ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ジェームズ・バルジャーくん殺害事件 ⑦ [ヴェナブルズの再犯]

2013-03-27 20:31:31 | 事件

ロバート・トンプソンとジョン・ヴェナブルズは、ともに1982年8月生まれ。2001年6月、19歳の誕生日を目前に控えた二人は釈放された。本来の身元を秘匿し、別人になりすましてその後の人生を生きていくために。

とはいえ二人は、完全に自由の身になったわけではなかった。一度『終身刑』を受けた者は、たとえ仮釈放が認められてもいろいろと条件がつく。そして条件を破ったり、社会の脅威となるような行動を取ったり、ふたたび犯罪に手を染めたりすれば、再拘禁されることになり得るのだ。釈放された二人は、社会への適応や、住む場所探し、仕事探しをサポートされた。

2002年3月、19歳のヴェナブルズは一人暮らしを始めた。最低に近い賃金で、夜や週末など変則的な時間も含めて働いた。保護観察のための訪問や面会の頻度は徐々に減っていった。それにつれてヴェナブルズが過度にアルコールを摂取し、麻薬に手を出し、児童ポルノをダウンロードし、仮釈放の条件を破って事件のあった地域に足を踏み入れたりしていたことが、のちに判明した。彼はまた、釈放後にできた友人の二人に、自分の本当の身元を明かしていた。彼は何人かの女性とも付き合い、数人を保護観察官に紹介したこともあった。

2008年9月、ヴェナブルズは酒に酔った上での喧嘩で逮捕されたが、不起訴で釈放された。同年12月、麻薬所持容疑で逮捕され警告を受け、門限をつけられた。いずれの場合も、警察上層部も保護観察局も法務省も、ヴェナブルズを「再収監するべきではない」ということで意見が一致した。

2010年3月2日、ヴェナブルズは“非常に重い容疑のため”前月に再収監されたと法務省が発表。しかし、『公衆の利益にはならない』との理由で、ヴェナブルズの再収監理由はしばらく公にされなかった。

同年6月21日、ヴェナブルズは児童わいせつ画像/映像の所持および流布の容疑で起訴された。子供のわいせつ画像/映像を大量にダウンロードし、他人もアクセスできるようネット上で公開したとの容疑だった。身元の秘匿を保護されているヴェナブルズは出廷せず、判事のみが彼の顔を見られるビデオ・リンクが設置された。法廷では次のような告発もあり、傍聴席は驚いた。「ヴェナブルズは、わいせつ画像を入手する目的で、インターネットのチャットルームで35歳の母親になりすまし、8歳の娘を有料で性的虐待のため貸し出すふりをした」というものだった。(この提案に乗り気だった52歳の相手も、児童わいせつ画像/映像所持の罪で起訴された。)ヴェナブルズはわいせつ画像/映像について有罪を認め、35歳の母親になりすましたことも認めた。彼は、ビデオ・リンクを通じて二つの言葉しか発さなかった。有罪を認める“guilty”を3回と、身元を確認されたときの“yes”を1回。2010年7月、ヴェナブルズは2年の懲役刑を受けた。

ヴェナブルズのわいせつ画像/映像所持と流布が発覚したのは、こういう経過だった。2010年2月、当時27歳のヴェナブルズは、「自分の本当の身元がばれ、すぐに逃げるよう警告を受けた」と、パニック状態で保護観察官に連絡。観察官が約30分後にヴェナブルズのもとに駆けつけると、彼はナイフと缶切りを使ってコンピューターのハード・ドライブを破壊しようとしていた。疑念をもった観察官は通報し、コンピューターは分析のため運び去られ、1200点余が既に破棄された形跡があったものの、99点の児童わいせつ画像/映像が発見された。中には大人によって性的虐待を受ける2歳児の映像もあった。

ヴェナブルズは容疑を全面的に認め、彼の法的代理人は次のようなコメントを発表した。

「ヴェナブルズは、自分が犯した罪と自分の行為から生じた害を認識し、深く後悔している。彼はまた、仮釈放されて以来彼を助けサポートしてきた人々を裏切ってしまったことも理解している。彼は今回の容疑で起訴されることがわかるやいなや有罪を認め、警察の捜査に全面的に協力した。彼は、プレッシャーのため深酒していた時期に犯した今回の犯罪行為は、愚かで思慮の浅いものであり、自分の行為には何の言い訳も成り立たないことを明言した。彼は自分の行為を心から恥じ、悔恨し、ああいった画像や映像がいかに児童を害にさらすものかということを今は理解している。・・・(中略)・・・

