ハーブスイーツハナウタコウチ

アイスルモノ・ナリワイ・フルイウタタチ・アオイソラノマチ

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

コウチ 16度

2018-02-15 07:47:13 | コウチの事
高知市、今日の最高気温16度の予報。なんだか、やっと春が近づいてきた感じです。
コメント

寒いのでシイタケのほだ木を玄関にしまう

2018-01-25 00:53:55 | コウチの事

小さなシイタケの生え始めているシイタケのほだ木、あんまり寒いので、玄関に取り入れました。
平野部は雪は降っていないけれどさすがにコウチも冷え込んでいます。山間部はかなり積もっているようです。

 

 



【PR】ブログ 会社を辞める前に考えておこう 節約生活 【知っとこう!】失業保険のもらい方

コメント

音竹城より波川玄番城を眺める(高知県 いの町)

2010-05-04 11:58:52 | コウチの事

 高知県いの町、音竹城より波川玄番城をながめる(写真中央)

 仁淀川紙のこいのぼりのイベントが行われる河川敷より少し下流のあたりが写っている。
 
 仁淀川には、建設中の高知西バイパスの新しい橋がかかる。この橋の建設工事をしていて、こちら側、対岸にそれぞれ遺跡が出てきた。高知文化財団のWEBより。
音竹城は、南北朝の時代の古い城。今は地元の人の墓山となっている。城で亡くなった城主の娘、竹姫をまつった竹姫神社がふもと(北側)にある。
 山頂へは、西側、宇治川と早稲川の合流点から少し下流の地点から上がることができる。

 対岸の波川玄番城は長宗我部の家来だったから1500年頃の城。謀反の疑いで、元親に滅ぼされる。先述の高知県文化財団の発掘によって、玄番城以外に周辺にいくつかの出城があったことが確認されている。(橋の向こう側、道路予定の小山で発掘が行われた。)

私の以前の「高知の中世の城達」2007年11月もご覧ください。
コメント

こうぞ、みつまた、かまど余話

2010-01-10 11:02:02 | コウチの事
 先日、「かまどでごはんを炊いている、火を焚くのは面白い」という話をしていたら、
「うちのあたりは、皮を剥いだみつまたを焚きつけに使っていた。」と40代大川村出身の方が教えてくれた。
「そうそう」と40代大豊町出身の方がうなづいた。
「そうですね」と30代吾北村(現いの町吾北)出身の人もうなづいた。
「私の実家では、今もこうぞを栽培しています。ちなみにうちのあたりでは、こうぞを「かみそ」みつまたを「やなぎ」と呼びます。」と30代池川町(現仁淀川町池川)の方が教えてくれた。

 「こうぞ」「みつまた」は、和紙の原料で、高知の山間地も産地となっている。現在もお金(お札)の原料として使われているらしい。
和紙からはじまった製紙は、今もいの町の主要産業である。

 私は、平野部の介良村(現高知市介良)の出身なので、こうぞやみつまたの皮をはぐ作業を実際に見たことがない。

 15年ほど前に暮した大豊町でも、わらびとぜんまいの畑(一時は出荷量日本一になった事もあると聞いた)と、桑の畑は見たが、みつまたの畑は見たことがなかった。

 私のイメージでは、栽培は、いの町と仁淀川の上流地域の吾北くらいだと勝手に思っていた。

 吉野川水系の大川村、大豊町でも栽培されていたという話しは知らなかった。
 仁淀川水系ではあるが、池川が盛んに栽培していることも知らなかった。

 それになにより、ずっとむかしの事だと思っていた、こうぞやみつまたの皮はぎを、やったことがある、近所の人がやっていた、という人が同年代や年下にいるということが、驚きであった。

 屋外で大きな釜に湯を沸かし、みつまたを蒸し、皮を剥ぐ作業、冬にやるので、寒くて大変だ、とも聞くが、機会あればぜひ体験してみたいものである。

 で、皮をはいだみつまたを燃料にごはんを炊いてみたいと思うのである。 
コメント

地デジinコウチ(onかな?withかな?)

