TITLE: 本来、工学は人文科学だった (H29.12.16)
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
現代の西欧科学技術文明が多くの弊害をもたらして、衰退化に向かっているといわれるようになってしまったのは、第2次世界大戦の結果、「工学」が人文科学から理科系の一部になってしまったことが、大きく影響している。そのことは、ハインリッヒ・リッケルト著「文化科学と自然科学[1939]」岩波書店(岩波文庫)を読むと解る。
題名もさることながら、「この本の中のいくつかの項目で、私は、現在のような意味での「科学(自然科学)は、十九世紀ヨーロッパに誕生した、という意味のことをのべています。」
以下、興味深い文章が続く。
1939年発行だが、岩波文庫の青帯本なので、何とかなるだろう。入手した第2刷の定価は、四十銭であった。
勿論、横書きは右から左で旧漢字と旧仮名使いだった。引用は現用漢字と、一部を除き新仮名使いに改めた。
第6,7版の序には次のようにある。この記述を通じて、彼の論理が当時の様々な学者によって異論が出され、そのたびに彼が内容を見直したことがわかる。
『本書のこの新版は、第3版(1915年)及び第4,5版(1921年)に対してと同様、ていねいに校閲せられ、若干の補遣が加えられている。(中略)それはこの、ロシア語、スペイン語及び日本語の翻訳さえ出ている小冊子に、どこまでも入門書としての特色を残さねばならなかった以上、是非もないことである。』(pp.8)
本文を引用する。科学に対する現代の価値観との違いが鮮明で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。正に、メタエンジニアリングだと感じたからである。
『勿論科学の「統一性」は決して科学の全部門の一様性であってはならぬ。何となれば、あたかも世界が多様であるように、科学も多様な目標を立て、それに到達すべき種々の方法を完成するときに初めて此の世界の各部分を全部抱合することができるからである。(中略)科学の最上の統一はむしろ、多くの多様な部門を結合してそれ自身に完全な「有機體」とする統一であろう。この方向に本著の趣旨もまた動いているのであって、この意図から本著は理解されなければならぬ。』(pp.10)が、そのことを明言していると感じている。
『私はむしろ、もし科学が文化生活の内実をあらゆる点で公平に取扱うと思うならば、文化生活は(その内容の特殊性のために)単に一般的にばかりではなく、個性化的にも(つまり歴史的にも)叙述されねばならぬといふ、その理由を示そうとするものである。そこからやがて個性化的手続きと価値関係的手続きとの必然的結合に対する洞察が生じてくる。』(pp.12)
この文章は、哲学者の文章で多少分かりにくいのだが、考え方がメタエンジニアリングに通じる。つまり、哲学が多くの学問に分化して、大きく分けて自然科学と非自然科学に分かれたのちに、その区別を明確にして、人間社会にとってそれぞれどのような結合により真に役立つものになるかといった問題を解こうとしている。彼は、非自然科学の代表を「歴史学」(つまり、人間の社会に現実に起こったこと)に置いている。しかし、各々の具体的な歴史は特殊であり、自然科学の目指す一般化とどのように結合するかを考えていると思われる。
彼は、「非自然科学」を「文化科学」と命名した。現在の人文・社会科学であろう。そして、『文化科学の基礎が価値であるといふことは、多くの人には多分、もう殆ど「自明」のことと思われている。』(pp.16)と断言をしている。つまり、当時の自然科学は、まだ社会に対して、直接に価値を生み出すものとは考えられていなかった。つまり、エンジニアリングとテクノロジーは、文化科学の代表選手であった。
彼は、「文化科学と自然科学の課題」として、次のように述べている。
『非自然科学的な経験的諸学科の共通関心・課題及び方法を規定して、自然研究者のそれらに対して境界区画をなし得る概念を展開するという目標である。私は文化科学という語が最もよくかかる概念の特色を示すと思う。そこで我々は、文化科学とはどういうものであり、自然研究とどういう関係に立つものであるかという問いを提出しようと思う。』(pp.23)
第2章の「歴史的状況」では、次のように述べている。
『自然科学的時代(私は勿論17世紀のことを言っているのである)の哲学は自然科学とは到底切り離せない。この哲学―デカルトなりライプニッツなりを思い起こしていただきたいーは自然科学的方法の解明に従事して、これまた成功を収めている。そして結局18世紀の末にはもう近世最大の思想家(カントを指す)が、方法論にとって決定的な自然の概念を確立し、それを物事の「不変的諸法則にしたがって規定された限りに於ける」現存在とするとともに、自然科学という最も普遍的な概念を確立して、多分それを、見極める限りの将来に対して最後的なものにしたのである。』(pp.29)
