内の国郡名選定を行う。
振振興センター
振興センター横の説明左下にモロラン会所の絵がある。「蝦夷廻浦図絵」安政元年(1853)頃の室蘭地名発祥の坂が描かれている。
モロラン地名発祥の地
私たちは室蘭から伊達市有珠にあるバチュラー記念館になっている教会を訪ねた。
伊達市教育委員会の説明案内では、バチュラーさんは、英国聖公会の宣教師で「アイヌの父」と云われ、またアイヌ語学の権威者としてもしられ、明治25年にこの地で伝道を始めている。昭和12年に視界附附の功績を称えて記念堂を作っている。バチュラーから洗礼を受け、その後、夫妻の養女となった向井(バチュラー)八重子の歌碑もあり、3首の一つに『有珠山にのぼりなかむる噴火湾 岸辺に たてる駒が嶽かな』と刻まれている。八重子は歌人でもあり、またアイヌ民族出身の伝道者として有名。
バチュラー記念堂 説明案内
バチュラー八重子の歌碑
松浦武四郎著、吉田常吉編「蝦夷日誌 上」東蝦夷日誌には有珠や長流川について記述した後に『川を越、赤土坂上り、檞(ね)柏(ぎ)原しばし過下りて(十八丁)モロラン「室蘭」(會所・通行屋や勤番所。調役邸・板蔵・御備米蔵・辨天社。永住はたごや・・・出稼ぎ等多し)西南向き、砂原に対し毎日乗合船出る。(海上七里)頗る辦(便)利也。土人多し。・・・』と渡島半島の砂原と室蘭の海上交通について書いてある。
また、地名について『モロランは小路ナル義ニテ、小または静也。ルは道、ランは下がる義也。小路を下るという也。昔し、山道なく、是よりエトモへ船にてこへる。』とある。(森町の駅近くに旧桟橋がある。「日本奥地紀行」のイザベラバードもこの航路を使っている。
振興センターの入り口の横に大きな説明版には『ムロランはもともとアイヌ語に源を発する地名で「モロラン」と呼ばれていた。』(中略)「室蘭」の名付け親は松浦武四郎(一八一八~一八八八年)である。六回に及ぶ蝦夷地探検の際一八四五年には噴火湾沿岸を調査し、さらに明治二年(一八六九)に明治政府の開拓判官となって「北海道」と命名、また道内の国郡名選定を行う。
振振興センター
振興センター横の説明左下にモロラン会所の絵がある。「蝦夷廻浦図絵」安政元年(1853)頃の室蘭地名発祥の坂が描かれている。
モロラン地名発祥の地
私たちは室蘭から伊達市有珠にあるバチュラー記念館になっている教会を訪ねた。
伊達市教育委員会の説明案内では、バチュラーさんは、英国聖公会の宣教師で「アイヌの父」と云われ、またアイヌ語学の権威者としてもしられ、明治25年にこの地で伝道を始めている。昭和12年に視界附附の功績を称えて記念堂を作っている。バチュラーから洗礼を受け、その後、夫妻の養女となった向井(バチュラー)八重子の歌碑もあり、3首の一つに『有珠山にのぼりなかむる噴火湾 岸辺に たてる駒が嶽かな』と刻まれている。八重子は歌人でもあり、またアイヌ民族出身の伝道者として有名。
バチュラー記念堂 説明案内
バチュラー八重子の歌碑