2008-02-23 03:20:50 | コウチの事
少し前に、ニュースで、地デジ対応は、高知県と(確か)岩手県の山間部では、全エリアをカバーできない・・・と聞いた。

 高知の地デジ化のエリアをのぞいてみる。高知さんさんTVさんのデジタル放送についてのWEBページです。参照してみてね
 2007年度中に全世帯の81%が視聴可能になる・・・とのことだが・・・そのエリアが、狭いのである。基本的に高知市と土佐湾をまわる海岸線添いのエリア。
 あとの19%は・・・それ以外の主に中山間部に点在している、ということになる。これでは、投資効果(効率)も悪いし、デジタル化も無理か・・・と思わざるを得ない。

 で、地デジ対応できない所は、市町村によって違うが、CATV等で対応につとめる・・・ということになるのか。先日、アイビーさんに聞いたが、梼原町(四万十市の北の町)は、町の施策で、全戸光ファイバーらしい、と聞いた。これでCATV化してゆくのか?

 それにしても、地デジ対応エリア以外は、ほぼ山間地。高知の山深さを改めて思い知る。

 ちなみに、高知県右のほうの山は、カモシカさんのテリトリーです。
 中央部あたりは月の輪熊さんのテリトリー。
 窪川から佐賀の太平洋あたりは、カワウソさん(いてほしいな)のテリトリーですね。

 そこに人間が住まわせてもらっているわけですね(笑)

 それにしても、2007年度中に、全く地デジ化されない大豊町や大川村、それにほんの一部しか地デジ化されないほとんどの市町村、残ったエリアは本当にどうするんでしょう・・・???
  
コメント (1)

文旦購入・こうち暮らしの楽行(がっこう)

2008-02-18 02:10:05 | コウチの事
高知市塚ノ原のホームセンターマルニさんの敷地内にあるこうち暮らしの楽行(がっこう)に、無農薬の文旦があったので購入。
昨年の秋にできた、このお店、いろいろこだわって作った野菜、果物、お菓子等を置いてます。(すべて無農薬、有機というわけではありません)

いろいろこだわった・・・ということは・・・うちのクッキーも置いてます(笑)

 無農薬の柑橘類は、安心して皮をつかってマーマーレードづくりができるので、うれしいです。
 以前、生産者の方にうかがったのですが、柑橘類は農薬無しだと、表面に黒いカビのようなものが入ったりして、見た目にきれいに出来ない→良い値段で取り引きされない、そのため、無農薬のものが少ないですね。
 で、通称「ほたくり無農薬」(標準語・放りっぱなし無農薬?)と呼ばれる、営農をやめて(高齢化等で農家が、手入れができない等)そのまま放置された状態のものを収穫したものが、時々出回ります。
 途中で、実を間引いたり、手入れしてない事もあり、味、大きさにばらつきがあったりしますが、ジャム等に加工するなら、全然問題ないです。

 逆に、甘さ、収穫を増やすために、いろいろ手を加えている場合に比べて、酸味や味が濃くなっている場合もあり、果物の味がよけいしっかりしている時もあり、なかなか楽しいです。

(収量、甘さを増すために努力をされている営農の方の努力もすばらしいし、もちろんこのような方の柑橘類も甘く、ジューシーで好きです)

贈り物はともかく、普段食べるものが味が変わらないなら、別に外が少々汚れても良い・・・そんな風に消費者の意識が早く変わっていくといいですね・・・
コメント   トラックバック (1)

今、答えはないのだけれど・・・

2008-02-14 02:57:55 | コウチの事
 今週はずっと寒いみたいですね。昨日、高知市内は今年はじめての雪が降りました。

 先日、春野(以前西部ライオンズがキャンプしていた町・今年から高知市と合併して、高知市春野になりました)の農業生産者の方と話をしたのですが、陽射し暖かいコウチとはいえ、冬はハウスをボイラー加温する。その燃料費は、(作物にもよりますが)一丁あたり1千万円くらいかかるのだそうです。
  
