ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ジェームズ・バルジャーくん殺害事件 ⑥ [ヴェナブルズの生い立ち]

2013-03-26 23:25:51 | 事件

ジョン・ヴェナブルズは1982年8月に、母親スーザンと父親ニールの元に生まれた。ニールはフォークリフトの操作員だったが、たびたび失業した。ジョンは三人兄妹の真中で、兄も妹も発達障害があり、特別養護学校に通っていた。兄マークの生まれつきの口蓋裂は言語障害へと発展し、そのストレスからマークは、ひどい癇癪をおこすようになった。両親は、兄の機嫌を保つために多くの時間を費やした。間にはさまれてほったらかされたジョンは、兄と妹が両親から受ける関心に嫉妬していたのかもしれない。ジョンは時々兄の癇癪を真似することがあった。

スーザンとニールの結婚は、ジョンが生まれたとき既に暗礁に乗り上げていた。二人はジョンが3歳のときに離婚したが、その後もよりを戻してはまた別居して、を繰り返した。家庭の不安定さは、三人の子供たち全員に影響した。だがニールは、子育てを放棄してスーザンに丸投げしたわけではなかったようだ。二人の別居中はジョンは日曜日から木曜日までをスーザンと暮らし、残りの日々を1.6km離れたニールの住居で過ごした。スーザンもニールも鬱病を患い、またスーザンはヒステリー状態に陥りやすい傾向があった。アン・トンプソンと同様近所の酒場の常連だったスーザンは、1987年1月に、当時7歳と5歳と3歳だった子供たちを家においたまま3時間も戻らなかったため、警察が呼ばれた。また近所の住人は、スーザンとニールが別居中は「たくさんの男友達が頻繁に出入りしていた」と述べている。きつい性格のスーザンはジョンを肉体的・精神的に乱雑に扱い、ジョンに我慢ができなくなると彼を別居中のニールの所に追いやった。ジョンは自分たち兄妹をからかい、自分の片目の斜視を真似る近所の子供たちを嫌悪した。すぐにかっとなる彼はいいからかいの対象で、よその子たちは彼を容赦なくいじめた。それに対しジョンは、彼等の脛を蹴り、続けざまに脇腹にパンチを入れるという“ゲーム”や、飼っていたロットワイラーをけしかけることで対抗した。近所の親たちがスーザンに抗議しに行っても、悪態をつかれ追い返された。

                              

教師たちが、注意を引くためのジョンの異常行動に気づいたのは、1991年だった。ジョンは机につかまったまま椅子を前後に大きく揺さぶり、うめき声や奇妙な音を立てた。教師が彼を前列に移動させると、今度は彼は、教卓の上のものを払い落とした。ジョンはまた、頭を壁や机に打ちつけたり、床に倒れ込んだりした。ハサミで自分の肌を傷つけ、着ているものを引き裂き、壁に掲示されていた生徒たちの絵画を破り、机の上に立って他の生徒に物を投げつけた。そのような異常行動を目にしたことがなかった教師たちは、その記録を取った。ジョンの異常行動は、徐々に暴力性を帯びていった。あるとき彼は、クラスメートに背後から近寄り、木製の定規でその級友を窒息させようとした。大人二人がかりで、ようやくジョンを級友から離すことができた。