「仮釈放後、彼は家族と連絡を取るようになった。働かない時期はほとんどなかった。最低に近い賃金で、夜間や週末など変則的・非社交的な時間にも働いてきた。新しい友人もできた。しかし彼は、自分が抱える大きな秘密を身近な人間とは決して分かつことができない・・・そのことで彼は、いつまでもずっと一人ぼっちなのでは、との怖れを抱くようになった。彼は、この8年間にできた友達へも謝罪したいと述べている。彼等はヴェナブルズが嘘をついていたことに傷つき怒るだろうが、彼の事情を、本当のことを言えなかった理由を、理解してくれるよう望んでいる。彼はまた、今回のことがあってさえも彼をサポートし続けるであろう家族に対しても、謝罪したいと願っている。・・・(中略)・・・

「言い訳にするつもりはないが、ヴェナブルズは、仮釈放され社会に戻されたとき、炭鉱に下ろされたカナリアのように感じたと述べた。社会に復帰し普通の生活を送ることの難しさは、彼の想像をはるかに超えていた。それゆえ再収監は、彼に一種の安堵をもたらした。自分が再収監されるのは正義のために正しいことだと、彼は認識している。再収監中に彼は教訓を学び、今度こそ自分が理想とするような人間になって、いつの日か釈放されたとき、二度とふたたび収監されることがないようにしようと深く決意している。」

          ヴェナブルズが入所していた    更生施設

児童権利の活動家たちは、「安全な施設でヴェナブルズに与えられていた更生プログラムは明らかに失敗に終わった」のだから、法務省もある程度の非難を負うべきだと示唆した。これに対し法務省は、「2001年の仮釈放以来、ヴェナブルズには十分な保護観察がついていたのだから、再収監の原因となった犯罪行為の直接的な責任は、ジョン・ヴェナブルズのみにある」と反論した。施設での更生中、改悛の情を示し、めざましい進歩を見せ、「もはや社会の脅威ではない」とみなされた上で釈放されたはずのヴェナブルズ。なぜ再収監などという事態になってしまったのか。

エドワード・フィッツジェラルド勅撰弁護人は、「ヴェナブルズの極度に異常なる過去が、再犯への大きな役割を占めた」との意見を述べた。「いつ自分に及ぶかもしれない報復を怖れながら、まったくの別人として生きてゆかなければならないという異常な状況。孤独感から酒と麻薬に手を出し、それが抑制を失ったのだろう。仕事をこなし友達もできたが、女性と親密な関係になることはできなかった。そうなれば、自分の本当の身元を明かさなければならないというのが仮釈放の条件のひとつだからだ。」

専門家は口を揃えて、「1993年の裁判で大人として裁かれたという体験は、ヴェナブルズに大きな精神的ダメージを与えた」とする。当時、10歳と6ヶ月になろうとしていた二人。10歳未満だったら、たとえ殺人を犯しても罪に問われることはなかった。しかし大人として裁かれることになった二人のため被告席は上げ底され、判決後には彼等の氏名・住所・逮捕時の写真などが公開された。

2011年3月28日、驚くべきニュースが入った。更生施設に入所していたジョン・ヴェナブルズは、17歳だったときに施設の女性スタッフと性的関係をもっていたというものだった。告発によると、女性スタッフはヴェナブルズと施設の敷地内を散歩中、使われていない建物にヴェナブルズを導き入れ、そこで性関係をもった。彼女はその後停職処分を受け、そのまま二度と仕事に復帰することはなかった。この告発の真偽のほどはそのままうやむやになり、こういう告発があったという事実さえ、およそ10年にわたって隠蔽されていたことになる。

2011年6月。仮釈放委員会は、ヴェナブルズを引き続き収監することを決定した。同年11月には、「ヴェナブルズは釈放されたら自分の本当の身元を明かしてしまう可能性が高いため、収監は当分の間続くことになった」と発表された。

 

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ヴェナブルズの再犯・再収監でどうしても気になってしまうのが、ロバート・トンプソンのその後である。更生施設に入所していたトンプソンを8年間見守り続けたソーシャル・ワーカーの話。

「ロバートがジョンのように再犯を犯すとは思えない。そんなことになるには、彼は賢こすぎるし計算高すぎる。」更生を終えて施設から出て来た18歳のトンプソンは、ぞっとするほど好ましい、自信たっぷりの若者になっていた。「施設での彼の快適な毎日を知ったら、ジェームズくんの母親は怒り心頭に達することだろう。」更生期間中に一度も悔恨の表情も言葉も見せなかったトンプソンは、世界を震撼させた自分の犯罪を完全に自分から切り離し、葬り去ってしまったようだったという。