 1千万円・・・

 年中食べられるようになった野菜、昔はありがたがっていた、違う季節の収穫物、私たちはその事についてもうマヒしている感じさえあるのだけれど・・・その野菜を育てるために使う燃料費、この量、金額は、改めて聞くとちょっとショックでした。

・・・需要があり、そのために供給される季節外れの野菜や果物、それを可能にした農業技術の進歩、それはたくさんの人がかかわって研究したすばらしい結果なのだろうけれど・・・それを今、完全に否定はできないのだろうけれど・・・

 何かがおかしい・・・今、その明確な答えはないのだけれど、上手く言えないけれど・・・違和感を覚えています。

 
コメント

高知県土佐市のピーマン

2008-02-04 01:32:29 | コウチの事
 金曜日に、ふと見たNHKローカルの番組、「とさ金」(高知では、まだまだ廃藩置県が行われたことを知らない人がたくさんいます(笑))で、土佐市のピーマン生産者が、既存の農薬を使わないで、ピーマンを生産し、賞をうけたことが特集されていました。

 宇佐の岡本さん(以前いちごを分けてもらっていた・・・2006年7月の記事参照)も出ていたのでうれしくなって早速連絡。

 この天敵を使う農法、(私の認識で、あるいは間違っているかもしれませんが)岡本さんともう1名の方が、土佐市で最初に始めた(あるいはかなり初めから取り組んでいた)ように思います。

 数年前から、苺をもらいに宇佐を訪ねては、天敵農法のハウスでいろいろ見せてもらいながら、時に、バジル(防虫効果)や、カモミール(アブラムシがつきやすいので、テントウムシの繁殖にどうか)、ステビア(肥料になる、との話がある)等、話をさせてもらいながら、それを聞く岡本さんの研究熱心さに感心したものです。

 そして、初めの頃、人の悪口などいわない岡本さんが、時に、この天敵農法へのまわりの農家の方の理解の少なさ、を話すのをもれ聞いて、「新しい事を始めること」の大変さを感じたものです。

 天敵農法は、天敵(虫)を使うので、虫が死ぬ農薬は使えない。既存の農薬散布の農法から180度転換しないと、いけない。中途半端に途中で農薬駆除すると、すべてがダメになる。農薬のように速効性がないので、管理が必要。いままでの考え方では大変な農法。でも、生産者自身が、化学農薬を吸い込んだりしない等々、長い目でみれば生産者にも多くのメリットがある農法。

 それから何年かたち、今回の受賞。先日話した時も、「まだまだ理解をしてくれる人は一握りだ」と言いってましたが、「でも、あれだけたくさんの若い農家の人たちがついてきているから大丈夫でしょう」と言うと、「そうやねえ」と少し感慨深げでした。

 天敵農法をはじめたころからずっとハウスをたずねていたので、私もなんだか自分のことのようにうれしいです。

 岡本さん、本当におめでとうございます。

 
コメント (2)

「常識」の馬鹿・・・高知市役所や高知県庁が○○だったころ

2007-12-17 01:13:35 | コウチの事

 もう20年も前だからいだろう。
 ちょっとしたことで思い出したが、その頃、桂浜の近くのレストランで働いていた。
県外客が多く、道もよく聞かれた。
 
 高知の観光施設のパンフレットは、高知市役所の観光課や、高知県庁が作成しているものをいただいて配った。

 そのころの高知市作成のパンフレットの地図。
 高知市を中心に、土佐山田から、土佐市くらいまで、掲載された地図。高知市の観光施設は、地図上に記入してある。高知城とか、桂浜とか、はりまや橋とかそんなものはちゃんと表記してある。
 ところが・・・・高知市以外の市町村部分は、「春野町」とか「南国市」とだけ書かれて、べた塗りなのである。国道等の道さえないものもあった。