このあたりには、西欧的な一神教の根幹である「人類は、自然を征服するためにこそ存在する」という思想がうかがえる。
そのような思想は、第4章の「自然と文化」に、次の文章で説明されている。
『自由に大地から生じるのは自然産物であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのは文化産物である。これに従えば、自然はひとりでに発生したもの「生まれたもの」及びおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従って行動する人間によって直接生産されたもの、或いは(もしそれが既に存在しているならば)少なくともそれに付着せる価値のゆえにわざわざ擁護されたものとして、自然に対立する。』(pp.48)であって、当時の価値観からは、自然科学自体の価値は、非自然科学のなかでのみ生まれると考えられている。
そのことは、第六章の次の言葉で明白になってくる。
『自然科学の諸成果を現実の上に適用するということ、換言すれば、その諸成果の助けを借りて我々の環境に通じ、それを計算するどころか、技術によって支配することまでできるといふことは不思議がる必要はない。』(pp.86)
つまり、「技術」もその特殊性において、文化の一部なのである。こうなると、現代の工学はおおいに困ったことになるかもしれない。
また、第十一章の中間領域では、たとえば生物の進化の科学的な検証について、自然科学なのか、歴史学なのかといった問いに対して、中間領域の存在を認めている。
『自然科学における歴史的要素に関しては、近代では主として生物学、殊に謂わゆる系統発生的生物学が問題になる。それは周知のごとく、地球上に棲む諸生物の一回的な発生過程をその特殊性に於いて叙述せんと試みるので、そのために実際もう度々歴史的科学と称せられて来たのである。』(pp.173)そうすると、工学も、中間領域と云えなくもない。
欧州の学問体系は、キリスト教信仰のために長い中世を経験した。そして、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより変化が始まったが、自然科学の哲学からの分離は、彼ら以降さらに一世紀を要した。つまり、自然科学と人文科学の分離が起こったのは、一九世紀後半で、この書の発行された1901年でさえも、上記のような状態だった。それが僅か数十年の間に完全に分離をして、お互いが結合どころか、疎遠になってしまった。
当時は、人文科学にのみ実生活への価値が認められていたわけで、その突然の価値観の逆転は、第一次、第二次世界大戦の結果であると考えられる。つまり、当時の自然科学を駆使して開発をした兵器なしでは、何れの国も勝利をおさめることが出来ず、航空機に始まり、遂には原子爆弾まで実用化をしてしまった。特に工学についていえば、第2次大戦末期の各国によるジェット機の開発競争が大きく影響していると考えられる。つまり、ジェットエンジンを自立運転させるためには、最先端の熱力学、流体力学、伝熱工学が不可欠であり、更に軽量化のための機械力学、機構学、材料力学、金属学などとの一体化が求められた。つまり、純自然科学と文化科学の一体化が必須となり、さらにそこに文系の識者の入り込む余地は全くなかった。
そこで、哲学までもが、かのハイデッガーの名言通りに、「技術が世界を支配することになってしまった」と主張し始めた。
「近代世界のおける日本文明、比較文明学序説」という著書(梅棹忠夫[2000])がある。国立民族学博物館で1982年から1998年まで開催された谷口国際シンポジウム文明学部門での梅棹忠夫氏の基調講演の内容が纏められているもで、第10回のテーマは「技術の比較文明学」であり、その中の興味深い記述をメタエンジニアリングの研究の一部として考察を試みる。この著書では、従来の技術論の在りていに触れたあとで、『工学的な技術論では、原理や材料、性能の評価に重点が置かれております。現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点が抜けていたのではないでしょうか。』とある。
技術者はそんなことは無いと否定するであろうが、確かに20世紀の技術の生産物にはそのようなものが多かったように思われる。即ち、目先の便利・簡単・安価などに捉われて、真に人間生活とその持続的発展と進化に供するか否かの視点に欠けるものが多かった。
現代の工学における価値観のままの未来はいかにも危険すぎる。やはり、自然科学は、価値の如何に拘わらず、自然の中の普遍性をありのままに理解するためのものであり、社会への価値は文化科学が生みだすものと理解した方が、持続的文明にとっては良いように思われる。そのことは、自然科学が生みだしたものであっても、その社会への価値判断は文化科学にゆだねられるべきと思う。
