ハーブスイーツハナウタコウチ

アイスルモノ・ナリワイ・フルイウタタチ・アオイソラノマチ

ワールドカップ

2006-05-15 15:08:48 | サッカー
ワールドカップ日本代表発表されましたね。しばらくはTV等がサッカーの話題でいっぱいになるので退屈しない。いいですね。
世界の壁はなかなか厚いので、簡単には勝てないでしょうが、まずは予選突破に向けてがんばれ日本!

 思えば、最近オリンピックに選ばれた選手たちも、「オリンピックを楽しみました」とか言うが、国の代表なんだもの、死ぬ気で(あくまで気持ちで)がんばってほしいと思います。おじさんとしては、国の代表としてでる以上、徹底的に、負けたら悔し涙がでるくらい一生懸命やってほしいと思う。それにやはり「勝てば官軍」です。こういうのは「時代遅れ」なのだろうか。

 「国対国の戦争」とも言われるサッカーワールドカップは、やはり死ぬ気で戦ってほしい。その勇姿を楽しみにしています。




アルゼンチンのマリオのBダッシュ Jリーグ前夜のおやじの昔話

2006-05-12 02:53:12 | サッカー
アルゼンチンのサッカープレイヤーとサッカーをした経験を持つ人は少ないのではあるまいか?私はある!
 彼の名はマリオ。前回書いた高知大学農学部楽蹴会に所属していた、全く無名のプレイヤーである(笑)というか、マリオさん、アルゼンチンの留学生として高知大学に来ていたけど~、奥さんと子供もいたし~、30才越えてたし~、それに~、ええい、ややこしいっ!
それに、おそらく彼は、ちゃんとサッカークラブに所属して練習をしたことがないのではないだろうか?たぶん、草サッカーレベルの経験しかなかったのではないか?という動きだった。ただし、アルゼンチンの草サッカーレベルは、日本の草サッカーレベルとは訳が違う(たぶん)。
何故、彼が楽蹴会に入っていたのか私は理由を知らない。しかし、アルゼンチンでサッカーをやっていた、と聞けば誰でもそのプレーをみたいと思うだろう。クラブに入ってほしいと思うだろう。そういうことだ。←そういうことか?(笑)

それにしても、マリオさんは「個人技の南米」のサッカープレイヤーだった。時に私たちの常識を越えて、時々すばらしいすばらしい動きをした。

 マリオさんのポジションは、スイーパー(ゴール前で、最後の砦としてゴールを守るディフェンダーのカナメだ)だった。いつもそのポジションをきちっと守っているのだが、1試合に2~3度だけ、ボールをもつとドリブルを始め、相手ゴールに向かってゆく。

まさに「マリオのBダッシュ状態」である。

 マリオ止まらないかもよ?Bダッシュ!止まらないのだ。相手が止めようとする。抜く。相手が止めようとする、抜く。ゴール前でいるはずのマリオさんは、センターラインを越えて、相手ゴールに向かってゆく。相手がマリオさんの前に立ちふさがる。マリオさんの両サイドでは、チームメイトが叫ぶ「パス、パス」。

 不思議なことに、私たち(いや、たぶん相手チームのメンバーも)みんな、このタイミングでパスをだすと思う。いや、パスでつなぐ日本型(ヨーロッパ型)のサッカースタイルでは常識なのだ。ここでパスだ!サイド空いている、パスだ!

 しかし、マリオさんはパスしない。たぶんパスをだすと思っている相手ディフェンダーをさらに強引に抜いて相手ゴールの前までドリブルし続ける。
マラドーナがメキシコW杯で「5人抜き」をしたのは1986年。マリオさんが、プレーしたのは1985年ではなかったか?ということは、これがアルゼンチンサッカーのスタイルなのだろう。本当にその場にいるとパスをださないことが不思議でしょうがない。しかし、これが、「自分たちがいつの間にか築いている常識の壁」なのだと、改めて考えさせられてしまう。「日本の常識は世界の非常識」そんな言葉さえ頭をよぎる。

 ただし、マラドーナとマリオさんの決定的な違いがひとつ。マリオさんがゴール前にたどりついた時、すでに走り疲れて息があがってしまうのだ。で、ボールを取られてカウンターかまされて私たちがひどい目にあう。