 春野町の西部ライオンズのキャンプ(なつかしいなあ)を見にこられる方も多く、よく「春野球場」を聞かれたのだが、高知市を出たとたんに道がなくなるその地図に、ボールペンで道を記入しながらよく説明したものである。

 確かに「高知市」の作成した「高知市」の観光パンフレットだから隣りの町の地図はいらないよね・・・ステキな常識である。

・・・・え、高知県の作成したパンフレットで説明したら?・・・そうですね。「だいたい1月で200部くらいはけますので、200部くらい分けていただけますか?」と県庁で聞いたら「パンフレットがなくなったら困るので、民間の方は、10部くらいにして下さい。」と山のように積んであったパンフレットから10部もらいました(笑)

 さすが、国民休暇県、観光でなりたつ「高知県」です。パンフレットを実際に使う観光客に渡すより、切らさないようにすることが大切ですね・・・ステキな常識です(笑)

 ま、そういうことです。

 高知市のパンフレットは、当時観光課の友人ががんばって作った、(地図以外は、)良くできたパンフレットでしたので、友人にもう少しがんばってもらって、高知市以外の観光地も載った地図を次の年には、ちゃんと作ってもらいました。

 今は、どうなんでしょう。最近あらためて高知市等の観光パンフレットを見てないし、県にパンフレットをもらいに行くこともないのでよくわかりませんが、
「ああ、昔はこんな、不思議な事もあったんだなあ・・・」
と言えるそんな時代になっている・・・と信じています。
  
コメント

高知の中世の城達

2007-11-23 01:11:20 | コウチの事
昨年は、NHK大河ドラマ「巧妙が辻」江戸時代、土佐の城主となった山内家の話をやったので、それにあわせるように、歴民(高知県立歴史民族資料館)では、長宗我部の最後を追った展示があった。春野町では、「中世の城」展があった。
 両方とも行ったが、特に中世の城展が面白かった。
 ふと思い出せば、この中世の城展の冊子と高知新聞発行の地図をもって配達帰りや休日にいろいろいな城に出かけた・・・私がにわか郷土史家と名乗るようになった由縁である(笑)
 
 
上記の写真は、朝倉城で撮影。このイラストは、良くできているのでぜひ参考にされたし。特に、天守!
天守閣ではない・・・天守。
 だいたい、私たちが通常想像する天守閣を持った建物・・・「お城」というのは、織田信長の安土城や、豊臣秀吉が大阪城を建てたのちに作られ始めたもの、のようで、それまではこのイラストのようなとりあえず壁でかこったものであり、しかも基礎に石をしいた構造ではなく、木のくいをそのまま土に打ち込んだので10年もたなかったようである。    長宗我部元親の岡豊城も豊臣の臣下に入る前はこのようなものだったようだ。
 
 高知県立歴史民族資料館の上の岡豊城跡に行けば、のちの建物の礎石跡が見られる・・・が、その敷地も恐ろしく小さい。今の近所の公民館、といった位の大きさが「城」なのである!

 武将の城=天守閣のある建物を想像してはいけない

 さらに、この中世の城展の冊子にはこうあった・・・
・・・岡豊城も含めて、中世の城では、土塁の内側にたくさんの石が発見される。この石を「武器」とみなすかどうかで見解が分かれていたが、近年この石を「武器」とみなすことが通常となりつつある・・・

 まあ、確かに鉄砲(火縄銃)が日本に入って普及したのは1550年以降(普及したのはもう少しあとか・・・)ではあるが・・ちょっとおかしい(笑)

 高知県土佐山田の甫喜ヶ峯森林公園の山頂にもお城がある。この城の天守は、高さ2mほどの土塁で馬蹄形にまわりをかこった構造である。中の広さは10畳ほどだろうか・・いの町波川の山上にある長宗我部の家来、波川玄番の城とよく似ている。

