ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

フレッド&ローズ・ウエスト ③ 生き延びた一女性

2014-03-13 22:48:20 | 事件

地上3階と地下室があった、クロムウェル街25番地。幅は狭いものの奥行きが深いこの家を、フレッド・ウエストは建築現場で覚えた技術をもって、自分とローズの用途にかなうよう改造した。

地下室は防音措置を施し“拷問室”にした。若い女性を監禁し、性的暴行や拷問を加え、レイプする――というのが二人の計画だった。さらにそこでは被害者女性たちのみならず、自らの娘たちも性的虐待を受けることになる。拷問室での最初の被害者は、当時8歳だったフレッドとリナの娘のアン・マリーだった。(詳しくは別記事に。)

 

  

 

表向きはごく普通の夫婦だったが、その裏ではフレッドとローズはその正反対だった。フレッドは暴力的な精神病質者、ローズは新しく見つけた『先生』から学ぶことを熱望する、精神的に深く歪んだ若い女だった。どちらもセックスに取り付かれており、どちらも意地悪く気性が激しく、どちらも犯罪に手を染めることに躊躇せず、どちらも他人に対して敵意以外の感情がなかった。子供たちは、幼いうちから叩かれた。ローズは何でもないことでかんしゃくを起こしては子供を木じゃくしで叩いた。理由などないことも多かった。

普通の性行為では満足できなくなっていたフレッドは、ローズに“趣味と実益を兼ねて”売春を始めさせた。もちろんローズに異論はなかった。2階の一室をそのための部屋にし、アルコールが飲めるカウンター“ブラック・マジック・バー”を備え付けた。壁にドリルで穴を開け、客と行為に及ぶローズの姿を覗き見て、フレッドは興奮した。時には客の合意を得たうえで、行為を録画することもあった。ローズの好みは有色人男性だったが、女性とのレズビアン行為も好んだ。緊縛、性的玩具、サド行為やレズビアン行為などが含まれる場合は、フレッドも参加した。客引きのためフレッドはローズのヌード写真を撮り、当時流行していたフリーセックス愛好者向けの雑誌に投稿した。余分な部屋は下宿人に貸し、ウマがあった下宿人とは乱交に及ぶこともあった。

 

                       ローズの売春広告                                  ブラック・マジック・バー 

                

 

 二人の逮捕後に明らかになった『恐怖の館』の見取図と、遺体の遺棄場所。

1.屋根裏:二人はここに、ポルノ写真や文書を保管していた。  2.二人の寝室  3.リンダ・ゴフの遺骸はこの浴室の床下の検査坑内に1973年に埋められた。発見されたのは1994年3月7日で、発見されたうちの8体目。  4.アリソン・チェンバーズの遺骸が1979年に埋められたのは庭のここ、浴室に近い場所だった。発見は2月28日の午後5時20分で2体目だった。  5.最初に発見されたヘザー・ウエストの遺骸が発見されたのはここ、庭の奥行きの半分ほどのところにあるモミの木の近く。1987年に埋められた遺骸は、1994年2月26日に発見された。  6.1978年に埋められたシャーリー・ロビンソンと胎児の遺骸は、裏口近くのこの場所で発見された。3体目で、2月28日午後9時頃の発見だった。  7.ままごと遊び用の家  8.朝食用カウンターと子供たち用スペース  9.地下室  10.地下室の右手のこの床下に、1973年キャロル・アン・クーパーの遺骸が埋められた。最後の9体目として彼女の遺骸が発見されたのは、3月8日午後7時10分。  11.ジャニータ・モットの遺骸は1975年に、地下室の壁の近くの凹間の床下に埋められた。彼女の遺骸は3月6日の正午頃発見された7体目だった。  12.地下室の“子供部屋”だったこの場所にルーシー・パーティントンの遺骸が埋められたのは1974年。3月6日の早い時間に発見された彼女は6体目だった。  13.地下室床下のここにテレ―ゼ・ジーゲンターラーの遺骸が埋められたのは1974年で、4体目として発見されたのは3月5日。  14.地下室のこの“マリリン・モンロー部屋”に1974年に埋められたシャーリー・ハバードの遺骸が発見されたのは3月5日午後3時ちょっと前で、5体目だった。  15.地下室へのトラップ・ドア(はね蓋/落とし戸)。  16.ブラック・マジック・バー

 