「世知にたけ、システムを知り、自分の権利もわきまえていた彼は、最初から生意気に振舞った。例えば彼は、こんな風な口をきいた。『何か飲みたい。何か飲む物持ってきてよ。すぐにだからね。』」内務省からはしょっちゅう役人が来て、すべて順調か、大丈夫かと大げさな空騒ぎをした。彼は、腫れ物に触るみたいに慎重に扱われた。ベッド数14の施設は3ユニットに分けられ、うちひとつは少女用のユニットだった。部屋はすべて個室で、夜はロックされた。トンプソンの部屋は5.4x3.6mあり、ベッド、机、椅子、テーブル、本棚があり、続きになったトイレ付のシャワールームもついていた。のちにトンプソンは、テレビとゲーム・コンソールも与えられた。彼は部屋の壁を、好みのプリントや絵画や家族の写真で飾った。更生施設の子供たちは、午前8時20分に起こされる。シャワーと朝食のあと、彼等は講習に向かう。レクリエーションの時間には、トンプソンはビリヤードをよくやった。バドミントンの腕も上達した。消灯は午後10時だった。

トンプソンには、友達もできた。母親を殺して収容された少年と、特に親しくなった。収容者の中には、若い強姦魔もいた。「何も知らない人に『この中でジェームズ・バルジャーを殺したのは誰か』と尋ねたら、おそらくトンプソンは、最後に指差される人間だったろう。」ソーシャル・ワーカーは、こうも述べた。「彼はユーモアのセンスもあり、他の子供たちが理解できないようなスタッフのジョークも理解した。聡明だったから、もっと別の環境にあれば、何かを成し遂げたかも、と思わずにはいられなかった。」もともと体格の良かったトンプソンは、トレーニングでさらに体を鍛えた。売られた喧嘩は、迷わず買った。トンプソンは、軽々しく喧嘩を売れる相手じゃない――子供たちには、すぐに明らかになった。喧嘩をしかけられると、彼はすばやく相手を殴り返した。冷静に、自信に満ちて。他の子供がするように、叫んだり金切り声を上げることなく。

ある晩、消灯時間近くに、トンプソンと別の少年の間で対決があった。居間に仁王立ちになったトンプソンは、消灯時間になり部屋に行くようスタッフに促されても、約40分間、その場から動かなかった。通常なら、罰として『贅沢品』であるテレビなどが取り上げられることになる。しかし他のスタッフは、そうすることに乗り気でなかった。「馬鹿げていると思った。上司にトンプソンが特別扱いを受けていると申し立てたが、相手は肩をすくめただけだった。」他人を説得する術にたけたトンプソンは、『仁王立ち事件』のあと、自分の消灯時間を遅らせることにまで成功した。10時になり他の子供たちが部屋に引き上げても、トンプソンだけは居間で20分ほどよけいにテレビを見ているようになった。トンプソンはユニットのマネージャーとも親しくなり、ある時などマネージャーは、談笑中のトンプソンと自分のためにお茶を入れるよう別のスタッフに申しつけたという。ソーシャル・ワーカーは言う。「私の考えでは、誰もトンプソンの機嫌を損ねたくなかったのだと思う。その結果を怖れるあまりね。経営陣は、トンプソンが必要だった。彼がいれば、内務省から施設の改善改修の為の予算を引き出せるからね。」実際施設は、トンプソン収容中に倍の規模になった。

トンプソンは、14歳になるまでに外出が許されるようになった。女性のスタッフと付き添い役のソーシャル・ワーカーに伴われ、彼は近くのショッピング・センターに出掛けた。スポーツ用品店で、貯めていたお金を遣って運動靴を買った。トンプソンは最初の外出時からリラックスした様子だったし、『あのロバート・トンプソン』と外出中に気づかれることもなかった。収容されている子供たちには、洋服代兼おこづかいとして、毎月約£60(¥8600)が与えられた。誕生日には、£25(¥3600)。クリスマスには、子供たちが欲しいもののリストをスタッフに渡し、現実的なものである限り、スタッフがそれらを買いに出掛けた。外出で、近所の森に出掛けることもあった。付き添い役が見守る中、トンプソンは自由に森の中を歩き回った。「トンプソンは付き合い易かったが、べたべたした関係を好むタイプではなかった。兄弟みたいにハグするとか、そういうことは一切なかったね。」