 甫喜ヶ峯の城を偶然みつけた時、私は、一緒にいた子供に「見ろ!これが城だっ!」と言ったのだが・・・この盛り土のどこが一体「城」なのか???とまるで意に介さない様子。
 せっかくだからと説明してあげ、ついでに先述の「石は武器」の話もした。

 「ねえ、それじゃまるで子供のケンカだね!」子供は笑って言った。

 「まあ、近代医療もなかったし、ケガでもしたら大変だったろうし・・それでいいんじゃないのかな・・」私も笑った。

 鉄砲や、土木技術の発展する前の武将たちの「城」と「戦い」・・・どこか、ユーモラスでさえある。

 でも、それでよかったんじゃないかと思う・・・
中世のころ、鉄砲が戦いを変えてゆく前の「城」はどこか人間的である。

高知には、このような城が山の上に百以上残っているらしい。
時にその場に立ち、そこから「城主」がながめた景色をながめる。
 
 「田舎のちいさな城主」達が見た景色。見えるのは、たいがい田舎の山と空ばかりだが、なんとなく分かる気がする。


 「まさに、お山の大将!でも気持ちがい~んだ、これがっ!(笑)」
コメント

「本能寺の変」で死んだもう一人の信長・・・長宗我部元親

2007-11-20 01:30:01 | コウチの事
なんだか妙なタイトルですが、まあ、にわか郷土史家のオヤジの空想でございます。
 高知の英雄、長宗我部元親の事を考えていて、ふと浮かんだ思いがある。(wikipedia 長宗我部元親で検索すればでてきます。読んでみてね)

 そうか!元親は、本能寺の変で「死んだのかっ!」

 戦国時代をご存じの方は、何をいうか!であろう。
史実は、逆である。最初友好関係にあった織田信長と所領問題でもめ、決裂、四国への元親征伐軍が、編成され、あわや、という時に「本能寺の変」が起こり、元親はそのまま四国統一への歩みをすすめた・・・

 その後、秀吉に降伏。支配下となり、土佐一国に押し戻され、戸次川の戦いで、世継ぎ信親と多くの家臣を失い、人が変わったようになり家臣を殺したり、精彩を失った晩年を送り、1599年亡くなった・・・というのが年号に刻まれた歴史。

 「夏草の譜」司馬遼太郎著や、元親の事を調べる時、ずっとイメージされたことがある。この元親の生涯、どこか織田信長に似ている。急激な成長、どこか狂気さえ漂わせ、孤立してゆく晩年。

 思いついたのが、「情報」と「情報戦略」
 
 何故、元親は四国を制圧できたのか?

 元親の正室は、「美濃斉藤氏」の一族で、当時織田信長に仕えていた、明智光秀の重臣の娘である。(「夏草の譜」では、突然「鬼国土佐」に行くように書かれているが、そうではなく元親の母も「美濃斉藤氏」の一族より迎えられている。)

 元親が正室を迎えた頃から、元親の快進撃が始まる。
 つまりこれは、元親が織田信長の持っていた最新の「情報」を正室を通じて知ったからではないのか。寝物語で聞いて・・・などと時代小説にはありそうだが、それでは「情報」として弱すぎる。一緒に「諜報部員」が来たのではないかと想像する。
 おそらくこの時代の結婚、というものはそういうものだったのだ。
 「軍師」だったのか、「参謀」だったのか、はたまた「忍び」であったのか・・・想像すると楽しいのだが、いずれにせよ、織田→明智ルートで最新の「国取りノウハウ最新情報」を元親は手に入れたのだ。
 

 戦国時代の「国取り」と聞くと「合戦」をイメージされると思うが、この「合戦」実は織田信長クラスでは、大きなデモンストレーション、と思っていただいていいと思う。
 
 実は合戦は一番最後の仕上げ、ここはオレの物だ!という宣伝である、と考えれば、考えやすい。
 何故なら、戦う前に勝利は決まっていたから・・・負ける戦いをしないことのみが、大将が生きてゆく道だからである。

 絶対負けない戦いでないと戦いはしない。それが徹底されたから、織田信長はあそこまで大きくなれたのである。
 では、そのためにどうするか?まさに合戦の前に戦いは始まっていた。うわさの流布、寝返り、買収、スパイ行為、どこか今の企業にも似た、合戦以外の「情報戦」が行われていたのであろう。それにより相手の志気を下げ、力を削り、自分より明らかに劣るまでそれを続け、そして合戦をする。

 その「情報戦」の圧倒的なノウハウをもっていたのが信長ではなかったか?