扱いに手を焼かれたジョンは、事件の一年半ほど前に別の学校に転校させられ、同じ学年をもう一度やり直すことになった。彼は異常に行動的で、注意力散漫だった。ある教師は彼を怠惰だと思った。誰もジョンを“悪い子”とは考えなかったし、教師のうち数名は彼をやさしい子とさえ思った。彼は助けを求めているのだろうと、彼に同情する教師もいた。同様に進級できなかったロバート・トンプソンに出会った のは、転校先でだった。スーザンは、ジョンが学校でいじめられていたため転校することになったと言ったが、ひとたびジョンとロバートが出会うと、この二人がいじめをする側になった。弱そうな相手を見つけると、一人にさせていじめた。ロバートを相棒に得たジョンは、強く大胆になった気がした。二人は定期的に 学校をさぼるようになった。ロバートは無口だったがずる賢い嘘つきで、他の生徒を操るのがうまく、精神的にジョンより成長していた。勉強嫌いのジョンは、 邪魔をして授業を中断させることもあった。教室で異常行動を取りつつも、ジョンは自分の家庭には何の問題もなく、愛情あふれる家族と暮らしている風を装った。ジョンとロバートは、一緒にいると相手の悪い部分ばかりを引き出す傾向にあることに、教師たちは気づいた。そのため教室では二人を引き離す試みがされたが、放課後や学校をさぼられた場合には手の打ちようがなかった。二人は一緒に学校をさぼり、万引きし、老人の家の窓に石を投げつけ、よその家の庭に何度も出入りして所有者を怒らせた。鳥に石を投げ、猫を虐待していたとの証言もあった。

ジョンは兄とよくケンカをした。母親は食事内容を変えてジョンを落ち着かせようとしたが、無駄に終わった。ジョンが父親ニールの所に泊まりに行ったときロバートもやって来たが、ロバートや兄たちの悪評を聞いていた二ールは彼を追い払った。ニールはジョンに、ロバートとはかかわり合うなと警告した。ジョンは空手映画が好きで、ロッキーのようなヒーローになることを夢見ていた。父親のニールはホラー映画・暴力映画・ポルノ映画が好きで、よくビデオをレンタルしていた。そのことが、のちに裁判で言及された。事件からひと月ほど前の1993年1月18日、ニールはホラー映画『チャイルド・プレイ3』をレンタルしていた。映画では、連続殺人鬼の魂が乗り移った幼児くらいの大きさの人形チャッキーが、走り回って次々と殺人を犯す。闘いの末チャッキーは倒されるのだが、その顔には闘いの途中で投げられた青いペンキがかかっていた。「ホラー嫌いのジョンはこの映画を見ていない」とニールは述べたが、類似点がいくつかあった。

様々な証言から、幼児を実際に拉致することに関しては、ロバートよりジョンの方が積極的だったことがわかっている。彼はまた、ジェームズを連れ回す間も主導的立場にあった。そしてジョンは、“僕ら”ではなく“ロバート”でもなく“僕”があの子を殺した、と告白している。その一方で、ジェームズに暴行を加えたことを認めつつも、「小さなものしか投げなかったし、わざと狙いを外した」と主張した。ジョンは抑制のきかないヒステリー状態に陥り、それが単なるいじめで始まったものを、幼児の命を奪う恐ろしい暴力へとエスカレートさせてしまったのか。

裁判に深く関わった関係者の間では、ジェームズを拉致して運河に連れて行くのはロバートのアイディアだったという考えが有力だ。しかし、運河の脇でジェームズに最初の暴力をはたらいたのは?暴力的な家庭で育ったロバートには、ジェームズを逆さにして頭から落とすというのは罪悪感のない行為だったのか?それともジョンが、悪名高い友達に見せつけたくてジェームズを傷つけたのか?これらの疑問には、たぶん永久に真実の答えは得られないのだろう。

ジョンの母親スーザンは、新聞のインタビューに応えて言った。「うちはちゃんとした普通の家庭だった。ジョンはよその子と同様、それどころか私が知る子たちの多くより深い愛情と関心を与えられて育ったわ。ちゃんと教育もされたし、根っからの学校さぼりでもなかった。よその子のようにホリデーに行き、クリスマス・プレゼントだってちゃんともらった。愛情溢れる両親と兄妹に囲まれて、安心して暮らしていたわ。」しかしながらスーザンは、ジョンの取り調べに同席していた際、何度も化粧直しをして捜査官を驚き呆れさせたという。

≪敬称略≫

≪ につづく ≫

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