 走り抜けて相手ゴール前で一休みしているマリオさんと、「やばいやばい」と言いながら、攻撃的MFくらいの位置にいるキャプテンが、ぽっかりあいた自陣ゴール前に必死で駆け戻ってくる様子が、いまでも目に浮かぶ。

マリオさんもアルゼンチンで今度のワールドカップを見るのだろうか。もちろん、見るだろう。マリオさんは、「スーパーマリオ」のゲームをやるのだろうか?いや、それはわからない(笑)

サッカーした日々 Jリーグ前夜のおやじの昔話

2006-05-12 01:47:10 | サッカー
おやじの昔話である。ワールドカップももうすぐで、なんだかサッカーの話題がいっぱいだ。私もサッカーは大好きである。理由がある。
 1年間だけ、サッカー部に入っていたことがある。高知大学農学部楽蹴会。

大学(朝倉キャンパス)の近くの友人の下宿でファミコンのスーパーマリオで遊んでいると、農学部の友人がやってきた。
サッカーをしている菊川(きくかわ)君。誰もが「キッカー」と呼んでいた。まさにサッカーをするために生れてきたような名前である。(笑)

 「サッカー部に入らないか?」キッカーは、言った。「みんな、実習とか試験とかで忙しいので試合のメンバーが足りなくなる。試合にでれるぞ!」「よしわかった」
「ところで、おれは、サッカーのルールを知らないが、いいか?」私が聞くとキッカーは言った。「問題ない、やってりゃ覚える」「確かに」私は納得した。

 高知大学農学部。高知空港(現在の高知龍馬空港)に隣接する日章キャンパスにある。高知空港から訪れる観光客を出迎えるために、農学部の道沿いにはパームツリー(ワシントン椰子)が植えられている。
 私たちは農学部のあたりを「高知のカリフォルニア」と呼んでいた。パームツリーがあることと、あまりの交通のアクセスの悪さに車がないとどこにも行けない。そこで、農学部の学生たちはみんな車を持っている。が、貧乏学生たちのその車は、10年落ちくらいの中古車でいっぱいだった。まさにカリフォルニアの風景だったのである(笑)

 農学部楽蹴会の練習は、週1回。試合に人数がそろわないくらいの部員だから、全員そろっても2チームできない。サッカーの8分の1くらいの広さで、両サイドにボールを2つ間隔をおいて並べてその間に入ればゴールとし、ミニサッカーをよくやった。だいたいいつも6~8人くらいだったのでゴールキーパーもいない。
ボールが転がっていってしまうと、ボールより高い雑草の中に入り込んで探すのに時間がかかった。

 私たち、ド新人以外は、ちゃんとしたサッカー経験者だった。みんなそれなりのレベルの技術を持っていた。(公式戦にも参加していたが、私たち素人をメンバーとしてピッチにたたせても、ちゃんと他のチームと互角に戦っていたことがなによりの証明である)高知大学のサッカー部で活躍した者も何人かいたように思う。農学部で忙しくなり、朝倉まで通えずやめたり、体を壊した者、コーチとウマがあわずにやめた者、それぞれ第1線を退いていたものの、みんな、サッカーが大好きだった。私たち素人にもていねいに紳士的にプレーの仕方を教えてくれた。

 パームツリーの向こうに夕日が沈み始める頃、練習は終わった。夕暮れの景色と吹いてゆく風がやけに気持ちが良かったのを覚えている。

 今思うと、みんな、もうすぐ始まる社会人としての生活(それはたぶんサッカーと無縁になってしまう)のその前に、サッカーとともにあゆんだ時代を、そして自由な大学生活を、そしてもうすぐ離れてしまい、これから先、めったに訪れることもないこのコウチを楽しもうとしていたようにも思える。

Jリーグが始まる2~3年前。サッカーが日本でマイナーなスポーツだった頃、日本の中で、サッカーのレベルが最下位くらいの(高校サッカーでコウチの代表はすばらしい点差で1回戦負けしていたように記憶する)コウチでのささやかな出来事である。

 こんな風にして、私は、1年間、サッカーをやった。私の技術はたぶん小学生低学年レベル、戦術の理解は、中学生レベルである。だからこそ、未経験者より、ずっとサッカーのプレイをリアルにイメージできるし、経験者よりずっと1つ1つのプレーに(少年なみに)感動できる。それはすごく幸せなことである(笑)