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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(53)「インダス文明の謎」[2013]

2017年12月08日 13時30分38秒 | メタエンジニアの眼
書籍名;「インダス文明の謎」[2013]  KMB3401

著者;長田俊樹  発行所;京都大学学術出版会 
発行日;2013.10.10
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 

「古代のインド―ヤマト文化圏(その11)」です。



 著者の長田俊樹氏は、インド・ラーンチー大学で博士号を取得した言語学者である。彼が「総合地球環境学研究所」教授であった期間に、インダス文明に関するプロジェクトが行われ、5年間に集中的な発掘調査が行なわれた。本書はその結果をまとめたものなのだが、考古学者の従来の説に囚われない視点からの多くの知見が語られている。

 第1の視点は、現代の南アジアのモンスーン地域との生活と文化の類似性にある。有名な世界4大古代文明の中では、際立った特徴がある。それは、①大河流域に発達した文明ではない、②広範囲に分布しすぎている、③食物と文化の多様性などである。
 これらを、従来の学説である、④王権や支配者層が存在しなかった、⑤戦争の痕跡がない、⑥短期間に成長して衰退した(実質700年間)などと合わせると、自然に現代まで続く南アジアモンスーン地域の文明が浮かび上がってくる。

「はじめに」から、キーワードのみを列挙する。
・インダス文字だけが、古代4大文明の文字のなかで解読されていない。記号か?
・遺跡の最終的な数と範囲は、まだ定まっていない。1980発行のNHK Bookでは200遺跡だったが、最新では2600遺跡。しかし、発掘と結果の報告者は皆無。
・遺跡の範囲は、東西1500km,南北1800kmで、多くはインド側に分布
・多言語多文化共生社会だった。
・農民、牧畜遊牧民、職人、商人が補完関係で社会を存続させ搾取従属関係はなかった。

 このような観点から、現代の東アジアモンスーン気候の文化と類似していると指摘している。
インダス文明の文化的特徴として、第1に標準化された度量衡を挙げている。レンガのサイズが、広範囲で一致していること、秤用の錘の重量が、二進法(大きくなると十進法)で統一されている。

 広範囲に広がっているので、作物は地域によって異なっている。夏作が中心と冬作が中心の地域があり、その間の交易が発達した。異なる言語間の商取引は、独特の共通するインダス文字の印章が使われた。

従来の学説と思しきものは、次のインターネット記事にある。
世界史の目-Vol.9-アーリア人http://www.kobemantoman.jp/sub/9.htm

『紀元前2300~紀元前1800年の間、南アジアに位置するインド亜大陸は青銅器文明が栄え(インダス文明)、ハラッパー遺跡(インダス川上流・パンジャーブ地方)、モヘンジョ=ダロ遺跡(インダス川下流のシンド地方)を残した。しかし陵墓や宮殿跡、あるいは武器、王の彫像などがみられず、どちらかといえば庶民生活関係の遺物が多く出土した。
 
この文明の真の滅亡原因は不明だが、河川氾濫・気候乾燥化・交易中断・統制者の死亡などの諸説があり、その中で、侵入民族の破壊説もあったが、年代のズレがありこの説は否定されている。その侵入民族がアーリア人であった。東方系のインド=ヨーロッパ語族であるアーリア人は、もともと中央アジアの草原地帯で遊牧生活を営んでいたが、紀元前2000年頃、馬と戦車でもって、大移動を開始する。"高貴(="アーリア"の意味)な民族"と自称したアーリア人は、紀元前1500年頃、ヒンドゥークシュ山脈にあるカイバー(カイバル)峠を越えて、パンジャーブ地方に侵入し、先住農民(ダーサ?)を征服、農耕・牧畜生活を営み、氏族ごとに村落を形成した。
 
アーリア人の財産は"牛"であり、牛を神聖視する風習であった。また雷・雨・雲・太陽など自然現象を神格化したため多神教信仰となり、供物と讃歌を神々に捧げ、崇拝した。この神々に捧げた讃歌や儀礼などを載せた聖典が「ヴェーダ」で、その中でのインド最古の聖典はB.C.1200~B.C.1000年頃に成立した「リグ=ヴェーダ」である。祭祀が形式化したことで司祭者も出現し、アーリア人はヴェーダを通じて先住民との間に人種・文化双方で融合・混血していった(以降は純粋なアーリア人ではなく、アーリア系民族と呼ぶのが正しいですが、複雑を避けるため、アーリア人の呼称を使わせていただきます)。紀元前1000年頃、アーリア人は肥沃な地を求めて東方への移動を開始、ガンジス川上流域に入り、定着した。前800年頃には青銅器に次いで鉄器を使用し始め、中流域へも定着していった。ここでは先住民から稲作を知り、拡大生産型の農耕生活となっていく。』

しかし、この書を読んで、インダス文明はアーリア人の侵入により徐々に東南アジア方面に展開していったように思える。アーリア人がインド亜大陸やパキスタン、イラン方面に展開をしたが、彼らはモンスーン地域に展開して、多様性文化を保った。同時に多神教や多言語社会もそのまま存属しのではないだろうか。


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