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
現代の西欧科学技術文明が多くの弊害をもたらして、衰退化に向かっているといわれるようになってしまったのは、第2次世界大戦の結果、「工学」が人文科学から理科系の一部になってしまったことが、大きく影響している。そのことは、ハインリッヒ・リッケルト著「文化科学と自然科学[1939]」岩波書店(岩波文庫)を読むと解る。
題名もさることながら、「この本の中のいくつかの項目で、私は、現在のような意味での「科学(自然科学)は、十九世紀ヨーロッパに誕生した、という意味のことをのべています。」
以下、興味深い文章が続く。
1939年発行だが、岩波文庫の青帯本なので、何とかなるだろう。入手した第2刷の定価は、四十銭であった。
勿論、横書きは右から左で旧漢字と旧仮名使いだった。引用は現用漢字と、一部を除き新仮名使いに改めた。
第6,7版の序には次のようにある。この記述を通じて、彼の論理が当時の様々な学者によって異論が出され、そのたびに彼が内容を見直したことがわかる。
『本書のこの新版は、第3版(1915年)及び第4,5版(1921年)に対してと同様、ていねいに校閲せられ、若干の補遣が加えられている。(中略)それはこの、ロシア語、スペイン語及び日本語の翻訳さえ出ている小冊子に、どこまでも入門書としての特色を残さねばならなかった以上、是非もないことである。』(pp.8)
本文を引用する。科学に対する現代の価値観との違いが鮮明で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。正に、メタエンジニアリングだと感じたからである。
『勿論科学の「統一性」は決して科学の全部門の一様性であってはならぬ。何となれば、あたかも世界が多様であるように、科学も多様な目標を立て、それに到達すべき種々の方法を完成するときに初めて此の世界の各部分を全部抱合することができるからである。(中略)科学の最上の統一はむしろ、多くの多様な部門を結合してそれ自身に完全な「有機體」とする統一であろう。この方向に本著の趣旨もまた動いているのであって、この意図から本著は理解されなければならぬ。』(pp.10)が、そのことを明言していると感じている。
『私はむしろ、もし科学が文化生活の内実をあらゆる点で公平に取扱うと思うならば、文化生活は(その内容の特殊性のために)単に一般的にばかりではなく、個性化的にも(つまり歴史的にも)叙述されねばならぬといふ、その理由を示そうとするものである。そこからやがて個性化的手続きと価値関係的手続きとの必然的結合に対する洞察が生じてくる。』(pp.12)
この文章は、哲学者の文章で多少分かりにくいのだが、考え方がメタエンジニアリングに通じる。つまり、哲学が多くの学問に分化して、大きく分けて自然科学と非自然科学に分かれたのちに、その区別を明確にして、人間社会にとってそれぞれどのような結合により真に役立つものになるかといった問題を解こうとしている。彼は、非自然科学の代表を「歴史学」(つまり、人間の社会に現実に起こったこと)に置いている。しかし、各々の具体的な歴史は特殊であり、自然科学の目指す一般化とどのように結合するかを考えていると思われる。
彼は、「非自然科学」を「文化科学」と命名した。現在の人文・社会科学であろう。そして、『文化科学の基礎が価値であるといふことは、多くの人には多分、もう殆ど「自明」のことと思われている。』(pp.16)と断言をしている。つまり、当時の自然科学は、まだ社会に対して、直接に価値を生み出すものとは考えられていなかった。つまり、エンジニアリングとテクノロジーは、文化科学の代表選手であった。
彼は、「文化科学と自然科学の課題」として、次のように述べている。
『非自然科学的な経験的諸学科の共通関心・課題及び方法を規定して、自然研究者のそれらに対して境界区画をなし得る概念を展開するという目標である。私は文化科学という語が最もよくかかる概念の特色を示すと思う。そこで我々は、文化科学とはどういうものであり、自然研究とどういう関係に立つものであるかという問いを提出しようと思う。』(pp.23)
第2章の「歴史的状況」では、次のように述べている。
『自然科学的時代(私は勿論17世紀のことを言っているのである)の哲学は自然科学とは到底切り離せない。この哲学―デカルトなりライプニッツなりを思い起こしていただきたいーは自然科学的方法の解明に従事して、これまた成功を収めている。そして結局18世紀の末にはもう近世最大の思想家(カントを指す)が、方法論にとって決定的な自然の概念を確立し、それを物事の「不変的諸法則にしたがって規定された限りに於ける」現存在とするとともに、自然科学という最も普遍的な概念を確立して、多分それを、見極める限りの将来に対して最後的なものにしたのである。』(pp.29)