              トンプソンが入所していた    更生施設

16歳のとき、トンプソンに画期的な出来事が起こった。ガールフレンドができたのだ。かわいい赤毛の同い年の少女で、彼女は常習的な泥棒だった。お互いに一目惚れした二人は、それを隠そうともしなかった。彼女はトンプソンが誰で何をしたかを知っても、気に留めなかった。レクリエーションの時間には、二人は公然と抱き合い、キスをした。ロバートが彼女を個室に連れ込もうとし、スタッフが割って入ったこともあった。二人に性関係を結ばせるわけにはいかない。スタッフは懸念した。彼女は一年ほどを施設で過ごし、釈放されて出て行った。彼女との別れで内心傷ついていたとしても、トンプソンはそれをおくびにも出さなかった。それに彼には、決して彼をがっかりさせない女性が一人いた――彼の母親だった。アン・トンプソンは、三日に一度、息子を訪ねた。息子は彼女の訪問をはしゃいで喜び、いつも待ちかねる様子だった。

2001年6月にトンプソンとヴェナブルズの仮釈放が決定したとき、トンプソンが多少のおののきを感じていたとしても、それは表面上にはまったく表れなかった。通常は、入所者の釈放が決まるとスタッフはそれがいつかを教えられ、さよならを言うチャンスがある。しかしトンプソン(とヴェナブルズ)の場合は、二人の安全保障のため何の予告もなかった。ある日突然、彼の姿は施設から消えた。

8年間トンプソンを見守っていたソーシャルワーカーは、その後彼がパブに職を得たこと、しかし母親がそのパブに通ってはリバプール(バルジャー事件があった地)訛り丸出しで大声で喋ったため、身元発覚を怖れて仕事を辞めなければならなかったことを噂で聞いた。その後ソーシャルワーカーは、あるスポーツ・イベントで、偶然トンプソンに出会い言葉を交わした。驚いたことにトンプソンは、イベント会場の入場者誘導係を務めていた。その後も何度かソーシャルワーカーは、パブで飲んでいるトンプソンを見かけた。「トンプソンが釈放後に罪を犯したとは考え難い。再収監されたくなければ、トラブルを起こしてはならないと肝に銘じているはずだから。ヴェナブルズに起きたことを、トンプソンは嫌悪するだろう。全てが大波のように戻ってきて、自分の名前がふたたびスポットライトを浴びるなんてことは。」

2011年4月。トンプソンが、彼のために合法的に用意された偽名と偽のパスポートを使って、友人たちとヨーロッパに出かけていたことが明らかになった。保護観察は、国外までは及ばない。抜け目のないトンプソンは、事前に保護観察官に海外旅行を申請し、ちゃんと許可をもらってから出掛けたに違いない。このニュースは、世間の反発を買った。現在のトンプソンについては、「ホワイトカラーの仕事についている」、「本来の身元を隠したまま結婚した」、あるいは「同性のパートナーと同居している」など、いくつかの説がある。

 

≪敬称略≫

≪ につづく ≫

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4 コメント

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めぐみです! (めぐみ)
2013-03-28 21:08:40
このあいだコメントしためぐみです!覚えてますか?覚えていてくれた嬉しいですw☆^∇゜) ニパッ!!せっかくなのでメールできませんか?私ブログとかやってないのでお話がしたいです、アドは megmeee88あっとyahoo.co.jpです、待ってますね!(*゜ー゜*)ポッ
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ごめんなさい、でも・・・ (ハナママゴン)
2013-03-29 07:31:12
私はフルタイムで働く兼業主婦で、仕事と家事とブログの更新で手一杯なんです。そのうえ面倒臭がりだし。
だからここにコメントいただいたら、それにお返事して。というのが理想です。
ご理解いただければ嬉しいです。
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Unknown (美香)
2018-12-16 11:19:52
またまた1年前の11月にべナブルズは児童ポルノの所持などの容疑で逆戻りしてます。
刑務所はリンチを恐れて彼を隔離したそうです。
殺されても文句言えない立場なのに司法や警察の甘さ加減は呆れました。
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自業自得 (ハナママゴン)
2018-12-17 04:26:40
殺されても文句言えない、まさにおっしゃる通りです。
自分の人生を狂わせたのは、他でもない自分自身なのだから。
コイツといい古田順子さん事件の犯人たちといい手厚く保護されていて、被害者のことを思うと怒りが収まりません。・・・
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