生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(61)「寺田寅彦全集 第5巻」[1997]

2018年03月12日 10時20分03秒 | その場考学との徘徊
その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(61)
          
「寺田寅彦全集 第5巻」[1997]
著者;寺田寅彦 発行所;岩波書店    1997.4.4発行
初回作成年月日;H30.3.11  最終改定日;

引用先; 「メタエンジニアの歴史」



 近代日本のメタエンジニアの第1人者は、寺田寅彦だと思う。物理学者をメタエンジニアと呼ぶことには、聊か違和感があるかもしれないのだが、それには、私なりのエンジニアの定義がある。

エンジニアとは、「エンジニアリングセンスをもって、世の中の役立つモノやことを創造する人」である。寺田寅彦は、夏目漱石の一番弟子といわれるほどの文筆家であり物理学者でもあった。その彼は、常に、現実社会を見つめ続けて、「寺田物理学」という学問を創造した広義のエンジニアだと思う。また、メタエンジニアである所以は、彼の「科学者と芸術家」の中に如実に表れている。

更に、『厳密な意味の孤立系が存在しないのに物理学は現象の予報をしようとする。「自然現象の予報」においては、関係する条件が多い上に制御は一般にできないので、主要な少数の条件を選んで他を無視するほかなく、選んだ条件も十分な測定は難しいから、予報はいきおい近似的とならざるを得ない。』と主張していることは、まさにメタエンジニアリングの出発点のMiningにおける「潜在する課題」が、物理学にとどまらずにすべての学問分野に存在することも示唆していると思う。

彼の広範囲に及ぶ著作の中から、全集第5巻のメタエンジニアリング思考がよく表れていると感じる二つの短編を選んだ、「科学者と芸術家」、「漫画と科学」である。

「科学者と芸術家は、次の文章で始まっている。
 
『芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感を抱くものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念を抱いているかのように見える人もある。場合によっては芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉から直ぐに不道徳を聯想する潔癖家さえ稀にはあるように思われる。
科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相容れぬものであろうか、これは自分の年来の疑問
である。 夏目激石先生がかつて科学者と芸術家とは、その職業と噌好を完全に一致させ得るという点において共通なものであるという意味の講演をされた事があると記憶している。』(pp.239)

 この言葉は、大正10年に「電気と文芸」という書に投稿されている。現代とは多少異なる環境なのだが、専門家の中では、このような感覚が残っているように思われる発言がたまにはある。

 『衣食に窮せず、仕事に追われぬ芸術家と科学者が、それぞれの製作と研究とに没頭している時の特殊な心的状態は、その間になんらの区別をも見出し難いように思われる。(中略)
 芸術家の生命とする所は創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でなと同様に、他人の研究を繰返すのみでは科学者の研究ではない。勿論両者の取扱う対象の内容には 、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなりの共有な点がないでもない。科学者の研究の目的物は自然現象であって、その中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見出そうとするのであるのである。芸術家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑もないことである。』(pp.260)

 さらに進んで、こうまでも言っている。
『科学者と芸術家とが相逢ーて肝胆相照らすべき機会があ?たら、二人はおそらく会心の握手を交すに躊躇しないであろう。二人の目差す所は同一な真の半面である。
世間には科学者に一種の美的享楽がある事を知らぬ人が多いょうである。しかし科学者には科 学者以外の味わう事の出来ぬような美的生活がある事は事実である。例えば古来の数学者が建設
した幾多の数理的の系統はその整合の美においておそらくあらゆる人問の製作物中の最も壮麗なものであろう。物理化学の諸般の方則は勿論、生物現象中に発見される調和的普遍的の事実にも、単に理性の満足以外に吾人の美感を刺戟する事は少なくない。ニュートンが一見捕捉し難いような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、・・・・。』(pp.261)

 さらにまた、科学者は客観的、芸術は主観的という紋切り型の考え方も否定して、科学者の主観性を強調している。また、観察力と想像力も両者に共通する必須の感覚であるとしている。とくに、科学者の直観力と、芸術家のインスピレーションの重要性は類似のことである。

「漫画と科学」

 この文章も、大正10年に「電気と文芸」という書に投稿されている。「漫画とは」という定義に始まっているのだが、大正時代と現代との漫画に対する根本は変わりがないように感じる。

 漫画の表現は、『一方において特異なものであると同時に他方ではその特徴を共有するーつの集団の普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する事になる。こういう対象の取扱い方は実に科学者がその科学的対象を取扱うのと著しく類似したものである。』(pp.280)として、現実社会の中の「普遍性を抽象してその集団の「型」を設定する」ことにおいて同じであるとしている。

 また、『例えば物理学者があらゆる物体の複雑な運動を観察して、これを求心運動、等加速運動、正弦運動などに分解してその中のーつを抽出し他を捨象する事によって、そこに普遍的な方則を設定する。物理学教利書にある落体運動は日常生活において目撃するあらゆる物体の落下にそのまま適用するものではない。空気の抵抗や、風の横圧や、 周囲の物体より起る不定な影響を除去した時に始めて厳密に適用さるべきものである。そしてこれらの第二次的影響の微少なる限り近似的に適用するものである。それでこの種の方則は具体的事象の中から抽象によって取り出された 「真」の宣言であって、それが真なるにもかかわらず、実際に日常目撃する現象その物の表示ではない。
優れた観察力をもった漫画家が街路や電車の中で十人十色の世相を見る時には、複雑な箇体が 分析されて、その中のある型の普遍的要素が自ずから見出される。そしてその要素だけを抽象し、 それを主として表現するために最も有効な手段を選ぶのであろう。その表現の方法は「術」であ るかもしれないが、この要素をつかみ出す方法は「学」の方法に近いものである。』(pp.260)
 さらに文末では、一般的に、「絵画に対する漫画の位置」と、「文学に対する落語や俳句の位置」を「にたところがないでもない」としている。

解説;

 「寺田物理学」という言葉を用いて、
『寺田の考察は、誤差のない測定はないこと、バネの弾性が過去の扱いによるなどの履歴現象があること、気体の圧力が分子の衝突に起因して常に揺らぐことへと広がって、再び「厳密な意味において普遍的な正確な方則が可能であろうか」と問うことになる。

厳密な意味の孤立系が存在しないのに物理学は現象の予報をしようとする。「自然現象の予報」においては、関係する条件が多い上に制御は一般にできないので、主要な少数の条件を選んで他を無視するほかなく、選んだ条件も十分な測定は難しいから、予報はいきおい近似的とならざるを得ない。』と書かれている。



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