 そして、僻地土佐の一領主、長宗我部元親もそのノウハウを手に入れた。おそらく、正室との婚姻により開けた、信長の近くの人物、そのころは、信長の片腕であった明智光秀、もしくはその家臣との「情報」のやりとりによって。
 元親は、光ファイバーでつながったパソコンを手に入れたようなものだ。
 
 元親の快進撃は続いた。最新の情報を手に入れながら、急激に大きくなってゆく。信長と同じように・・・まさに(本当は元親ファンとしてこの言い方はしたくないのだが)四国の信長である。

 そして、「本能寺の変」・・・信長は命を落とした。そして、明智光秀は、信長と一緒に、元親のパソコンにつながっていた光ファイバーケーブルを切断してしまったのである・・・元親は「情報」を得る機会を失った。ゆるやかな「死」である。

 元親の情報は更新されなくなった。時代は、豊臣のものとなっていたのに、賤ヶ岳の戦い(1583年)、小牧、長久手の戦い(1584年)、で、豊臣秀吉に対抗する側に参加したのも、秀吉を嫌っていたとされる光秀の側の「情報」を更新することなく持ち続けていたからではないか?というのは言いすぎだろうか?

 信長と元親が、晩年に見せる狂気・・・それは、「信長が開発し、元親が使っていた国取りのノウハウ」の逆側面ではなかったか?と想像してみた。
 つまり、敵方を混乱、錯乱、内部分裂させる「情報戦」のノウハウが、あまりにすぐれていて、自分自身がそのノウハウを自分自身に当てはめてしまった。
 そして、自分のまわりのすべての人間が信じられなくなった、ということではないのか?そのノウハウを知る由もないが、あれほど急激に国を切り取っていったノウハウである。あながち適当な事を言っているわけでもないと思うが・・・

 悲しきは、諸国の武将たちは、信長の時代の「戦闘的武将」から、すでに秀吉の時代から徳川時代へと続く「官僚的武将」へと様変わりを始めていた。元親は、変わらなかった。いや、最新の「情報」を失い、変われなかった。

 通常、元親の人間性の変化は、長男信親(信長の「信」をいただいた名前だ)を失った戸次川の戦いののちより始まったとされる。歴史的にもターニングポイントとなった事件であり、影響は大きい。だが、少し感傷的な感じがする。「四国を束ねたほどの男 元親」にしては、あまりにも急変しすぎるのだ。

 しかし、今まで述べた、「更新されなくなった情報」を重ねると、いっそうその元親の行動に具体性が出てくる、そう思う。

 私(にわか郷土史家のおやじだ)は、ここまで書いた事を妻に問うてみた。妻もまた私という(ただの商店主とは言え)一国一城の主のもとによその県から嫁いできた妻である。
「あなたが言いたいことは、・・・わかった。」
 妻は言った。
「うむ、わかるかっ!」
 そして妻は言った。 

「あんたが、最新のパソコンが欲しい!というのは良く解った!ただ、パソコン欲しいんだったら、たらたらブログ書いてないと働きなさいっ!あんたも変わりなさいっ!」
うむっ!さすがに一国一城の主の妻であるっ!
「あっぱれじゃっ!」(笑)
コメント