1972年10月。フレッドとローズは、田舎道のバス停にいた17歳のキャロライン・オーエンズを車に乗せてやった。人の良さそうなフレッド(31歳)とローズ(19歳)にキャロラインは打ち解け、「継父とそりが合わないのでできるだけ家に寄りつかないようにしている」ことや、「仕事を探している」ことを二人に話した。フレッドとローズは「ちょうど住み込みで子供たちの世話をしてくれる人を探していた」と彼女に持ちかけ、キャロラインは大喜びで二人の元に身を寄せることにした。『ミス○○』にも選ばれたことのあるキャロラインは非常に魅力的だったため、フレッドとローズはどちらが先に彼女を誘惑できるかを競争していたふしがある。

いざ住み込んでみると、クロムウェル街25番地は妙な家庭だった。ローズはささいなことで癇癪を起こし、子供たち(アン・マリー、ヘザー、メイ)を怒鳴り、叩いた。男が代わる代わるローズを訪れては、ローズと共に2階の部屋に消える。ある時キャロラインが2階で訪問客と何をするのか訊くと、ローズは自分はマッサージ師だと答えた。フレッドはキャロラインに、「俺は中絶ができるから必要があったら言ってくれ」「あまりに腕がいいものだから、中絶してやった女たちは感謝のあまり、こぞって体を提供してくる」などと言った。キャロラインは淫乱な話を好むフレッドが好きになれなかった。キャロラインに性的興味を示しすぎるローズもまた、妙だった。ある晩二人は、彼女を“友人たち”との乱交に誘った。それが冗談ではないと感じたキャロラインは、1972年11月、住み込みの手伝いを辞めて二人から逃れた。

4週間後の12月6日。キャロラインが恋人に会った帰りに田舎道を歩いていると、フレッドとローズが通りかかり、乗せて行ってやると申し出た。二人は初めて会った時のようにフレンドリーで、彼女を驚かせて出て行く結果にしてしまったことを詫びた。断るのも申し訳ないように思ったキャロラインは、車に乗り込んだ。が、彼女が乗り込むや否や、ローズは彼女の胸に触れながら彼女にキスしようとした。驚いたキャロラインがローズを押しのけると、フレッドは車を停めて、彼女を気絶するまで殴った。

 

      

 

気がついたら両手は後ろ手に縛られ、口元は梱包用テープでぐるぐる巻きにされていた。クロムウェル街の家に着くと、フレッドは笑いながら彼女を乱暴に2階に引きずり上げた。お茶を飲まされたあと、彼女は二人によって裸にされ、猿ぐつわをされ、長時間に及ぶ性的暴行を受けた。二人が眠ったので窓から逃げようとしたものの、両手が縛られていたため窓を開けられなかった。早朝、誰かが玄関先に来た。キャロラインは必死で音を立てようとした。気づいたローズは怒り狂い、彼女の顔に枕を圧しつけた。フレッドはキャロラインを「ローズの友達に使わせてやるため地下室に監禁し、用が済んだら殺してグロスターの歩道の敷石の下に埋める」と言った。(殺される)と確信したキャロラインは抵抗をやめ、二人のなすがままになった。

ローズが子供たちの様子を見に行ってしまうと、フレッドはキャロラインを最後にもう一度レイプした。キャロラインが泣くと、不思議なことにフレッドも泣き出し、「住み込みのお手伝いとして戻ってくれるなら開放してやる」と言った。これをチャンスとみたキャロラインは応諾し、自分の意思を裏付けてみせるため掃除までした。粘着テープの名残りを髪と肌から洗い落とすため、二人は彼女に三度も入浴させた。そのあとフレッドは、キャロラインとローズをコインランドリーで降ろした。数分後、キャロラインはローズを残してそこを出た。帰宅したキャロラインは、起こったことの一部は自分の落ち度と思い、母親には話せなかった。しかし翌朝、彼女の体についた痣を見た母親は警察に連絡した。フレッドとローズは逮捕された。

1973年1月12日、フレッドとローズはキャロラインの拉致と性的暴行で起訴され出廷した。これは若かったキャロラインに、二人を強姦罪で告発して法廷で証言する勇気がなかったためだった。男とその妻が一緒に告発されていたため、重大な性犯罪が犯されたとは法廷には信じられなかったと思われる。禁固刑は与えられず、二人はそれぞれ50ポンドの罰金を命じられただけで自由の身になって法廷を出た。 「私に起きたことを知っている人が少なければ少ないほどいい。これで終わった。決して忘れることはできないだろうけれど。」 彼女はそれからの20余年を、鬱病やアルコールや薬物使用などと闘いながら過ごした。