このあたりには、西欧的な一神教の根幹である「人類は、自然を征服するためにこそ存在する」という思想がうかがえる。
そのような思想は、第4章の「自然と文化」に、次の文章で説明されている。
『自由に大地から生じるのは自然産物であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのは文化産物である。これに従えば、自然はひとりでに発生したもの「生まれたもの」及びおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従って行動する人間によって直接生産されたもの、或いは(もしそれが既に存在しているならば)少なくともそれに付着せる価値のゆえにわざわざ擁護されたものとして、自然に対立する。』(pp.48)であって、当時の価値観からは、自然科学自体の価値は、非自然科学のなかでのみ生まれると考えられている。
そのことは、第六章の次の言葉で明白になってくる。
『自然科学の諸成果を現実の上に適用するということ、換言すれば、その諸成果の助けを借りて我々の環境に通じ、それを計算するどころか、技術によって支配することまでできるといふことは不思議がる必要はない。』(pp.86)
つまり、「技術」もその特殊性において、文化の一部なのである。こうなると、現代の工学はおおいに困ったことになるかもしれない。
また、第十一章の中間領域では、たとえば生物の進化の科学的な検証について、自然科学なのか、歴史学なのかといった問いに対して、中間領域の存在を認めている。
『自然科学における歴史的要素に関しては、近代では主として生物学、殊に謂わゆる系統発生的生物学が問題になる。それは周知のごとく、地球上に棲む諸生物の一回的な発生過程をその特殊性に於いて叙述せんと試みるので、そのために実際もう度々歴史的科学と称せられて来たのである。』(pp.173)そうすると、工学も、中間領域と云えなくもない。
欧州の学問体系は、キリスト教信仰のために長い中世を経験した。そして、ベーコン、デカルト、ニュートンなどにより変化が始まったが、自然科学の哲学からの分離は、彼ら以降さらに一世紀を要した。つまり、自然科学と人文科学の分離が起こったのは、一九世紀後半で、この書の発行された1901年でさえも、上記のような状態だった。それが僅か数十年の間に完全に分離をして、お互いが結合どころか、疎遠になってしまった。
当時は、人文科学にのみ実生活への価値が認められていたわけで、その突然の価値観の逆転は、第一次、第二次世界大戦の結果であると考えられる。つまり、当時の自然科学を駆使して開発をした兵器なしでは、何れの国も勝利をおさめることが出来ず、航空機に始まり、遂には原子爆弾まで実用化をしてしまった。特に工学についていえば、第2次大戦末期の各国によるジェット機の開発競争が大きく影響していると考えられる。つまり、ジェットエンジンを自立運転させるためには、最先端の熱力学、流体力学、伝熱工学が不可欠であり、更に軽量化のための機械力学、機構学、材料力学、金属学などとの一体化が求められた。つまり、純自然科学と文化科学の一体化が必須となり、さらにそこに文系の識者の入り込む余地は全くなかった。
そこで、哲学までもが、かのハイデッガーの名言通りに、「技術が世界を支配することになってしまった」と主張し始めた。
「近代世界のおける日本文明、比較文明学序説」という著書(梅棹忠夫[2000])がある。国立民族学博物館で1982年から1998年まで開催された谷口国際シンポジウム文明学部門での梅棹忠夫氏の基調講演の内容が纏められているもで、第10回のテーマは「技術の比較文明学」であり、その中の興味深い記述をメタエンジニアリングの研究の一部として考察を試みる。この著書では、従来の技術論の在りていに触れたあとで、『工学的な技術論では、原理や材料、性能の評価に重点が置かれております。現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点が抜けていたのではないでしょうか。』とある。
技術者はそんなことは無いと否定するであろうが、確かに20世紀の技術の生産物にはそのようなものが多かったように思われる。即ち、目先の便利・簡単・安価などに捉われて、真に人間生活とその持続的発展と進化に供するか否かの視点に欠けるものが多かった。
現代の工学における価値観のままの未来はいかにも危険すぎる。やはり、自然科学は、価値の如何に拘わらず、自然の中の普遍性をありのままに理解するためのものであり、社会への価値は文化科学が生みだすものと理解した方が、持続的文明にとっては良いように思われる。そのことは、自然科学が生みだしたものであっても、その社会への価値判断は文化科学にゆだねられるべきと思う。