乞食遍路と秋の空・・・「しげる」の話

2007-10-24 01:28:39 | コウチの事

今日、立ち寄ったスーパーの店頭で、お遍路さんが立って托鉢をしていた。
お遍路さんが手に持っているお椀にお布施をさせていただいて手を合わせた。
すがすがしい気分になる。

 お遍路さんは「生き仏」、お遍路さんに施しをすることで、お遍路さんと一緒に八十八カ所をまわったことになれる(お遍路さん受ける仏の恵みを分けてもらえる)、そんな風に祖母に教わった。四国にはそんな考え方が定着している。お茶や飲み物を提供する「お接待」もそんな考え方によるものである。

コウチは四国八十八カ所めぐりの町である。カンタンに言ってしまうと、八十八カ所のスタンプを集めてまわる・・・それが八十八カ所めぐり。
以前は、乗り物に乗ってまわるのが主流だったが、ちょっと味気ないからか、ここ数年は、歩いてまわる「歩き遍路」の方も多い。
 下世話な話だが、歩いてまわるとけっこう日にちがかかるし、お遍路さんの装束、宿泊、食事、納経帳の押印代(スタンプ押してもらうのにもお金がかかる、お寺の維持管理にあてられるらいい)等々含めると平均五十万くらいかかるらしい。なかなかの出費である。

 「歩き遍路」にもざっくり言って三種類ある。
①冒頭に書いた托鉢しながら回る修行の方
②観光?最近は遍路装束だが、デイバック背負ってウオーキングシューズはいている方多い。若者と定年後と見受けられる方が多いのはやはり時間がかかるためか。
③乞食遍路

で、乞食遍路「しげる」の話。

「しげる」を見たのは数年前。縁あってコウチの商店街で、毎週日曜日お店(出店)を開くことになった。その繁華街で、「しげる」はお遍路さんの格好して、毎週托鉢してるのである。
毎週?
 お金を貯めて、人が少ない地方を旅するのかな?とも思ったが、そうでもない。
 何週か見ていると、しげるは午前中托鉢し、集めた金で缶ビールなんか買って、遍路装束の前をはだけて歩き飲みしながら、「おらおら邪魔だ~!」と人込みをわりながらどこかへ消えてゆく。
 で、次の週も午前中になると神妙に托鉢している(笑)

 面白いのが、町の人が特に気にしてないのである・・・みんなきっとどこかでこう思っているのだと思う。遍路装束を着た者は「生き仏」であり、お布施は、させて頂いた者の徳となる。その金がどう使われようが、しげるが旅立とうが、そこにいようが、それはお遍路さんの自由なのだ・・・と。

 最近読んだ雑誌では、香川県か愛媛県か公園に乞食遍路が寝泊まりすることを禁止したりする所もあるらしい。あるいはコウチもそうなりつつあるのかもしれない。
 個人的には、寝泊まりすることくらいいいんじゃないかと思う。そのくらいの事許す余裕のある社会であってほしいと思う。「乞食遍路」も「お遍路さん」なのだから。

 その後、出店はやめたので、ここ数年、私はしげるを見ていないが、しげるはどうしているのだろう。最近コウチも朝晩冷え込みがきびしくなりつつある。元気で「お遍路さん」を続けていて欲しいと思う・・・

 この記事は、先日トラックバックいただいた、「平成の虚無僧一路の日記」の「本物の偽物」という記事にやや的はずれとは思いつつトラックバックさせていただきました。(許可されるかはまだ不明)

 「しげる」は、もちろん本名ではありません。その風貌や態度が、どことなく「泉谷しげる」に似ていたので私が勝手に呼んでいた名前です(笑)
 泉谷ファンの方にも注釈・・・私は、泉谷しげるのファンです。小学生の頃お小遣いを必死でためて「2枚組LIVE泉屋」買いました。「泉谷しげる」が「しげる」に似ていたのではなく「しげる」が泉谷しげるに似ていた・・・そういうことです(笑)

しげる~元気でやってるか~、風邪ひくなよ~、飲み過ぎるなよ~(笑)
コメント (2)