1994年2月。 「グロスターで夫婦逮捕、二人の実娘(失踪時16歳)はクロムウェル街の自宅の庭に埋められている疑いあり」というニュース速報が入ったとき、キャロラインは赤ん坊の娘と家にいた。 「フレッドとローズのことだと、すぐにわかったわ。娘というのはヘザーに違いないことも。頭は、混沌とした感情でぐるぐる回ったわ・・・ 怒り、恐れ、悲しみ・・・」 体が硬直し、心臓が早鐘のように鳴った。心の奥底に沈めてきた忌まわしい記憶が、溢れるように甦った。

「彼らは私の人生を暗いものにした。でも今の私には、あの時にはなかった強さと勇気がある。」 キャロラインには、正しいことをする決意ができていた。

 

         

 

同時にキャロラインは、自分を責めた。 「新たな遺体が発見されるたび、あの時二人を強姦で告発しなかったことを悔やんだわ。二人が禁固刑を受けていたらと思うと・・・ 私が二人に、その後何人も何人も、人殺しをするライセンスを与えてしまったように感じたわ。」 リンダ・ゴフは1973年4月に殺害された。もし二人が禁固刑を受けていたら、ちょうどその頃はまだ収監されていただろうから、キャロラインはリンダ・ゴフの死に最も責任を感じた。 だがもちろん、他の犠牲者に関しても責任を感じた。 「フレッドは私を逃がしたことによって、その後の犠牲者は決して逃がさないという方針を固めたのだもの。 私が彼女たちに死刑を宣告したのも同じ・・・。」

犠牲者たちの悪夢を見ることもあった。 「縛られテープでぐるぐる巻きにされた彼女たちが見えるの。椅子に縛り付けられ、猿ぐつわの下からうめき声を上げ、瞳で必死に命乞いをしている。皆が私をハグして助かったことを喜んでくれたけど、私は助かったことによる罪悪感に苛まれたの・・・」

1995年1月1日。 フレッドが拘置所内で自殺すると、原告側は無罪を主張し続けるローズに対する証人が、それまで以上に必要になった。 キャロラインの証言は、原告側の重要な切り札のひとつとなった。 過去20余年間忘れようと努めてきたあの夜。 私にはあの夜を、もう一度法廷で再現する義務がある。 殺された哀れな女性たち・・・ 彼女たちのために、ローズは正当な罰を受けなければならない。

証言台に立ったとき、キャロラインは冷静沈着だった。 まっすぐローズを見つめ、目をそらさなかった。 ローズは老いて、肥って、運動不足のようだった。  「瞬きもせず彼女を、彼女が目をそらすまで見つめ続けたの。彼女がした事を描写するたびに彼女を見たわ。でも彼女は、二度と私を見なかった。もう私を支配したり怖れさせたりはさせないと示したかったけれど、彼女は下を向いたままだった。」 

ローズは10件の殺人に関し有罪を宣告され、キャロラインはようやく、自分の人生を歩めるようになった。

 

                                  キャロライン・ロバーツ(旧姓オーエンズ)の著作

                                    

 

4人の子供の母親になった彼女は、現在グロスターシャー州のディーンの森に夫と住み、薬物やアルコール中毒症の若者の指導者として働く。 「あれが起こっていなかったら、私は鋼鉄の背骨を持つことはできなかったでしょうね。 永遠に犠牲者でいることはできないわ。 以前は何をやってもうまくいかないような気がして諦めかけていたけれど、今はその反対。 全身に力がみなぎって、やろうと思うことは何でもできる気がするの。」

犠牲者たちは、常に彼女の心の中にある。 「私、リナ・ウエストとアナ・マクフォールとシャーメイン・ウエストとリンダ・ゴフとキャロル・アン・クーパーとルーシー・パーティントンとテレーゼ・ジーゲンターラーとシャーリー・ハバードとジャニータ・モットとシャーリー・ロビンソンとアリソン・ チェンバーズとヘザー・ウエストに、約束したの。 『生きているうちは、何かポジティブなことをします』って。 彼女たちの死を防ぐことはできなかったけれど、他の人たちの死を防ぐことを手伝うわ。」

 

≪ につづく ≫

 

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